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act62. 這い上がれ
しおりを挟む彼女は真新しいキッチンに足を踏み入れる。
二畳……いや、3.5畳はあるだろうか。
見れば水道は浄水器つき。しかも、浄水器の蛇口がそれごと取り出せるホースになっていて、シンクの隅々まで洗うことが可能。
(これ、すごく、便利……)
胸の高鳴りを覚えつつ蛇口を戻し、他の部分も見て回る。うえにも下にも開き扉があり、収納に困らなさそう。彼女の立つ後ろにも右手にも広々としたスペースがあり、大きな冷蔵庫や食器棚なども間違いなく置ける。当然のように食洗機も装備されており賃貸のマンションとはなにもかも作りが違って見えた。
(食洗機、あったらすごく便利だろうな……)
彼女の実家にも食洗機はない。しかし、働く主婦には必須と聞く。
「やっぱり、すごいね、蒔田さん。……蒔田さん?」一緒にキッチンをうろうろしていたはずの蒔田がいない。見ればカウンターキッチンからいつのまにやら抜け出し。ソファーに座り、テレビを見ていた。たぶん、どれくらいの大きさのテレビが置け、ソファーまでどれくらいの距離があるかを見ているのだろう。見れば、予想通り、蒔田はメジャーを取り出し、テレビやソファーまでの距離を採寸し始めた。
テレビ嫌いの癖してテレビが好きなんだから(ゲームをやるためだけに)。
呆れつつ、そんな彼をカウンターキッチンから眺めていると、営業担当者が「いかがですか」とにこやかな笑みとともにやって来た。
* * *
彼女は、蒔田のマンションに暮らすと決めたものの、やはり、手狭で結婚するからには二人、いや三人以上で充分に暮らせる場所が欲しかった。
最初に一軒家を見に行ったものの家事が苦手な紘花のことを慮ってか。営業担当者にメンテナンスの大変さを聞いてから二人の気持ちはマンション一本に固まった。
見学しようと持ちかけたのは蒔田だが、彼女は喜んで毎週末ごとにモデルルームを見学している。たかがマンションされどマンション。戸建てに比べればバリエーションは少ないものの、それでも、見る人間の目を楽しませるようにできている。先ず間取りの豊富さ。2LDKから4LDKまで。キッチンひとつとっても、浄水器つきなのかディスポーザーつきなのか。とにかく選択肢が豊富で。飾り付けもしゃれていて。見に行くたび、彼女のなかで新生活への夢と希望が膨らむのだ。
ああ、あたし蒔田さんと生きていくのねと。
「これからご結婚されるお二人でしたら、一階ですとベランダがついておりますが、日照権の関係で、こちらのお部屋の前に建物が立つ可能性があります。ですので、三階か四階の物件がお勧めです」
モデルルームの見学を終え、席につくと、営業担当者が二人に説明をする。今回見る物件は、現在二人が住む場所とも近い便利な駅であるうえに、駅から徒歩十分内。近くに飲食店やスーパーや学校も揃っている、最良の物件だった。買えるのならここが良かった。
しかし、人気なだけあって選べる部屋が限られている。物件の契約状況を示すボードは、九割がた赤い薔薇の飾りで埋まっている。
「すこし帰って話し合ってから決めます」
「分かりました。ですが、この状況ですので、決断されるならお早めがよいかと思います」
彼女の顔色を見ながらそう言った蒔田に、営業担当者は頭を下げた。
* * *
「どうしよっか。蒔田さん、あそこ気に入った?」
「うん。値段も思っていたよりは安い。買うんなら遅くとも来週末までには返事しなきゃ駄目だろうな。売れちまう」
「なら、なんで『考える』なんて言ったの」
「きみが悩んでいるふうだったから」
「あ、そ……」驚くほどに彼女は見ぬかれている。
二人は、見学したモデルルームの近くのイタリアンレストランに来ている。通りがかり、食べて帰ろうという話になった。
「……あのね」フォークにパスタを巻きつけ彼女は言う。「やっぱりね、すこし、怖いの……」
蒔田が顔をあげる。黙って、続きを促すのを確かめ、彼女は言葉を繋ぐ。「マンションって一生のことじゃない。ローンとかちゃんと返せるのかって、すごく、不安で……」
「二人で働いていけば返せるさ。頭金も入れる。それから、……保険の事も考えておかないといけないな」
「保険って?」
「おれかきみになにかあったときのための保険。二人とも働いてるだろ? だから、事故にあったときとかの保証が必要じゃないか」
「考えたくないけど、……そうだよね」
「今度保険屋に行って話を聞きにいこう。といっても、早くて再来週だがな……」
来週末には彼女が蒔田の住まいに引っ越す。「じゃあ、マンションのことも、はっきし言って今週末くらいに決めとかなきゃ駄目なんじゃない」
「だよな。きみは、どちらが気に入った?」
「……あたしは箕輪(みのわ)さんの言うとおり、三階の4LDKかなあ……。東南向きで日当たりもいいし」
「おれもそう思う」
「じゃあ、決まり、……と言いたいところだけど、一晩寝て考えていいかなあ」
「いいよ。一生のことだ。二人で、考えよう」
「ありがとう……」
黙々とパスタを食す美青年のことを眺める。彼女は、蒔田の存在に救われている。
彼の行動力と判断力に何度助けられたか、分からない。
流産のことも自分ひとりだったら、悩んで、苦しんで、暗いトンネルから抜け出せなかったと思う。それでも――
自分ひとりになると。
自分を責めて、責めて責め続けて。
他人を羨んで妬んで、その感情に蓋をする。その繰り返しに、嫌気がさす。
街で子どもを見かけるたび、どうして自分が授からなかったのか。
あの親子といったいなにが違うのか。
自分だけどうしてこんな不幸な目に遭わなければならなかったのか。
運命を呪い続ける日々だ。その気持ちは、三週間以上経ったいまでも変わらない。
恐ろしいことに、彼女には、周りを呪う犯罪者の気持ちが分かる気がしていた。
これまでは絶対に、理解できないと思っていた犯罪者の気持ちが。
彼らは、自分が不幸すぎると感じるあまり、周りの幸せが妬ましいのだ。
自分に自信がなく、自分に自信を与えてくれる人間にも恵まれておらず。
本当の自分に向き合ってくれる人間も見つからず。
それに比べれば、自分には、父がいる。蒔田が、いる。彼も父親として苦しくないはずがないのに、彼女のことを最大限に大切にしてくれている。
実際、子供連れのいるお店には入らないようにしている。
彼女は、間取り図を広げた。明らかに子どもが生まれるのを意識した間取り。いつか、……蒔田との子どもを産み、そして、ここで、育てたい。
希望が彼女の胸に湧いた瞬間だった。明日とは言わず、いますぐに蒔田に伝えたい願望だった。
「蒔田さん、あたし――
幸せになるね」
顔をあげて蒔田が答える。小さく息を吸い、
「おれが、必ずおまえを、幸せにしてやる」
「うん」目に熱いものがこみあげるのを自覚しつつ、彼女は冷たいデザートに手を伸ばした。彼女の目の前には皿が二つ。蒔田が「おれのぶんも食え」と言ってよこしたかたちだ。激甘の食べものは嫌いだけれど、抹茶のジェラートは好物であることを知る彼女だが遠慮なく彼の好意に甘えた。
最後に、「一口食べる?」と訊くのを忘れずに。
*
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