恋は、やさしく

美凪ましろ

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act61. 落ちる、震える

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 妊娠検査薬を買うのは、彼女にとって勿論初めての経験だった。


 どきどきしながら結果を待つ。青い筋が出れば陽性。でなければ陰性……

 念のため五分も待ってから結果を確認する。


「あ……」


 * * *

 翌日、定時で会社を退社後に、携帯電話のブラウザで調べた婦人科クリニックに向かう。

 婦人科に行くのは初めてではないが、なんとなく緊張をする。受付の雰囲気は、歯医者のそれと変わらない。受付嬢が可愛らしくハキハキとしゃべるのも。

 座席は、明らかに妊婦らしきひとたちで占められていた。彼女は、席に座らず待った。指示され、お手洗いにて検尿をする。検査薬で検査をするらしい。同じ結果が出るに違いない。

 しかし――


 内診などの検査を受けた結果、待ち受けていた言葉は彼女の予想もしていないものだった。


「検査薬は陽性でしたが、残念ながら、……胎嚢が確認できないんですよ。

 二十四時間以内に出血があるかもしれません。その場合は――


 覚悟をしておいてください」


 医者の言葉を飲み込むのに時間がかかった。

 彼女は幸せの絶頂にあったはずだった。これから帰りに蒔田に電話をし、報告するつもりだった。

 どん底に叩き落とされた気分だった。

 医者は、呆然とする彼女に分かるように説明を続けてくれた。その言葉はどれもが――


 絶望的な予測に満ちていた。


 そんな結果を無論待ち望んでいたわけではない。が、彼女はなんとなく嫌な予感がし、翌日、会社を休んだ。

 お腹に生理痛のような痛みが走る。トイレに駆け込むと、生理とは明らかに違う、大量の出血があった。血を見ただけで、卒倒しそうだった。これは――


 医者の言う絶望的な予測が、当たっていたかたちだ。


 便座を抱え、泣き崩れた。その子が、生きていた期間は、たった五週間。確かにこのお腹にいたのに。

 お葬式を出すこともできない。

 トイレに流されるだけの運命。そんなことのために授かったのか。

 世の中のすべてを罵りたい気分だった。

 気持ちの整理のつかないまま、再び婦人科に行った。医者は自分を責めないように。早期の流産は、染色体異常などが原因であり、誰にも、ましてや母親にも絶対責任はありませんと繰り返し、説明をしてくれた。

 しかし、彼女のこころの闇は、晴れなかった。

 家に帰るとトイレに行く。血がまだ残っていた。どうしようもできなかったのだ。でも、いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。

 涙を流しさよならを告げ、流した。

 便座を、いつまでも離れることができなかった。

 ご飯を食べる気になど到底なれなかった。

 寝るときに蒔田からメールが来ていたことに気づいた。風邪引いたみたいだから、寝るね、とだけ打っておいた。

 * * *

 翌日は金曜日だった。比嘉にだけは電話で事情を話した。気にせず、来週も、気持ちが落ち着くまで休むといいわ、と言ってくれた。手短で的確な対応が彼女には、ありがたかった。

 マンションにひとり居ても、することがなにもない。テレビを点けてみても内容がまったく入ってこない。

 画面のなかで芸能人が笑っているのが腹立たしく、彼女はすぐに消した。

 どうすれば、助かったのだろう。

 なぜ、こんな目に遭わなければならなかったのか。

 婚前に、避妊せずにセックスしたから天罰がくだったのか。自分を責める言葉の羅列に苛まれる。

 ちゃんと、順序を守って、すれば、……助かったはずなのだろうか。

 理性では分かっているが、雪崩れ込む感情を、彼女はどうすることもできない。たまらず耳を塞ぐ。……そういえば。仕事が忙しかった頃。会社を休んだら、ショッピングとかドラマ観るとか、してみたいことがやまほどあった。

 はずなのに。

 なんとなく、体温が高い気がする。からだが火照って、頭がぼうっとする。

 口のなかが気持ち悪い。これは――

 どういう症状なのか彼女には分かっている。医者から説明を受けたから。もうお腹のなかにはいないのに、症状だけが残っているなんて――その事実が彼女を苦しめた。

 ちゃんと、産んでやれなくてごめんね。涙が、あとからあとから止まらない。布団に入り枕が濡れるくらい、泣き続けた。

 * * *

 枕元の時計を確かめる。まだ午前十一時。時間が経つのが異様に遅かった。転職先の会社では、『気がつけば夕方』だったのに。

 眠ってしまっていた事実にも、彼女は苦笑いをする。あんなことがあったのに、眠れるんだ。

 あの子が助からなかったのに。

「母親失格」と彼女は呟いて、布団を出た。

 トイレに行き、洗面所で鏡を見る。ひどい顔をしている。化粧どころか洗顔も歯磨きすらもしていなかった。

 気分はどん底だ。だが自分が落ち込んだところで子どもは返ってこない。

 まっ平らなお腹をさする。と、吐き気が喉元をせり上がる。からだの欲求するままに彼女は吐きつづけた。

 終わると布団に入った。涙が止まらなかった。苦しくて悲しくて、全身がこころが軋むように痛む。どうしようもできない。嗚咽が漏れる。ごめんね、ごめんねと失った我が子に語りかける。自責の念が、止まらない。

 真っ暗な穴蔵に落ち込んで出口が見えない。

 そんな彼女を救ったのは、一人の訪問者だった。

 何度もドアチャイムが鳴らされる。しつこい新聞の勧誘だろうか。眉を潜めつつ彼女は魚眼レンズを覗いた。

 思わぬ人物が立っており、腰を抜かしそうになった。

「いるんだな。入るぞ」彼女のマンションの合鍵を持つ彼は、容赦なく扉を開けた。彼女は腰が引けた。

 まだ、彼に事情を話せるほど気持ちの整理がついていない。彼の顔を直視する勇気が持てない。

 自分のからだを守るように抱きしめる彼女の前に、彼が、立つと、彼女の顔を見。

 なにも言わずに、彼女のことを、抱きしめた。彼女は感情が落ちていくのに、任せた。

 彼は、ただ、泣き続ける彼女の髪を撫で、待っていてくれた。


 * * *


 隣に、彼が居る。

 それだけで、真っ暗な海のただなかに明かりが灯ったかのようだった。頼れるひとがここにいる。彼は――

 なにも聞かずに。買ってきたコンビニのパスタを差し出し、彼女が食べるのを見守ってくれ、そして、隣で寝てくれている。近頃仕事で忙しいらしく。すぐ寝てしまった彼のことを責める気になどなれなかった。

 端正な横顔を見あげる。できることなら。

 そんな彼の子どもを、ちゃんと、産んであげたかった……。

 津波のような悲しみが彼女の喉元をせり上がる。苦しさに胸を押さえるがあふれ出るものを止められない。

「……どうした。紘花。泣いてるのか……」彼が、そんな彼女の様子に気づいた。「ううん、なんでもない」と彼女は首を振るが、漆黒の双眸に見据えられ。

 嘘が、つけなくなる。「……駄目、だったの」

 彼の瞳が、彼女の続きを待っている。「……五週目だったの。でも助からなく、て……」

 気がつけば彼女は彼の腕のなかにいた。後頭部に、あたたかい彼の手が添えられているのを感じる。そして、撫で続ける。

 その夜彼は、なにも、言わなかった。分かっていてのことだろう。

 ごめんね、と謝られれば彼女は自分のことを責め続ける。

 またできるさ、と言われれば彼女は現状に苦しめられる。なにも言わない彼の優しさに浸りつつ自分の悲しい暗い一面と向き合い続けた。


 * * *


 榎原の父には知らせたが、蒔田の両親には知らせないことにした。婚前のことで気に病むといけないと思い、彼女はそう判断した。

 会社には火曜日から出社した。高熱が出たんだってね、大丈夫? と心配し、お菓子をくれる同僚の優しさに胸が痛くなった。

 その日のランチは、比嘉と外で食べた。都会のまんなかとは思えない、緑に囲まれたイタリアンレストランだった。

 外の気持ちいい空気が彼女の頬を撫でる。

 店員に注文を終えると、比嘉が彼女に微笑みかけた。「もっと、休んでも、良かったのよ」

「いいえ。会社で働いているほうが、気が紛れますから……」

「そっか。あのね、流産経験者って意外と多いのよ。一人二人出産したひとでも、……双子を出産する前に流れちゃったひともいたな。

 誰も口にしないだけで、珍しいことではないのよ。

 だから、自分のことを、責めないで。

 あなたは、絶対に、悪くないんだから」

「頭では分かっているつもりでも、気持ちの整理が難しいですね」言って彼女は、自分の目に涙が滲んでいるのを、自覚した。「ほんっと、こころとからだがばらばらになったみたいで……」

「こんなことを言っても気休めにしかならないかもしれないけれど。

 五週間でも、その子はあなたの子どもでいられて、幸せだったと思うわ……。

 子どもは、親を選んでくるのよ。

 いまは考えられないかもしれないけれど。世の中には、なかなか子どもを授からないで苦しんでいるひとや、辛い不妊治療に励んでいるひともいるのよ。……榎原さんは、少なくとも、妊娠するからだを有している。

 そのことは、とっても幸せなことだと思うわ。

 お医者さんの言っていたとおり、次は、ちゃんと産まれてくるわよ……」

「ですかね……」彼女はハンカチで目元を拭う。周りにひとの少ないテラス席でよかったと思う。この環境も比嘉が配慮してくれたのだろう。

「うん。信じることよ」比嘉が、彼女の肩に手を添えた。「わたし、二人も産んでるんだから。榎原さんは、きっと、大丈夫。

 にしても。産まれてからが、大変よ。

 子育てできる体力をいまのうちに養っておくことを、おすすめするわ」

「ですね」彼女は、三日ぶりくらいに、笑った。すごく久しぶりのことに感じた。笑える元気が残っていることに、彼女は安堵した。この悪夢の三日間が、どこまでも、長すぎて、終わりのないものに感じられたくらいだったから。

 二人分のカルボナーラが来てからは、比嘉の子育ての話をたくさん聞き出し――

 そんな未来が訪れるだろうことを、彼女は、願った。

 *
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