恋は、やさしく

美凪ましろ

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act60. 心機一転

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「――お父さん。

 ぼくは、紘花さんと結婚させて頂きたいと思っております。

 どうか――

 よろしくお願いします」


 男前な男は頭を下げても男前だ。彼女は彼に見惚れつつ、自分も頭を下げた。「お父さん。……お願いします」

「うん……」曖昧な父の返事。怪訝に思い顔をあげたときに、彼女は父が、肩を震わせていることに気づいた。「紘花をこの手に抱いたときから、こんな日がいつか来るものだと思っていたよ。

 蒔田くん。どうか、僕のほうこそ……

 これからも、よろしくお願いします。

 娘のことを、頼みます」

 視界に父の手が入る。彼も座布団を降り、頭を下げている。

 言葉の余韻が消えると、全員が視線を交わし、自然、微笑んだ。これから幸せになる決意を固めた人間の集団だった。同じ思いを皆が、共有している。

「……お父さん」静かなる空気を彼女が破った。「あたし……幸せになるね。いままで、……ありがとう」

 ずっと、言いたくて言えなかった一言。

 実の娘でもない自分を、男手一つで育てぬいてくれたことへの礼を彼女は、ようやくして伝えられたのだった。

 父の顔が滲んで見える。「こら」と父は笑う。

「いますぐ嫁に行くわけじゃないんだからそんな顔をするな」

「……お父さん。あたしだけ幸せになって、ごめんね」

「紘花を受け入れることが、僕の幸せだったんだよ」さっと目元を拭うと、父は、娘に笑顔を向ける。「ぼくはきみに出会うことで、世の中のいろいろなことを知った。

 こんなに可愛い愛娘をいじめるやつのいる不条理だとか――

 それにも負けない人間の強さを知った。

 礼を言うのはぼくのほうだよ。僕のほうこそいままで、ありがとう」

「お、父さん……」もはや彼女はあふれるものを抑えることができない。そっと、背中に手を添える彼のことを感じる。それだけで――

 ああ、許されたのだ、と彼女は感じた。彼女はずっと、

 自分の存在が、父の人生を変えてしまったことを、重く受け止めていた。

 突然現れた引き取り手の無い姪の存在こそが、榎原俊之の足かせとなり彼の自由を奪ってきたのではないかと。だが父の目は、

 喜びに、満ちている。ああ父のこんな顔をもっと見たい、と彼女は思った。

 あたしに娘なんか産まれたら、きっと、もっと、喜んでくれるだろう。

 彼女は微笑み、お腹に手を当てた。新たな命が宿っていることを期待して。

 だがその期待に対しては――


 悲劇的な結末が、待っていた。


 * * *


 かっことじるを先に入力してからかっこのなかの文章を入力する。

 ExcelならF2を押下。

 プログラムをかじったことのある人間なら誰でもそうするものだが、そうしない人間も案外多いことに、転職して初めて彼女は気づいた。

「どう。新しい職場には慣れた? 榎原さん」

 パソコンに向き合う彼女は、通りがかりに社長に声をかけられる。彼女は背筋を正し、「はい」と返事をした。「みなさんとてもよくしてくださいます」

 これは社交辞令ではない。皆が皆入社したばかりの彼女に、優しいし、分からないところは至極親切に指導してくれる。

 どちらかといえば習うより慣れろ。体育会系の雰囲気に慣れていた彼女にとっては、これまた新鮮な体験だった。

「そっか。よかった」社長である比嘉が微笑み返す。髪を耳にかけ、「ねえ来週の金曜の夜は、空いてる? よかったら、榎原さんの歓迎会をしようかと思ってるんだけど。この近くで」

 いいんですか? と彼女は言わない。そういう遠慮が不要であることは、入社一日目にして分かったことだ。「はい。喜んで、出席させて頂きます」

「なにか好きなものとかある? 中華か和食にしようと思っているんだけど」

「あ。中華が食べたいです」

「分かったわ」自然とこぼれる比嘉の微笑を、美しいものと彼女は感じた。「じゃあ、糸部くんから周知メールが来るだろうから、それを待っててね」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」彼女は頭を下げた。

 比嘉の会社における立ち位置を彼女は理解した。社長はトップに立つ者だけれど、皆に慕われている。いつも自然な感じで輪に入ったり、状況を観察したりしている。

 キーボードのうえで止めていた手を再び動かす。彼女は、一週間で仕事の全容を把握した。あとは流れを頭と手に叩きこむだけ。電話応対に来客対応。書類の入力や管理など雑用が主。多岐にわたる仕事を覚えるのは骨が折れるがやりがいもあった。

 入社して一週間で、彼女は自分の決断が正しかったことを確信した。蒔田の見抜いた通りで自分にはアシスタント的な仕事のほうが合っているのだ。

 職場が違うとはいえ同じ会社に勤めていた最愛の婚約者と離れてしまったのは悲しい事実だが、彼女のこころは、新天地での現実を受け止めている。

 帰宅してから、その彼に電話をした。「蒔田さん。こんばんは」

「……うす」

「蒔田さん。飲んでるの?」

「メールに書かなかったっけ。おれ、今日は飲み会」

「八時に帰れるだけとしか……」

「あーそうか」電話越しに聞く蒔田の声は、なんだか辛そうだ。傍にいたらさっとコップに入れた水を運んであげるのに。と、頭を掻いている気配。「……飲み過ぎた」

「大丈夫ですか蒔田さん。あたし、そっちに行かなくっても」

「おまえ、明日も会社あるだろ」

「それは蒔田さんも同じですけど……」と彼女は髪をタオルで乾かしていた手を止める。「……激薄のウーロンハイを作ってくれるひとは居なかったんですか?」

「おまえほど気の利く人間は、ほかにいない」

 どきりとして彼女はパジャマの胸に手を当てる。「……褒め言葉なんですよね、それ」

「……好きだよ紘花。あー抱きたい」

「ちょ、どんだけ飲んだんですか、蒔田さんたら……」

「おれ、おまえのからだが好き。

 顔も好き。

 全部好きすぎてたまんねー……」

 しらふに戻ったときに、果たして蒔田は一連の台詞を覚えているのかどうか。そんな心配よりも、彼女は、頭のなかに叩き込むことに集中した。昼間の仕事よりも真剣に。

 と、蒔田がまた口を開く。「……紘花ぁー」

「なんですか、蒔田さん」

「おれのこと、好き?」

「好きです。愛してますよ」

 うーん、と蒔田が口のなかでなにかを転がすように言っている。「おれ……

 おまえ以外に誰もいない。

 おまえに捨てられたらたぶん生きていけねえ。だから……」

 ここで言葉が切れる。「あー。自分でなに言ってるかさっぱり分かんねー」

「……伝わってますよ、蒔田さん」

「変だよなおれ。おまえと出会えて、一緒にいないときのほうが、昔よりも、寂しく感じるんだ」

「それはあたしも同じです。蒔田さんがいないと寂しい」

「はやく一緒に暮らしたいなー」

「そうですね」酔っぱらいの話は、滅裂で、長い。そのことを知りつつも、彼女は。

 いつもと違う、蒔田に、触れていたかった。

「うふふ」と彼女は笑う。「蒔田さんあたしのことどれだけ好きなんです」

「……言葉じゃあ絶対に言い表し切れない」

「女は、言葉が、欲しいんです」

「後ろからめちゃめちゃにしてやりたいくらい」

「……蒔田さんらしい表現ですね」彼女は、幾度も『そうされた』ことを思い返し、咳払いをする。「蒔田さん。まったりトークもいいですけど、はやくお風呂入ってお酒抜いて寝たほうがいいですよ」

 んーそうする。という蒔田の声が子どもっぽくて、彼女の笑いを誘った。くすくすと笑っているうちに、「じゃあおやすみ、紘花」

「おやすみなさい。蒔田さん」

 電話を切ろうとしたときにキスの音を聞いた。

 思わず、笑った。彼は相当酔っている。

 相当、彼女のことが、好きらしい。いつも毅然として堂々としている蒔田が、あんなふうになるなんて……酔って愛を告白する『姿』を確かめられないのは残念だが、それはまた二人で暮らし始めるときの楽しみとしてとっておこう。

 立ち上がり、カーテンを開き、ぽっかり浮かんだ月を見上げ、彼女は、ひとり呟く。


「おやすみなさい、蒔田さん。

 今日も、明日も、あなたが大好きよ」


 いつだって想いが行動を形づくる。

 大都会の真っ暗な空に、星が輝いて見えた。


 *
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