君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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雨の名残と無感情

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アスファルトにまだ残る雨の筋が、街灯の光を柔らかく滲ませていた。
夜の歌舞伎町は、雨上がりの湿気を帯びながらも、相変わらずぎらついたネオンを纏っていた。通りには週末らしいざわめきがある。キャッチの男たちが声をかけ、笑い声と車のエンジン音が交錯する。そんな喧騒のなかで、駒川悠生こまがわゆうせいはまるで別の時間軸を歩いているかのように、静かにその場に立っていた。

「ほら、歩く。もうすぐ着くから」

長堀千景ながほりちかげが笑いながら腕を軽く引く。昔の恋人で、今はただの友人。彼女の声には、少しばかりのからかいと、少しばかりの心配が混じっていた。

駒川は無言で頷いた。何も言わない。それが今の彼の精一杯だった。

スーツの上着はきっちりと着たままだが、シャツの襟元には雨の名残がほんのり滲んでいる。ネクタイは緩めてある。解いたのではなく、ただ引っ張って緩めただけ。指先の動きには焦りも、丁寧さもなかった。投げやりな仕草で、ただ空気を通したかっただけだった。

「ほんと、死んだ魚みたいな顔してる」

千景が冗談めかして言うが、駒川の表情は動かない。口角すらわずかに下がったまま、目の奥には光がない。頬の肉は痩せて、目の下には薄く青い影が落ちていた。

「最近、眠れてないでしょ」

「まあね」

答えた声もまた、どこか削げていた。喉の奥でかすれるような音を出しながら、駒川は歩みを再開する。足取りは重くない。ただ、行き先に対する興味がまるで感じられない。

「ここ。今日の目的地」

千景が指差したのは、少し奥まったビルだった。大通りから一筋入った路地。看板は控えめで、表通りのような派手さはない。

エレベーターの横に設置された電飾看板には、優雅な書体でこう書かれている。

Le Papillonル・パピヨン

「蝶の店ってこと?」と駒川が小さくつぶやいた。

「そう。夜の蝶たちの楽園ってやつよ。知り合いに紹介してもらったの。女装バーなんだけど、雰囲気が落ち着いてて、お客もマナー良いし」

「…へえ」

乾いた相槌だった。まるで、どこか別の場所から台詞だけを借りてきたような温度だった。

駒川は目を細めて、看板を見上げた。雨粒の跡が残る蛍光灯のカバーが、淡い光をにじませている。高揚も、好奇心もない。ただ、黙ってそこに立ち尽くす。

どうせ大したもんじゃないだろ。

内心でそう思った。どんなに綺麗な顔をしたキャストがいても、どんなに優しい言葉を並べられても、自分の中に何かが満たされることはない。今までそうだった。これからもそうだ。

千景が先に階段を上っていく。ヒールの音が、湿ったコンクリートに乾いた音を刻む。駒川はその背中を黙って追う。

このところ、何を見ても胸が動かなくなっていた。
仕事も、同僚の会話も、テレビドラマのセリフも。
何かが壊れたように、音も感情も、自分の内側を通り過ぎていくばかりだった。

バーだとか、女装だとか、そんなものに何を期待しろというのか。
期待することに疲れた自分が、今さらどこかで救われるとも思っていない。

だが、だからといって、断る気力すらない。

店の入り口の前で、ふと立ち止まる。
ガラス扉越しに、柔らかな光が溢れていた。
聞こえてくる音楽は、ジャズ。
しっとりとしたトランペットの音が、心の奥の深い場所で、ほんの少しだけ…小さく波紋を立てる。

それが何かは、まだわからない。
けれど、駒川はその扉を、千景の後ろに続いて開けた。

薄く微笑む接客係に出迎えられ、案内されたのはカウンター席。
店内は思っていたよりも広く、落ち着いた雰囲気だった。
照明はあえて客の顔を明るく照らさず、キャストの輪郭だけが柔らかく浮かぶように工夫されている。

席に腰を下ろすと、駒川は一つ息を吐いた。
手元のグラスに注がれた琥珀色の液体が、氷の音とともに静かに揺れている。
彼はその音にすら、心を動かされない自分を、少しだけ自嘲した。

ただ、それでも…

この空気だけは、ほんのわずかに違う気がした。

気のせいかもしれない。
それでも、何かが始まるような…微かな前兆を、彼はまだ知らなかった。
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