2 / 61
雨の名残と無感情
しおりを挟む
アスファルトにまだ残る雨の筋が、街灯の光を柔らかく滲ませていた。
夜の歌舞伎町は、雨上がりの湿気を帯びながらも、相変わらずぎらついたネオンを纏っていた。通りには週末らしいざわめきがある。キャッチの男たちが声をかけ、笑い声と車のエンジン音が交錯する。そんな喧騒のなかで、駒川悠生はまるで別の時間軸を歩いているかのように、静かにその場に立っていた。
「ほら、歩く。もうすぐ着くから」
長堀千景が笑いながら腕を軽く引く。昔の恋人で、今はただの友人。彼女の声には、少しばかりのからかいと、少しばかりの心配が混じっていた。
駒川は無言で頷いた。何も言わない。それが今の彼の精一杯だった。
スーツの上着はきっちりと着たままだが、シャツの襟元には雨の名残がほんのり滲んでいる。ネクタイは緩めてある。解いたのではなく、ただ引っ張って緩めただけ。指先の動きには焦りも、丁寧さもなかった。投げやりな仕草で、ただ空気を通したかっただけだった。
「ほんと、死んだ魚みたいな顔してる」
千景が冗談めかして言うが、駒川の表情は動かない。口角すらわずかに下がったまま、目の奥には光がない。頬の肉は痩せて、目の下には薄く青い影が落ちていた。
「最近、眠れてないでしょ」
「まあね」
答えた声もまた、どこか削げていた。喉の奥でかすれるような音を出しながら、駒川は歩みを再開する。足取りは重くない。ただ、行き先に対する興味がまるで感じられない。
「ここ。今日の目的地」
千景が指差したのは、少し奥まったビルだった。大通りから一筋入った路地。看板は控えめで、表通りのような派手さはない。
エレベーターの横に設置された電飾看板には、優雅な書体でこう書かれている。
Le Papillon
「蝶の店ってこと?」と駒川が小さくつぶやいた。
「そう。夜の蝶たちの楽園ってやつよ。知り合いに紹介してもらったの。女装バーなんだけど、雰囲気が落ち着いてて、お客もマナー良いし」
「…へえ」
乾いた相槌だった。まるで、どこか別の場所から台詞だけを借りてきたような温度だった。
駒川は目を細めて、看板を見上げた。雨粒の跡が残る蛍光灯のカバーが、淡い光をにじませている。高揚も、好奇心もない。ただ、黙ってそこに立ち尽くす。
どうせ大したもんじゃないだろ。
内心でそう思った。どんなに綺麗な顔をしたキャストがいても、どんなに優しい言葉を並べられても、自分の中に何かが満たされることはない。今までそうだった。これからもそうだ。
千景が先に階段を上っていく。ヒールの音が、湿ったコンクリートに乾いた音を刻む。駒川はその背中を黙って追う。
このところ、何を見ても胸が動かなくなっていた。
仕事も、同僚の会話も、テレビドラマのセリフも。
何かが壊れたように、音も感情も、自分の内側を通り過ぎていくばかりだった。
バーだとか、女装だとか、そんなものに何を期待しろというのか。
期待することに疲れた自分が、今さらどこかで救われるとも思っていない。
だが、だからといって、断る気力すらない。
店の入り口の前で、ふと立ち止まる。
ガラス扉越しに、柔らかな光が溢れていた。
聞こえてくる音楽は、ジャズ。
しっとりとしたトランペットの音が、心の奥の深い場所で、ほんの少しだけ…小さく波紋を立てる。
それが何かは、まだわからない。
けれど、駒川はその扉を、千景の後ろに続いて開けた。
薄く微笑む接客係に出迎えられ、案内されたのはカウンター席。
店内は思っていたよりも広く、落ち着いた雰囲気だった。
照明はあえて客の顔を明るく照らさず、キャストの輪郭だけが柔らかく浮かぶように工夫されている。
席に腰を下ろすと、駒川は一つ息を吐いた。
手元のグラスに注がれた琥珀色の液体が、氷の音とともに静かに揺れている。
彼はその音にすら、心を動かされない自分を、少しだけ自嘲した。
ただ、それでも…
この空気だけは、ほんのわずかに違う気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、何かが始まるような…微かな前兆を、彼はまだ知らなかった。
夜の歌舞伎町は、雨上がりの湿気を帯びながらも、相変わらずぎらついたネオンを纏っていた。通りには週末らしいざわめきがある。キャッチの男たちが声をかけ、笑い声と車のエンジン音が交錯する。そんな喧騒のなかで、駒川悠生はまるで別の時間軸を歩いているかのように、静かにその場に立っていた。
「ほら、歩く。もうすぐ着くから」
長堀千景が笑いながら腕を軽く引く。昔の恋人で、今はただの友人。彼女の声には、少しばかりのからかいと、少しばかりの心配が混じっていた。
駒川は無言で頷いた。何も言わない。それが今の彼の精一杯だった。
スーツの上着はきっちりと着たままだが、シャツの襟元には雨の名残がほんのり滲んでいる。ネクタイは緩めてある。解いたのではなく、ただ引っ張って緩めただけ。指先の動きには焦りも、丁寧さもなかった。投げやりな仕草で、ただ空気を通したかっただけだった。
「ほんと、死んだ魚みたいな顔してる」
千景が冗談めかして言うが、駒川の表情は動かない。口角すらわずかに下がったまま、目の奥には光がない。頬の肉は痩せて、目の下には薄く青い影が落ちていた。
「最近、眠れてないでしょ」
「まあね」
答えた声もまた、どこか削げていた。喉の奥でかすれるような音を出しながら、駒川は歩みを再開する。足取りは重くない。ただ、行き先に対する興味がまるで感じられない。
「ここ。今日の目的地」
千景が指差したのは、少し奥まったビルだった。大通りから一筋入った路地。看板は控えめで、表通りのような派手さはない。
エレベーターの横に設置された電飾看板には、優雅な書体でこう書かれている。
Le Papillon
「蝶の店ってこと?」と駒川が小さくつぶやいた。
「そう。夜の蝶たちの楽園ってやつよ。知り合いに紹介してもらったの。女装バーなんだけど、雰囲気が落ち着いてて、お客もマナー良いし」
「…へえ」
乾いた相槌だった。まるで、どこか別の場所から台詞だけを借りてきたような温度だった。
駒川は目を細めて、看板を見上げた。雨粒の跡が残る蛍光灯のカバーが、淡い光をにじませている。高揚も、好奇心もない。ただ、黙ってそこに立ち尽くす。
どうせ大したもんじゃないだろ。
内心でそう思った。どんなに綺麗な顔をしたキャストがいても、どんなに優しい言葉を並べられても、自分の中に何かが満たされることはない。今までそうだった。これからもそうだ。
千景が先に階段を上っていく。ヒールの音が、湿ったコンクリートに乾いた音を刻む。駒川はその背中を黙って追う。
このところ、何を見ても胸が動かなくなっていた。
仕事も、同僚の会話も、テレビドラマのセリフも。
何かが壊れたように、音も感情も、自分の内側を通り過ぎていくばかりだった。
バーだとか、女装だとか、そんなものに何を期待しろというのか。
期待することに疲れた自分が、今さらどこかで救われるとも思っていない。
だが、だからといって、断る気力すらない。
店の入り口の前で、ふと立ち止まる。
ガラス扉越しに、柔らかな光が溢れていた。
聞こえてくる音楽は、ジャズ。
しっとりとしたトランペットの音が、心の奥の深い場所で、ほんの少しだけ…小さく波紋を立てる。
それが何かは、まだわからない。
けれど、駒川はその扉を、千景の後ろに続いて開けた。
薄く微笑む接客係に出迎えられ、案内されたのはカウンター席。
店内は思っていたよりも広く、落ち着いた雰囲気だった。
照明はあえて客の顔を明るく照らさず、キャストの輪郭だけが柔らかく浮かぶように工夫されている。
席に腰を下ろすと、駒川は一つ息を吐いた。
手元のグラスに注がれた琥珀色の液体が、氷の音とともに静かに揺れている。
彼はその音にすら、心を動かされない自分を、少しだけ自嘲した。
ただ、それでも…
この空気だけは、ほんのわずかに違う気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、何かが始まるような…微かな前兆を、彼はまだ知らなかった。
20
あなたにおすすめの小説
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
【完結】幼馴染に告白されたけれど、実は俺の方がずっと前から好きだったんです 〜初恋のあわい~
上杉
BL
ずっとお前のことが好きだったんだ。
ある日、突然告白された西脇新汰(にしわきあらた)は驚いた。何故ならその相手は幼馴染の清宮理久(きよみやりく)だったから。思わずパニックになり新汰が返答できずにいると、理久はこう続ける。
「驚いていると思う。だけど少しずつ意識してほしい」
そう言って普段から次々とアプローチを繰り返してくるようになったが、実は新汰の方が昔から理久のことが好きで、それは今も続いている初恋だった。
完全に返答のタイミングを失ってしまった新汰が、気持ちを伝え完全な両想いになる日はやって来るのか?
初めから好き同士の高校生が送る青春小説です!お楽しみ下さい。
地味メガネだと思ってた同僚が、眼鏡を外したら国宝級でした~無愛想な美人と、チャラ営業のすれ違い恋愛
中岡 始
BL
誰にも気づかれたくない。
誰の心にも触れたくない。
無表情と無関心を盾に、オフィスの隅で静かに生きる天王寺悠(てんのうじ・ゆう)。
その存在に、誰も興味を持たなかった――彼を除いて。
明るく人懐こい営業マン・梅田隼人(うめだ・はやと)は、
偶然見た「眼鏡を外した天王寺」の姿に、衝撃を受ける。
無機質な顔の奥に隠れていたのは、
誰よりも美しく、誰よりも脆い、ひとりの青年だった。
気づいてしまったから、もう目を逸らせない。
知りたくなったから、もう引き返せない。
すれ違いと無関心、
優しさと孤独、
微かな笑顔と、隠された心。
これは、
触れれば壊れそうな彼に、
それでも手を伸ばしてしまった、
不器用な男たちの恋のはなし。
旦那様と僕
三冬月マヨ
BL
旦那様と奉公人(の、つもり)の、のんびりとした話。
縁側で日向ぼっこしながらお茶を飲む感じで、のほほんとして頂けたら幸いです。
本編完結済。
『向日葵の庭で』は、残酷と云うか、覚悟が必要かな? と思いまして注意喚起の為『※』を付けています。
僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
【完結】後悔は再会の果てへ
関鷹親
BL
日々仕事で疲労困憊の松沢月人は、通勤中に倒れてしまう。
その時に助けてくれたのは、自らが縁を切ったはずの青柳晃成だった。
数年ぶりの再会に戸惑いながらも、変わらず接してくれる晃成に強く惹かれてしまう。
小さい頃から育ててきた独占欲は、縁を切ったくらいではなくなりはしない。
そうして再び始まった交流の中で、二人は一つの答えに辿り着く。
末っ子気質の甘ん坊大型犬×しっかり者の男前
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる