君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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鏡のなかのもう一人

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鏡の前に座ると、涼希は手慣れた動作で化粧ポーチのジッパーを開けた。小さなブラシの先を整えるように指で弾き、ファンデーションを乗せる。肌の赤みを消すように、丁寧に、だが機械的に。ルーチンワークのようなその動きには迷いがなかった。

ただ、鏡の中に映る自分の顔を見つめるその目だけが、どこか遠くを見ていた。まるでガラス越しに、もう一つの世界を見ているような…そんな色だった。

目元を整え、フェイスラインを際立たせるようにシャドウを入れ、リップはあえて血色を抑えたヌーディなカラーを選ぶ。顔全体が仕上がってくるにつれ、そこにいるのは「中野涼希」ではなくなっていく。

テーブルに置いたスマホの時間が、20時14分を示していた。雨は、もう上がっているだろうか。控え室の外の音は、ドレッサーの照明に照らされるほどには明るくなく、どこか冷たく沈んでいた。

黒のショートボブのウィッグを被ると、彼の表情からは、さらに感情が薄れた。静かな呼吸とともに、彼はアイラインを引きはじめる。右手の指先が、まるで撫でるようにまぶたをなぞる。ピンと張られた視線は、まっすぐに鏡の自分を射抜いているのに、その奥は虚空を映している。

口元はわずかに緩み、けれど決して笑ってはいない。

心の中で、彼はぽつりと呟いた。

今夜も、別の誰かとして生きる。

この顔、この声、この姿は、仮面だと分かっている。でも、それを纏わなければ、ここでは生きられない。そう思い込むことで、ここまでやってきた。

ネイルは短めだが、きちんと手入れされた爪の先が、最後の仕上げとして口角をほんの少しだけ持ち上げた。これで、完璧だ。誰も、仮面の下を覗き込もうとはしない。

その瞬間、後ろから声がした。

「りょう、準備できた?」

低く柔らかい声だった。まるで絹を滑らせるようなその声音には、少しだけ湿り気があった。阿波座ママだ。涼希は鏡越しに視線を動かし、ゆっくりと振り返る。

「ええ…すぐ行きます」

そう答える声には、ほんのわずかな揺れが混じっていた。自分でも気づくほどの、不自然な呼吸。

ママは微笑み、近づくでもなく、ただその場で見守るように言った。

「今夜は、なんだか空気が違うわ。何か、起きるかもしれない」

涼希は視線を鏡に戻した。鏡の中の“りょう”が、自分を見返してくる。

その顔は完璧で、隙がなかった。でも、どこかで…少しだけ、綻び始めている気がした。

指先が膝の上で少しだけ震えていたのを、自分でも驚いたほどだ。だが、それを悟られないように、スカートの裾をそっと直す仕草で隠す。

照明が静かに落ち、店内のBGMが聴こえてきた。夜の蝶たちが舞う時間が始まる。

涼希は深く一度だけ息を吸い、呼吸を整えた。

立ち上がると、ハイヒールの底が控え室のフローリングに小さく鳴った。その音が、自分を“りょう”へと変えるスイッチのように感じられる。

まっすぐに鏡を見る。

中野涼希は、そこにいない。
いるのは、夜の蝶“りょう”。
完璧に仕上げられた仮面を纏い、静かに舞台へと歩き出す。

ただひとつだけ、いつもと違ったのは…
鏡のなかの“りょう”が、ほんの少しだけ、
誰かに見つけられることを願っているような目をしていたことだった。
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