君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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蝶たちの夜会

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店の扉をくぐると、湿った路地裏の気配は一瞬で消え、まるで別世界に入り込んだようだった。

低く抑えられた照明は天井の間接灯と、棚の奥に仕込まれた細い光源だけで構成されており、視界は穏やかにぼやける。客の顔がはっきりと見えないのは、意図的な演出だろう。誰かを探すでもなく、誰にも見られないまま、ただ「今」という時間だけに身を預ける場所。そんな空気が、静かに肌を包んでいく。

店内には、シャンソンが流れていた。女性ボーカルの吐息まじりの歌声が、グラスに注がれた酒のようにじんわりと空間に染み込んでいる。

視界の端を、ふわりとしたスカートの裾がすれ違っていった。キャストたちがいくつかのテーブルで客に向かって微笑み、時折、笑い声が響く。けれどその笑い声には、よくあるバーのような軽薄さがなかった。耳障りにならない分量で、人を試さず、人を癒やす声音。そこには、演技ではなく「在り方」があった。

カウンターに案内された駒川は、深くも浅くもない椅子に腰を下ろし、黙ってグラスに手を伸ばした。ウイスキーの琥珀色が、氷の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。照明がその輪郭を細く撫でるたびに、彼の指先も微かにその色に染まった。

口元にグラスを運び、一口。喉を過ぎるアルコールに、何の感想も湧かない。味を感じることはできた。香りもあった。けれど、それが何かを揺らすことはなかった。

こうして、無感動のまま数分が過ぎた。意識は、遠くの暗がりに沈みかけていた。もしかしたらこのまま、何も起きずに夜が終わるかもしれない。そう思いかけた、そのときだった。

ふわりと、甘く淡い香りが風に乗って届いた。わずかに遅れて、ハイヒールの細かな足音。視線を上げるよりも早く、柔らかな黒のロングワンピースが視界に入った。レースの縁取りが肩口で揺れ、そこから覗く肌は、白いというよりも淡く光を弾くようだった。

すとんと音もなく座ったその人物に、駒川は自然と視線を向けた。

その顔は…美しかった。

けれど、美しさに対して、何かを評価する感情は湧かなかった。驚くべきは、むしろその空気だった。

視線の高さを合わせるように、彼女…いや、彼が、穏やかに微笑む。

「こんばんは」

声は低めだった。けれど、濁りや強さはなかった。乾いた夜に差し出される、一杯の白湯のような温度だった。熱くも冷たくもなく、ただそこにあって、喉を通るもの。

「今日は…初めて、ですよね」

問いかけではなく、確認でもない。会話の起点に過ぎない言葉だったのに、その声音だけで、不思議と駒川の中にあった壁の一枚が、音もなく剥がれ落ちるのがわかった。

「…かもしれない」

ようやく、返事を絞り出すと、りょうと名乗ったそのキャストは、柔らかく目を細めた。

彼がテーブルにグラスを置く仕草には、一切の迷いがなかった。まるで長年同じ動作を繰り返しているかのような、静かな習熟。そして、その手の甲がほんの一瞬、光に触れたとき、涼やかな血の気が浮き出ていた。

「ご指名、ありがとうございます」

その一言には、わずかな演技すら含まれていなかった。定型文のようでいて、どこか本当に礼を尽くす気配があった。それが逆に、駒川の中の何かをくすぐった。

彼女のように装ったこの人物に、見透かされているような気がした。自分が今日、何も感じたくないまま来たこと。何も求めていないふりをして、実のところ、何かを願っていたこと。

そのすべてを、知っているかのような眼差しだった。

「名前…名乗った方がいいのか」

駒川がそう呟くと、りょうは首を横に振った。

「ここは、名乗りたい人だけが、名乗ればいいんです」

それだけだった。その言葉には何の押し付けもなかった。ただ、そういう場所だから、という事実だけが置かれた。

その瞬間、この夜の意味が少しだけ変わった気がした。

騒がしさも、過剰な照明も、他人の視線もない。誰にも邪魔されず、誰にも触れられず、それでも…ただひとりの誰かに、何かを許してもらえる場所。

駒川は、まだグラスを傾けたまま、もう一口飲んだ。

氷の音が、先ほどよりも少しだけ大きく響いた。

夜の蝶が、そっと羽を震わせた音に似ていた。
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