不肖ながら、お嬢様は渡しません

松本雀

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素顔の執事──『クロード、崩される』

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──最も手強いのは、悪意のない悪戯である。

ティタ嬢が真紅のドレスを揺らしながら、私にゆっくりと近づいてきた。先ほどまで見せていた高慢で冷ややかな態度はなりを潜め、代わりに現れたのは好奇心と微かな挑発を含んだ笑みだった。

「あなた、公爵家の元執事長だったんですってね?うちで働かせてあげてもいいわよ」

その声には甘美な響きがあり、私を試しているのか、それともからかっているのか判断しかねた。だが、私は礼儀正しく、執事としての節度を保ちながら答える。

「ありがたいお言葉ですが、ご遠慮させていただきます。私には、すでにお仕えしている主がおりますので」

断りの言葉を口にした瞬間、ティタ嬢の瞳が微かに細められ、唇の端に不敵な笑みが刻まれた。

「ふうん……私の誘いを断るの? なかなか勇気があるじゃない」

その一言、その声音に、私は不思議な既視感を覚えた。

どこか遠い記憶の奥底で、この挑戦的でどこか鋭い声を聞いたことがある気がする。私は無意識のうちに眉を寄せ、静かに問いかけた。

「失礼ですが……以前どこかでお会いしたことがございますか?」

その瞬間、ティタ嬢が突然高らかに笑い始めた。その笑い声は銀鈴のように響き、しかし同時に不吉な予感をも連れてくる。

「ふふ、あはは! まあ、随分と陳腐な台詞を使うのね、クロード」

ティタ嬢は私の名前を意図的にゆっくりと口にした。それはまるで私を試すような、あるいは罠を仕掛けるかのような、危険な響きを孕んでいる。

突然ティタ嬢は、私の顔をまじまじと見つめたかと思うと、少し首を傾げながらにじり寄ってきた。

私はわずかに身を引いたが、彼女の手の動きは躊躇がなく、まるで自分のものであるかのように、私の眼鏡をすっと外した。

「……僭越ながら、何をなさるおつもりで──」

言い終わる前に、彼女の指先が私の前髪に触れた。整えていた髪が、無造作に揺れ、額にかかる。彼女の指はそのまま耳元まで滑り、ゆっくりと撫でて戻ってくる。

「やっぱり思った通り。こうすると、あなた、急に違う人みたいになるのね」

私は咳払いを一つして、微かに後退しながら制した。

「ティタ嬢、それは困ります。私の容貌がどうであれ、執事として──」

「執事としてなんて言葉、あなたの魅力を曇らせてるだけよ」

彼女はくすりと笑って、指で乱れた前髪をさらに撫でた。紅く塗られた爪が、まるで宝石の縁取りのように私の視界を飾った。

「こっちの方が、よっぽど格好いいわよ。眼鏡の影に隠れてたなんてもったいないわね」

その時、後方から少年執事が目を輝かせて進み出てきた。

「わかります!前髪がちょっと落ちてて、メガネもしてないから、なんか……めっちゃ色気出てるんですけど!?」

「……お二人とも、冗談はそれくらいにしていただけると助かるのですが」

「いやいや!こっちの方が絶対良いですって!普段は“お堅い執事”って感じなのに、今は、“危険な男”って感じですよ、マジで!完璧です、クロード先輩!」

彼の無邪気な追従に私は内心溜息をつくしかなかったが、ティタ嬢は愉快そうに唇を歪め、少年執事に向かって小さく頷いた。

「でしょう? クロード、あなた執事の仮面を外したら、いい男の顔をしているのね。もっと早く気付けばよかったわ」

彼女の言葉は私の耳元で囁かれた。呼吸すら感じられるほど近くで、その瞳には妖しい光が揺れている。

「私、あなたのすっとぼけた態度、嫌いじゃないわよ?」

彼女は私の目を真っ直ぐに見据えると、指先を私の胸のあたりへと伸ばした。その細い指先はまるで羽根のように軽く、胸元を静かになぞっていく。

「アトラの夫なのに、会ったことがあるかなんて……そんなこと言っていいのかしら?」

私は静かに息を吐いた。このような挑発に動じるほど、私は若くも無邪気でもない。しかし、それでも彼女の意図がまったく読めないことに僅かな不安が芽生える。

「何か勘違いをされているようですが、言葉以上の意味はありませんよ。それに、私の妻への愛は決して揺らぎませんので、ご心配には及びません」

精一杯の冷静を装って返答すると、ティタ嬢は口元を緩めて微笑んだ。

「いいのよ。愛なんてつまらないもの、私には興味ないわ。ただ、あなたがどんな顔をするか見たかっただけ」

彼女はそう言い残すと、再びゆっくりと離れていった。その後ろ姿を見送りながら、私は心の奥底に得体の知れないざわめきを感じていた。

──いったい彼女は、私の記憶の何なのだろう。

私は目を細め、その背中をじっと見つめ続けた。彼女が残した微かな香りがまだ空気に漂い、私はそれを静かに振り払うかのように小さく首を振った。

何か良くない事が始まろうとしている。

そう確信した時、私は再び執事としての仮面を深く被り直し、静かに背筋を正したのだった。
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