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仮面の綻び──『忠義と誘惑の境界線』
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──予定外の滞在ほど、神経に悪いものはない。
帰るタイミングを逃すと、たいてい悪夢が始まるからだ。
ソファに沈み込んだ伯爵は、両手で顔を覆ったまま呻くように言った。
「……頼む、今夜だけは帰らないでくれ。事情を……ちゃんと話すから……」
その声には威厳も誇りもない。ただの、疲れ切った父親の懇願だった。男爵様が大きくため息をつきながら、肘掛け椅子に深く腰掛ける。
「……わかったよ。ティタ嬢のあんな姿を見たら、断れん」
私は横目で男爵様の表情を窺いながら、静かに頷いた。早々に帰りたい気持ちはあったが、伯爵の必死さに根負けした形だ。
彼は顔を上げ、安堵とも後悔ともつかぬ顔を浮かべた。
──この男が何を語るにせよ、それは“父親”としての本心なのだろう。それが、どれほど正確で、どれほど手遅れかは、まだわからないが。
私は静かに背筋を伸ばし、夜の気配を纏った窓辺に視線を向けた。重厚なカーテンが揺れ、夜の帳が静かに広がっていく。
◆◆◆
部屋に戻り、灯を抑えた蝋燭の明かりで書類を読み返していた時だった。
ドアが軽くノックされた。私は伯爵がやっと決心したのだろうと判断し、静かに扉を開ける。
しかし、そこに立っていたのは伯爵ではなかった。
真紅のドレスを纏ったティタ嬢が、妖艶な笑みを浮かべて私の部屋に踏み込んできた。
「入るわね」
私は即座に表情を整え、冷静に伝えた。
「ティタ嬢、ここは私の部屋でございます。速やかにご自身のお部屋にお戻りください」
しかし彼女は私の言葉をまったく意に介さず、部屋の中央まで進むと、突然私の胸元を強く押した。思わぬ行動にバランスを崩し、背中からベッドに倒れ込んだ。
「……なにをなさるのですか」
私が驚きの声を上げる間もなく、彼女は巧みな指使いで私のシャツのボタンを一つずつ外し始めた。その動きに躊躇はなく、むしろ楽しげですらあった。
「騒いだら、誰か来るわよ?」
囁く声に震えはなかった。首筋にかかる吐息は甘く、私の背中には冷たい汗がにじんだ。
「お願いです、やめてください」
その言葉に、彼女は愉しげに唇を歪めた。
「だめ。今さら理性で押しとどめようだなんて、つまらないわ。あなたの中の、もっと深い場所を見たいの」
彼女の指が私のズボンのベルトに触れ、私は思わず声を荒げそうになる。彼女は少しも動じず、唇の端を吊り上げて楽しそうに笑っている。
「ティタ嬢……これは冗談では済まされません」
「ええ、わかってる。本気なの」
彼女の指が胸元に戻り、露わになった素肌を撫でた。ただの皮膚の感覚ではなく、もっと奥深く、感情の輪郭をなぞるような触れ方だった。
「アトラ……どんな顔をするかしら。私とクロードがこんなことしてると知ったら」
その名を耳にした瞬間、私は静かに震えた。
「……妻の名を、軽々しく」
だが、言葉は続かなかった。彼女の顔が、すぐ目の前にあったからだ。
「なら、私を止めてみせて」
私の目を見つめながら、唇を近づけて囁いた。睫毛の影から、彼女は微笑む。その笑みが、蜘蛛の巣のように絡みついて離れなかった。
この密室で、言葉は誰にも届かず、ただ二人の間に落ちていく。
「安心して。もし誰かが来ても、私は女性だから……『襲われた』って叫ぶだけだもの」
背筋に怖気が走る。彼女の瞳に宿る計算高くも楽しげな光が、これは冗談でも脅しでもないということを如実に物語っていた。
──まずい。
状況は非常にまずかった。このまま彼女のペースでことが進めば、私の立場が危うくなるだけではない。何より妻に対する信義に反することになる。
「……一体、何が望みなのです?」
冷静さを装いながら尋ねると、ティタ嬢は妖しい笑みを深めながら私の喉仏を指でなぞった。
「ただの気まぐれよ。あなたはどこまで忠誠を守るのかしら」
そう言って、彼女は私の頬に軽く唇を寄せた。私は内心、激しい焦燥感に駆られていた。
──何とかしなければ。
だがこの状況で取れる手段は非常に限られている。彼女の指先がベルトを外そうと、さらに強く握りしめるのを感じながら、私は必死に対策を模索した。
「ティタ嬢……お願いです。冗談はこれくらいにしてください」
彼女の笑みは消えず、その指の動きも止まらない。
「まだまだこれからよ、クロード。あなたのその冷静な仮面が崩れるところ、早く見たいわ」
私は部屋の扉を一瞬見たが、そこには誰もいない。廊下は静まり返り、誰かが助けに来る気配もない。冷や汗が背中を伝った。
「さあ、クロード。あなたがどれほどの覚悟を持っているのか、見せて頂戴!」
彼女の囁きに、私は言葉を失った。何かが壊れてしまう前に、どうにかしてこの場を収めなければ──そう強く感じながらも、追い詰められた状況に、私はただただ混乱するしかなかった。
帰るタイミングを逃すと、たいてい悪夢が始まるからだ。
ソファに沈み込んだ伯爵は、両手で顔を覆ったまま呻くように言った。
「……頼む、今夜だけは帰らないでくれ。事情を……ちゃんと話すから……」
その声には威厳も誇りもない。ただの、疲れ切った父親の懇願だった。男爵様が大きくため息をつきながら、肘掛け椅子に深く腰掛ける。
「……わかったよ。ティタ嬢のあんな姿を見たら、断れん」
私は横目で男爵様の表情を窺いながら、静かに頷いた。早々に帰りたい気持ちはあったが、伯爵の必死さに根負けした形だ。
彼は顔を上げ、安堵とも後悔ともつかぬ顔を浮かべた。
──この男が何を語るにせよ、それは“父親”としての本心なのだろう。それが、どれほど正確で、どれほど手遅れかは、まだわからないが。
私は静かに背筋を伸ばし、夜の気配を纏った窓辺に視線を向けた。重厚なカーテンが揺れ、夜の帳が静かに広がっていく。
◆◆◆
部屋に戻り、灯を抑えた蝋燭の明かりで書類を読み返していた時だった。
ドアが軽くノックされた。私は伯爵がやっと決心したのだろうと判断し、静かに扉を開ける。
しかし、そこに立っていたのは伯爵ではなかった。
真紅のドレスを纏ったティタ嬢が、妖艶な笑みを浮かべて私の部屋に踏み込んできた。
「入るわね」
私は即座に表情を整え、冷静に伝えた。
「ティタ嬢、ここは私の部屋でございます。速やかにご自身のお部屋にお戻りください」
しかし彼女は私の言葉をまったく意に介さず、部屋の中央まで進むと、突然私の胸元を強く押した。思わぬ行動にバランスを崩し、背中からベッドに倒れ込んだ。
「……なにをなさるのですか」
私が驚きの声を上げる間もなく、彼女は巧みな指使いで私のシャツのボタンを一つずつ外し始めた。その動きに躊躇はなく、むしろ楽しげですらあった。
「騒いだら、誰か来るわよ?」
囁く声に震えはなかった。首筋にかかる吐息は甘く、私の背中には冷たい汗がにじんだ。
「お願いです、やめてください」
その言葉に、彼女は愉しげに唇を歪めた。
「だめ。今さら理性で押しとどめようだなんて、つまらないわ。あなたの中の、もっと深い場所を見たいの」
彼女の指が私のズボンのベルトに触れ、私は思わず声を荒げそうになる。彼女は少しも動じず、唇の端を吊り上げて楽しそうに笑っている。
「ティタ嬢……これは冗談では済まされません」
「ええ、わかってる。本気なの」
彼女の指が胸元に戻り、露わになった素肌を撫でた。ただの皮膚の感覚ではなく、もっと奥深く、感情の輪郭をなぞるような触れ方だった。
「アトラ……どんな顔をするかしら。私とクロードがこんなことしてると知ったら」
その名を耳にした瞬間、私は静かに震えた。
「……妻の名を、軽々しく」
だが、言葉は続かなかった。彼女の顔が、すぐ目の前にあったからだ。
「なら、私を止めてみせて」
私の目を見つめながら、唇を近づけて囁いた。睫毛の影から、彼女は微笑む。その笑みが、蜘蛛の巣のように絡みついて離れなかった。
この密室で、言葉は誰にも届かず、ただ二人の間に落ちていく。
「安心して。もし誰かが来ても、私は女性だから……『襲われた』って叫ぶだけだもの」
背筋に怖気が走る。彼女の瞳に宿る計算高くも楽しげな光が、これは冗談でも脅しでもないということを如実に物語っていた。
──まずい。
状況は非常にまずかった。このまま彼女のペースでことが進めば、私の立場が危うくなるだけではない。何より妻に対する信義に反することになる。
「……一体、何が望みなのです?」
冷静さを装いながら尋ねると、ティタ嬢は妖しい笑みを深めながら私の喉仏を指でなぞった。
「ただの気まぐれよ。あなたはどこまで忠誠を守るのかしら」
そう言って、彼女は私の頬に軽く唇を寄せた。私は内心、激しい焦燥感に駆られていた。
──何とかしなければ。
だがこの状況で取れる手段は非常に限られている。彼女の指先がベルトを外そうと、さらに強く握りしめるのを感じながら、私は必死に対策を模索した。
「ティタ嬢……お願いです。冗談はこれくらいにしてください」
彼女の笑みは消えず、その指の動きも止まらない。
「まだまだこれからよ、クロード。あなたのその冷静な仮面が崩れるところ、早く見たいわ」
私は部屋の扉を一瞬見たが、そこには誰もいない。廊下は静まり返り、誰かが助けに来る気配もない。冷や汗が背中を伝った。
「さあ、クロード。あなたがどれほどの覚悟を持っているのか、見せて頂戴!」
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