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執事と騎士──『正論と詭弁』
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──罪とは、時に他人へと手渡すことで軽くなるものだ。
騎士団宿舎というものは、もっと殺風景な場所かと思っていた。
実際の建物は、古いが手入れが行き届いていて、石造りの壁も木製の床も時間を味方につけた落ち着きがある。鎧や武器が無造作に立てかけられている光景は、洗練というよりは質実剛健というべきだろう。初めて訪れる場所にしては、不思議と居心地が悪くなかった。
「どうぞ、入ってください」
騎士団長ウィルの案内で通された部屋は、広くはないが整頓されており、窓から朝焼けの光が差し込んでいた。机の上には読みかけの文献、棚には武具と幾冊かの書物。騎士らしい誠実な美しさ。それが彼という人間を物語っていた。
「……ありがとうございます」
礼を言って椅子に腰を下ろした私は、深くうなだれた。ウィルも黙って隣に座る。いつもより無口なのは、私を気を遣ってくれているのだろう。
無言のまま、しばらく部屋には沈黙が満ちていた。耐えきれなくなったのは、私のほうだった。
「……詳しくは申し上げられません。ただ……ある女性に、無理やり……唇を奪われました」
自分の口から出た言葉は、どこか遠い誰かの台詞のようだった。唇を奪われた、という語感の柔らかさが、現実の苛烈さにそぐわない。
「私は……妻を裏切ってしまったのです。状況から強く拒否出来なかったとはいえ、合わせる顔がない。しかし、相手にも事情があって……あの人も、苦しんでいた」
吐き出した瞬間、胸の奥がざらついた。すぐさま後悔が押し寄せる。私は執事だ。男爵家の一員で、そして、何よりも大切な妻アトラの夫なのに。
情けない、と喉元まで出かけた言葉を、私は飲み込んだ
ウィルが僅かに目を細めた気配がする。だが、すぐに優しい声が返ってきた。
「……事情があったからと言って、他人に何をしても許されるわけではありません。不幸な過去は、誰かを傷つけていい理由にはならない」
静かに、だが明瞭にウィルは言った。語気を荒げず、責めもせず、それでも確かな剣のような言葉だった。
その言葉に、私は堪えきれなかった。
嗚咽が漏れる。何年ぶりかに、心の堰が決壊する。
「……私は、自分が許せません」
ウィルの手が、そっと私の肩に置かれる。その掌は大きく、温かく、優しかった。
「奥方は、あなたを信じて待っていますよ。あなたが自分自身を責め続ければ、彼女の愛を否定することになる。……そう思いませんか?」
私は顔を覆った手の隙間から、朝焼けの光を見つめた。
「……そう、ですね」
涙に滲んだ視界の中、私はここを“優しい場所”だと感じていた。剣と鎧の世界に似つかわしくない感情かもしれないが、ここには思いやりと労りがあった。
私は、少しだけ呼吸を整え、口を開く。
「ありがとうございます、騎士団長殿」
「名前で呼んでください。私たちはもう、友人ですよ」
その言葉に、不覚にもまた目頭が熱くなった。
ウィルは小さく背伸びをしながら、窓を開ける。ふわりと流れ込んだ風に、彼の淡い金髪が揺れた。
「外で朝食でも、食べましょうか!」
その一言は、昨晩から押し潰されていた心に、ほんの少しだけ風穴を開けてくれた気がした。
私は頷く。
まるで救われたような気分だった。
──だが次の瞬間、窓の外で走り回る子供たちの姿が視界に入ってくる。
「つかまえたー!」
「ズルい、今の反則ー!」
「ほら!今度はお前が鬼だからな!」
無邪気なその声が、まるで雷に打たれたように私を貫いた。
「……鬼ごっこ……」
「え?」
私は窓から目を離し、ウィルの顔をまっすぐに見つめる。凛々しく誠実なその顔に、ひときわ慈悲深い柔らかさを見出してしまったのが、いけなかった。
「ウィル」
「……なんだか、もの凄く嫌な予感がする……」
「この罪を、キスを、貴方に移してもいいですか?」
一瞬、時が止まったように思えた。
「ええええええっ!?」
ウィルが椅子をきしませて立ち上がった。だが私はすでに行動に移っていた。まっすぐに彼へと歩み寄る。
「ほら、鬼ごっこでも、鬼は誰かにタッチすれば終わりです。私も終わらせたいのです」
「ちょっと待て!」
「大丈夫です。痛くしません」
「いや、そうじゃなくて!!!」
「優しくします」
「それも違う!!!!!!!!!」
私は真剣だった。むしろ、あまりに真剣な分、ウィルが困惑するのも無理はない。彼は私の手を両手で制止し、必死に距離を取ろうとする。
「クロード、私はさっき、理由があろうと他人に何をしても良いわけではないって言いましたよね!?」
「はい、覚えております。だから、お願いしているのです。無理矢理ではなく、合意の上で」
「合意しません!!!!!」
「ではせめて、事故として受け取ってください」
「どこに事故の余地がある!?」
「私は弱っているのです。つまり、弱者。騎士団長殿は弱者の味方のはず。ならば救ってください」
「君は弱くないだろ!? 昔、化け蜘蛛退治の折、逆に私とレンが殺されかけたんだが!!」
その言葉に、私は少し口を噤んだ。
懐かしい記憶が脳裏をよぎる。確かに、あの時は本気だった。だが今の私は、本気で弱っている。あれは、理性のある本気。今は理性のない本気。つまり状況が違う。
「今の私は、妻を裏切ったかもしれないという自責の念で瀕死なのです。心が……心が息をしていないのです!」
「詩的な表現をしても駄目ですからね!!!」
私は一歩、そしてまた一歩と詰め寄る。ウィルは逃げ腰で机の向こうへと退避する。
──こうして、騎士団宿舎にて繰り広げられる壮絶な『キスの押し付け合い』は、膠着状態のまま、次の来訪者を迎えようとしていた。
騎士団宿舎というものは、もっと殺風景な場所かと思っていた。
実際の建物は、古いが手入れが行き届いていて、石造りの壁も木製の床も時間を味方につけた落ち着きがある。鎧や武器が無造作に立てかけられている光景は、洗練というよりは質実剛健というべきだろう。初めて訪れる場所にしては、不思議と居心地が悪くなかった。
「どうぞ、入ってください」
騎士団長ウィルの案内で通された部屋は、広くはないが整頓されており、窓から朝焼けの光が差し込んでいた。机の上には読みかけの文献、棚には武具と幾冊かの書物。騎士らしい誠実な美しさ。それが彼という人間を物語っていた。
「……ありがとうございます」
礼を言って椅子に腰を下ろした私は、深くうなだれた。ウィルも黙って隣に座る。いつもより無口なのは、私を気を遣ってくれているのだろう。
無言のまま、しばらく部屋には沈黙が満ちていた。耐えきれなくなったのは、私のほうだった。
「……詳しくは申し上げられません。ただ……ある女性に、無理やり……唇を奪われました」
自分の口から出た言葉は、どこか遠い誰かの台詞のようだった。唇を奪われた、という語感の柔らかさが、現実の苛烈さにそぐわない。
「私は……妻を裏切ってしまったのです。状況から強く拒否出来なかったとはいえ、合わせる顔がない。しかし、相手にも事情があって……あの人も、苦しんでいた」
吐き出した瞬間、胸の奥がざらついた。すぐさま後悔が押し寄せる。私は執事だ。男爵家の一員で、そして、何よりも大切な妻アトラの夫なのに。
情けない、と喉元まで出かけた言葉を、私は飲み込んだ
ウィルが僅かに目を細めた気配がする。だが、すぐに優しい声が返ってきた。
「……事情があったからと言って、他人に何をしても許されるわけではありません。不幸な過去は、誰かを傷つけていい理由にはならない」
静かに、だが明瞭にウィルは言った。語気を荒げず、責めもせず、それでも確かな剣のような言葉だった。
その言葉に、私は堪えきれなかった。
嗚咽が漏れる。何年ぶりかに、心の堰が決壊する。
「……私は、自分が許せません」
ウィルの手が、そっと私の肩に置かれる。その掌は大きく、温かく、優しかった。
「奥方は、あなたを信じて待っていますよ。あなたが自分自身を責め続ければ、彼女の愛を否定することになる。……そう思いませんか?」
私は顔を覆った手の隙間から、朝焼けの光を見つめた。
「……そう、ですね」
涙に滲んだ視界の中、私はここを“優しい場所”だと感じていた。剣と鎧の世界に似つかわしくない感情かもしれないが、ここには思いやりと労りがあった。
私は、少しだけ呼吸を整え、口を開く。
「ありがとうございます、騎士団長殿」
「名前で呼んでください。私たちはもう、友人ですよ」
その言葉に、不覚にもまた目頭が熱くなった。
ウィルは小さく背伸びをしながら、窓を開ける。ふわりと流れ込んだ風に、彼の淡い金髪が揺れた。
「外で朝食でも、食べましょうか!」
その一言は、昨晩から押し潰されていた心に、ほんの少しだけ風穴を開けてくれた気がした。
私は頷く。
まるで救われたような気分だった。
──だが次の瞬間、窓の外で走り回る子供たちの姿が視界に入ってくる。
「つかまえたー!」
「ズルい、今の反則ー!」
「ほら!今度はお前が鬼だからな!」
無邪気なその声が、まるで雷に打たれたように私を貫いた。
「……鬼ごっこ……」
「え?」
私は窓から目を離し、ウィルの顔をまっすぐに見つめる。凛々しく誠実なその顔に、ひときわ慈悲深い柔らかさを見出してしまったのが、いけなかった。
「ウィル」
「……なんだか、もの凄く嫌な予感がする……」
「この罪を、キスを、貴方に移してもいいですか?」
一瞬、時が止まったように思えた。
「ええええええっ!?」
ウィルが椅子をきしませて立ち上がった。だが私はすでに行動に移っていた。まっすぐに彼へと歩み寄る。
「ほら、鬼ごっこでも、鬼は誰かにタッチすれば終わりです。私も終わらせたいのです」
「ちょっと待て!」
「大丈夫です。痛くしません」
「いや、そうじゃなくて!!!」
「優しくします」
「それも違う!!!!!!!!!」
私は真剣だった。むしろ、あまりに真剣な分、ウィルが困惑するのも無理はない。彼は私の手を両手で制止し、必死に距離を取ろうとする。
「クロード、私はさっき、理由があろうと他人に何をしても良いわけではないって言いましたよね!?」
「はい、覚えております。だから、お願いしているのです。無理矢理ではなく、合意の上で」
「合意しません!!!!!」
「ではせめて、事故として受け取ってください」
「どこに事故の余地がある!?」
「私は弱っているのです。つまり、弱者。騎士団長殿は弱者の味方のはず。ならば救ってください」
「君は弱くないだろ!? 昔、化け蜘蛛退治の折、逆に私とレンが殺されかけたんだが!!」
その言葉に、私は少し口を噤んだ。
懐かしい記憶が脳裏をよぎる。確かに、あの時は本気だった。だが今の私は、本気で弱っている。あれは、理性のある本気。今は理性のない本気。つまり状況が違う。
「今の私は、妻を裏切ったかもしれないという自責の念で瀕死なのです。心が……心が息をしていないのです!」
「詩的な表現をしても駄目ですからね!!!」
私は一歩、そしてまた一歩と詰め寄る。ウィルは逃げ腰で机の向こうへと退避する。
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