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§ 追いかけてきた過去
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「小夜」
顎で携帯電話を押さえながら、洗剤塗れの手を洗い、タオルで拭った。
「あんたなにしてんの? まさか……」
「まさかじゃなくてキッチンの掃除」
「はぁ? いま何時だと思ってんの? 夜中の十二時だよ? まったくあんたは……」
「言いたいことはわかってるから、その先は言わなくていいよ」
電話の向こうの小夜が、聞こえよがしにため息をつく。
「ねえ、松本さんはどうしてるの?」
「亮? 今日もまだ会社だってさっき電話があったわ。大詰めだからねぇ、終電で帰れたらラッキーって感じかな? そっちはどう?」
「うーん……なんとかね。作業の方はもう先が見えてるから問題ないんだけど……」
私になにを話したくて電話をかけてきたのか、小夜の意図が透けて見える。
「啓司さんの痣は赤黒くなってきた」
「は? なにそれ」
と、素知らぬ振りで聞き返したのは冗談だ。
小夜のバッグ。それは、書類はもちろんのこと、着替えからフルサイズの化粧品一式までが入っている重量級の特大トートだ。数分間持ち歩くだけで十分疲弊できる重量を振り回す小夜の怪力具合には呆れるが、あれで殴られた啓のダメージはさぞかし大きかろう、と、少しだけ同情してしまう。
「あのときは、無我夢中っていうの? とにかく必死だったからさぁ……。次の日会社で会ったら、目の下青黒くなってるし、唇の脇に絆創膏貼ってるしで、びっくりしちゃった」
なにがびっくりしちゃった、だ。あの凶器で殴られて無傷だったほうが不思議なくらいなのに。
「そっか。で、啓はなにか言ってた?」
「ううん。別になにも。啓司さん外出多いし、個人的な話なんてする時間ないじゃない? あったところで私もなに言っていいのかわかんないから困るんだけど。私、悪くないし!」
「まあ、そうよね……」
あの場に小夜が飛び込んできて私と啓を引き剥がしてくれなかったら、私はいまごろどうなっていたのだろう。
私だけではない。啓だって。あれは、啓の本意であるはずがない。我を忘れた彼が激情に流されたまま私を壊してしまっていたら。あんなことでこれまで培ってきた私たちの関係に決定的な亀裂が生じる。その原因が彼自身だなんて、それこそ啓が壊れてしまう。
「そりゃ、いきなりあんな場面に出会してショックはショックだけど、それより先に頭にきちゃったからねー。いくら好きだからって、あれはないでしょう? 啓司さん、あんたのこと大事にしてると思ってたのに、まさか無理やりあんなことするなんてさ」
あれくらい殴っといてちょうどいいのよ。いい気味だ、と、小夜は笑った。
声だけ聞いていれば元気そうだけれど、小夜が実際にどんな顔をして笑っているのかなんて、わかったものではない。
電話でよかった。
直接小夜の顔と顔を合わせて啓の話をする勇気なんて、私にはまだないから。
顎で携帯電話を押さえながら、洗剤塗れの手を洗い、タオルで拭った。
「あんたなにしてんの? まさか……」
「まさかじゃなくてキッチンの掃除」
「はぁ? いま何時だと思ってんの? 夜中の十二時だよ? まったくあんたは……」
「言いたいことはわかってるから、その先は言わなくていいよ」
電話の向こうの小夜が、聞こえよがしにため息をつく。
「ねえ、松本さんはどうしてるの?」
「亮? 今日もまだ会社だってさっき電話があったわ。大詰めだからねぇ、終電で帰れたらラッキーって感じかな? そっちはどう?」
「うーん……なんとかね。作業の方はもう先が見えてるから問題ないんだけど……」
私になにを話したくて電話をかけてきたのか、小夜の意図が透けて見える。
「啓司さんの痣は赤黒くなってきた」
「は? なにそれ」
と、素知らぬ振りで聞き返したのは冗談だ。
小夜のバッグ。それは、書類はもちろんのこと、着替えからフルサイズの化粧品一式までが入っている重量級の特大トートだ。数分間持ち歩くだけで十分疲弊できる重量を振り回す小夜の怪力具合には呆れるが、あれで殴られた啓のダメージはさぞかし大きかろう、と、少しだけ同情してしまう。
「あのときは、無我夢中っていうの? とにかく必死だったからさぁ……。次の日会社で会ったら、目の下青黒くなってるし、唇の脇に絆創膏貼ってるしで、びっくりしちゃった」
なにがびっくりしちゃった、だ。あの凶器で殴られて無傷だったほうが不思議なくらいなのに。
「そっか。で、啓はなにか言ってた?」
「ううん。別になにも。啓司さん外出多いし、個人的な話なんてする時間ないじゃない? あったところで私もなに言っていいのかわかんないから困るんだけど。私、悪くないし!」
「まあ、そうよね……」
あの場に小夜が飛び込んできて私と啓を引き剥がしてくれなかったら、私はいまごろどうなっていたのだろう。
私だけではない。啓だって。あれは、啓の本意であるはずがない。我を忘れた彼が激情に流されたまま私を壊してしまっていたら。あんなことでこれまで培ってきた私たちの関係に決定的な亀裂が生じる。その原因が彼自身だなんて、それこそ啓が壊れてしまう。
「そりゃ、いきなりあんな場面に出会してショックはショックだけど、それより先に頭にきちゃったからねー。いくら好きだからって、あれはないでしょう? 啓司さん、あんたのこと大事にしてると思ってたのに、まさか無理やりあんなことするなんてさ」
あれくらい殴っといてちょうどいいのよ。いい気味だ、と、小夜は笑った。
声だけ聞いていれば元気そうだけれど、小夜が実際にどんな顔をして笑っているのかなんて、わかったものではない。
電話でよかった。
直接小夜の顔と顔を合わせて啓の話をする勇気なんて、私にはまだないから。
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