未完成な僕たちの鼓動の色

水飴さらさ

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第一章

斜陽

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 マンションの階段を上がり、玄関の鍵を開ける。
「ちょっと待ってて、いきなり久場くんをあげたら家族がびっくりしちゃうから」
 そう言って家の中に入った由人が、すぐにドアを開けた。
「誰もいなかった……どうぞ……」
「お邪魔します」
「ソファに座ってて、麦茶注いでくるから……」
 リビングに案内した久場にそう言うと、由人はキッチンの冷蔵庫を開ける。
「由人」
「ん、なに?」
「由人の部屋、見たい」
 早恵子たちを家に招待したことはあるし、部屋で話したことも何度かある。けれど男子の友達を家に入れたことも、部屋で話をしたこともない。
 ましてや久場は好きと言えない相手で、由人は固まってしまった。
「ダメ?」
 久場が甘えた声で言う。
 ずるいな。目の前でこんな風に甘えられたら断れるはずがない。
 ポットからグラスに麦茶を注ぐ手が震える。
 こんなことで緊張してはだめだ。僕と久場くんは友達なんだ。
 部屋で話をするなんて、当たり前のことなんだから……そうだ、水族館の話をまたしよう。
「いいよ……」
 平気なふりをしたいのにグラスを乗せて運んでいるトレーを持つ手がカタカタと震えてしまう。
「俺が持つよ」それを見た久場がすぐにトレーを持ってくれる。
「……こっち、です」緊張して敬語になりながら部屋のドアを開けた。
 部屋に入るなり、由人は窓を開ける。
 散らかってはいないが、自分の部屋で久場と二人きりという空気に耐えれなかった。緊張で窒息しそうだ。
「窓開けたら暑いだろう、エアコンつけよう」
 それなのに久場が勉強机にトレーを置いて、エアコンをつけてしまう。
 由人はしかたなく窓をゆっくりと閉める。
「由人の部屋、余計なものが一切ないんだな、ミニマリストなのか?」
「そういうわけじゃ……僕、趣味がないから……物欲もないし……」
「そうだな、由人は欲がないよな……俺は、欲張りだぞ」
 部屋中を見回していた久場が、由人に一歩近づく。由人は後ずさる。
「だから勉強も頑張るし、今日も俺、凄く頑張ったと思わない?」
「久場くん……」
 目の前の久場の声はいつものように優しく、顔だって困ったようではあるけれど笑っている。なのになぜかいつもよりその体が大きく感じる。
 マンションの一室で二人きりだから、こんなにも久場から威圧を感じてしまうのだろうか。
「なあ、由人……」
 まだ暑い部屋にエアコンの音が響く。
 久場が近づく分だけ後ずさるけれど、すぐに壁に背中がついてしまった。
 怖いのに久場から目が離せない。
「今日、頑張ったご褒美、まだ貰ってない」
 そうだ、駅でも水族館でも、手は少しだけ繋いだがそれ以上のスキンシップはなかった。もう、いらないのかと思っていた。
 そうではなかった。
「水族館でも、いい友達のふり上手く出来ていただろう……由人に恥かかせないように必死だったんだ」久場の表情はもう笑っていない。
 なんだか感情を殺しているような、無のような……でも少しだけ、悲しそうに眉が下がっている。辛そうだ。
 そんな久場の顔を由人はじっと見上げる。
 壁に押しやった由人の髪を、久場が指で触る。
「くれないの? ご褒美……」
 髪を弄って、久場が微かな声で言う。
 至近距離すぎて、その唇から吐き出される呼吸の音も伝わってくる。
 どんな時でも大らかで、太陽のように明るい久場から滲み出るその呼吸は、深い。
 そうしなければ何か、酷い衝動が、体から飛び出してしまうのだろうか。
「由人が、嫌ならしない……でも、嫌じゃなかったら……欲しい」 
 これが言いたくて、帰らなかったんだ。
 そんなに欲しいんだ。僕のご褒美が。
 恐怖心を感じながら、可愛いと思ってしまうのは、間違いだろうか。
「……嫌じゃないよ」
 恥ずかしくて、久場から目を逸らす。
「ありがとう……」
 久場の声が降りてきて、そっと抱きしめられる。
 控えめなその抱擁でも、服の生地を挟んで久場の熱い体温が、由人に伝わってくる。
 汗の匂いも感じてしまい、由人の心拍数が一気に上がった。
「あっ、待って、僕汗を、汗かいてる、やだ、嗅がないで!」朝に髪は洗ったけれど、一日中歩き回っていた。
「気にするな、大丈夫だから」久場は抱きしめたまま右手で由人の髪を撫で、鼻をそっと触れさせ嗅いでくる。
 由人の香りを嗅ぐ鼻が徐々に移動し、髪を耳にかけて、耳の後ろをクンと嗅ぐ。
「いい匂いだ」
「くば……くん、もう……なんで……」
 耳のそばで囁く声は、卑怯なほど低く、甘い。
 その声は、由人の体から力を奪う。
 崩れ落ちる由人を、逞しい腕で支えながら久場もその身をしゃがませる。
 二人とも床に膝をつき、由人は久場の腕の中で力弱くもがく。
 夏の日は長く、まだ外は明るい。
 窓から入る斜陽は、由人の焦る表情、赤らんでいくきめ細かい肌を照らし久場に見せる。
 もがいても久場は由人を離さない。
「由人、聞いて」
 力では敵わない久場の腕の中、混乱と羞恥と、いつものような無邪気さも甘えもない久場の声と熱さと力強さに由人はおののく。 
 これは、ご褒美なんてものじゃない、いつもの久場くんじゃない、どうしてそんな声で囁くの、やめて、これじゃまるで……
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