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第25話 辺境の約束
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雨上がりの森は、まるで血のにおいを隠そうとでもするように静まり返っていた。
木々の葉から滴る水がぽたぽたと地面に落ち、その一滴ごとに冷たい朝の光が反射する。
縛り上げられた追跡者のひとりが、土の上で呻いている。
クラリッサは扇子を閉じ、しゃがみ込みながらゆっくりと問うた。
「さて――お名前は?」
男は口を閉ざしたまま、目だけでレオンを睨みつける。
「元・第一近衛隊の隊長殿。ずいぶん落ちぶれたな」
その言葉に、レオンの指が一瞬だけ震えた。
クラリッサはその動きを見逃さない。
「あなた、本当に“旅人”ですの?」
レオンは答えない。
沈黙の中、風がふわりと初恋草の香りを運んできた。
「おい、口を割れ」
レオンの声は低く、冷たい。
だが、追跡者の男はかすれた笑いを返す。
「……お前は知らないのか、ヴァレンティーヌ令嬢。
お前の“香り”こそが、王都を動かしているということを」
クラリッサの眉がわずかに動く。
「……どういう意味ですの?」
「“初恋草ブレンド”――王家の薬師どもが欲しがっている。
だがそれは表向き。裏の目的は……“鏡花の香”の再現だ」
その名を聞いた瞬間、クラリッサの中で何かが鋭く弾けた。
あの香り――王都の断罪の夜、彼女を追放へと導いた“禁断の香”。
女神の力を宿すと恐れられ、そして封印された幻のブレンド。
「……封印を解く気ですのね」
「王太子殿下のご命令だ。“香りの神託”を、再び呼び覚ませ――とな」
クラリッサは唇を噛んだ。
あの男の顔が、記憶の底から浮かび上がる。
――ユージン・アシュフォード。
彼女を切り捨て、別の聖女を選んだ裏切り者。
「ユージン……まだ、わたくしを利用するつもりですのね」
追跡者は歪んだ笑みを浮かべる。
「利用? 違う。お前の“香り”は王都のためにある。
お前の魂を、また“神託”の器に戻すんだよ」
ぱしん、と音を立てて扇子が開かれた。
クラリッサの声が低く響く。
「わたくしの香りは――わたくしのものですの。
神も王も、もう嗅ぐことは許しませんわ」
その静けさの中、レオンが膝をついた男の胸倉を掴んだ。
「命令を出したのは、誰だ」
「……王太子直属の特務課。副官――お前の後任だ、ヴァルドだ」
レオンの瞳が一瞬だけ氷のように冷たく光る。
「ヴァルド……」
彼は立ち上がり、森の向こうを見た。
その背中に、クラリッサが問いかける。
「レオンさん。あなたがこの村に来たのは、偶然ではありませんわね?」
沈黙。
レオンはゆっくりと振り返り、苦笑した。
「偶然……ではない。だが、命令でもない。俺が勝手に来た」
「何のために?」
「罪を……終わらせるためだ」
「罪、ですの?」
「……あの日。お前を捕らえた任務で、俺は命令に従った。
だが、あの夜、燃えた“鏡花の香”を嗅いでから、何かが壊れた。
あの香りは、神の声なんかじゃなかった。
人間の絶望のにおいだ。
……あれをもう一度、誰かが使おうとしている」
クラリッサはそっと息を吸い込み、そして言った。
「では、もう一度封じましょう。
あなたの剣と、わたくしの香りで」
レオンの目が見開かれた。
「まだ俺を信じるのか?」
「信じるとは違いますわ。利用いたしますの」
「……やっぱり恐ろしい女だ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
二人の視線が重なる。
その奥で、雨上がりの森が光を取り戻していく。
クラリッサは追跡者たちを見下ろしながら、静かに呟いた。
「――わたくし、もう逃げませんわ。
“鏡花の香”が誰の手にも渡らぬよう、この手で封じてみせますの」
レオンは頷き、剣の柄に手を置いた。
「なら、俺の剣も預けよう。あの日の過ちを、ようやく償える気がする」
朝の光が二人の間を照らす。
初恋草の香りが風に乗り、かすかに漂う。
それはもう、甘くも苦くもない――
ただ、二人の覚悟を包み込むような、静かな香りだった。
木々の葉から滴る水がぽたぽたと地面に落ち、その一滴ごとに冷たい朝の光が反射する。
縛り上げられた追跡者のひとりが、土の上で呻いている。
クラリッサは扇子を閉じ、しゃがみ込みながらゆっくりと問うた。
「さて――お名前は?」
男は口を閉ざしたまま、目だけでレオンを睨みつける。
「元・第一近衛隊の隊長殿。ずいぶん落ちぶれたな」
その言葉に、レオンの指が一瞬だけ震えた。
クラリッサはその動きを見逃さない。
「あなた、本当に“旅人”ですの?」
レオンは答えない。
沈黙の中、風がふわりと初恋草の香りを運んできた。
「おい、口を割れ」
レオンの声は低く、冷たい。
だが、追跡者の男はかすれた笑いを返す。
「……お前は知らないのか、ヴァレンティーヌ令嬢。
お前の“香り”こそが、王都を動かしているということを」
クラリッサの眉がわずかに動く。
「……どういう意味ですの?」
「“初恋草ブレンド”――王家の薬師どもが欲しがっている。
だがそれは表向き。裏の目的は……“鏡花の香”の再現だ」
その名を聞いた瞬間、クラリッサの中で何かが鋭く弾けた。
あの香り――王都の断罪の夜、彼女を追放へと導いた“禁断の香”。
女神の力を宿すと恐れられ、そして封印された幻のブレンド。
「……封印を解く気ですのね」
「王太子殿下のご命令だ。“香りの神託”を、再び呼び覚ませ――とな」
クラリッサは唇を噛んだ。
あの男の顔が、記憶の底から浮かび上がる。
――ユージン・アシュフォード。
彼女を切り捨て、別の聖女を選んだ裏切り者。
「ユージン……まだ、わたくしを利用するつもりですのね」
追跡者は歪んだ笑みを浮かべる。
「利用? 違う。お前の“香り”は王都のためにある。
お前の魂を、また“神託”の器に戻すんだよ」
ぱしん、と音を立てて扇子が開かれた。
クラリッサの声が低く響く。
「わたくしの香りは――わたくしのものですの。
神も王も、もう嗅ぐことは許しませんわ」
その静けさの中、レオンが膝をついた男の胸倉を掴んだ。
「命令を出したのは、誰だ」
「……王太子直属の特務課。副官――お前の後任だ、ヴァルドだ」
レオンの瞳が一瞬だけ氷のように冷たく光る。
「ヴァルド……」
彼は立ち上がり、森の向こうを見た。
その背中に、クラリッサが問いかける。
「レオンさん。あなたがこの村に来たのは、偶然ではありませんわね?」
沈黙。
レオンはゆっくりと振り返り、苦笑した。
「偶然……ではない。だが、命令でもない。俺が勝手に来た」
「何のために?」
「罪を……終わらせるためだ」
「罪、ですの?」
「……あの日。お前を捕らえた任務で、俺は命令に従った。
だが、あの夜、燃えた“鏡花の香”を嗅いでから、何かが壊れた。
あの香りは、神の声なんかじゃなかった。
人間の絶望のにおいだ。
……あれをもう一度、誰かが使おうとしている」
クラリッサはそっと息を吸い込み、そして言った。
「では、もう一度封じましょう。
あなたの剣と、わたくしの香りで」
レオンの目が見開かれた。
「まだ俺を信じるのか?」
「信じるとは違いますわ。利用いたしますの」
「……やっぱり恐ろしい女だ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
二人の視線が重なる。
その奥で、雨上がりの森が光を取り戻していく。
クラリッサは追跡者たちを見下ろしながら、静かに呟いた。
「――わたくし、もう逃げませんわ。
“鏡花の香”が誰の手にも渡らぬよう、この手で封じてみせますの」
レオンは頷き、剣の柄に手を置いた。
「なら、俺の剣も預けよう。あの日の過ちを、ようやく償える気がする」
朝の光が二人の間を照らす。
初恋草の香りが風に乗り、かすかに漂う。
それはもう、甘くも苦くもない――
ただ、二人の覚悟を包み込むような、静かな香りだった。
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