13 / 21
朝陽の過去 *シリアス
しおりを挟む朝陽が「我儘」を覚える前に、
「我慢」を覚えてしまったのは、きっと小学生になるよりも前だった。
夕方の薄暗い部屋。
カーテンは閉め切られ、空気は甘ったるい香水と煙草の匂いが混じっている。
玄関の鍵が閉まる音と、女の笑い声。
母の声が、知らない男の声と絡むように響く。
「ねえ、琉璃。今日も綺麗だな」
「もう、やだぁ」
朝陽は部屋の奥、冷暖房のない小さな空間で、膝を抱えて座っていた。
襖一枚で仕切られているだけの部屋は、音を遮るにはあまりに薄い。
——静かにしなきゃ。
そう思って、息を殺す。
床に敷いた毛布は薄く、冬は寒く、夏はじっとりと湿っていた。
母、琉璃は水商売をしていた。
昼間には別の男が家にいて、夜になるとまた違う男が来る。
朝陽にとって、家にいる男性の顔を覚える意味はなかった。
どうせ、すぐにいなくなる。
「この子がいなきゃ、もっと稼げてただろうに」
「子持ちかぁ……」
その言葉が、襖越しに、はっきりと聞こえる。
意味は、完全には分からなかった。
けれど、胸がぎゅっと締め付けられる感覚だけは、はっきりと覚えている。
——ぼくが、いるから。
母が大変なのは、自分のせいだ。
幼い朝陽は、そう理解した。
だから、なるべく目立たないようにした。
泣かない。
欲しがらない。
音を立てない。
学校から帰ると、机の上に少しだけ置かれたお金を見つける。
それで食材を買い、洗濯をし、掃除をした。
何年着ているか分からないTシャツ。
色あせたズボン。
穴が空いても、縫えばいい。
——まだ、使える。
そう言い聞かせていた。
母は朝陽に向かって「いなければよかった」なんて、直接は言わなかった。
けれど、「自分でできるでしょ?」という言葉が、何度も繰り返された。
自分でできる。
できなければ、価値がない。
朝陽の中で、そんな式がいつの間にか出来上がっていた。
⸻
中学一年生の春。
母が、一人の男を連れてきた。
「この人と、結婚することになったの」
その男の名は、元(はじめ)。
会社員で、穏やかな目をしていた。
すぐに引っ越しが決まり、三人での生活が始まった。
母は水商売を辞め、コールセンターで働き始めた。
元は朝、朝陽と同じ時間に家を出て、途中まで同じ道を歩く。
それだけのことが、朝陽には新鮮だった。
——家族、みたいだ。
困惑しながらも、胸の奥が少しだけ温かくなる。
テストで八十点を取ったとき、元は目を細めて言った。
「すごいじゃないか」
その一言が、嬉しくてたまらなかった。
もっと頑張ろう、と思った。
掃除も、洗濯も、料理も、勉強も。
料理の腕は壊滅的だった。
食べられなくはないけれど、微妙な味。
それでも朝陽が台所に立つと、元は止めなかった。
代わりに、週末に作り置きをしてくれるようになった。
「朝陽は勉強、頑張ってるからな」
そう言ってくれる声が、誇らしかった。
半年ほど経った頃。
期末テストで、朝陽は学年一位になった。
元は、自分のことのように喜んだ。
「すごいな。何か、ご褒美をあげないとな」
その言葉に、胸が高鳴る。
「偉いな。何か、お父さんにして欲しいことはあるか?」
その問いに、朝陽は少し迷ってから、口を開いた。
「……一緒に、料理をしたいです」
元は驚いたように目を見開き、それから笑った。
「そんなことでいいのか」
「はい」
「いいぞ。週末に時間を取ろう」
その約束が、嬉しくて嬉しくて。
朝陽は、久しぶりに「楽しみ」を抱えた。
⸻
週末。
キッチンに並んで立つ。
オムライスの作り方を教わりながら、卵を混ぜる。
フライパンから立ち上る匂い。
「上手だぞ」
そう言われた瞬間だった。
「――あんたなんか、いなければよかったのに!!」
鋭い叫び声。
振り返ると、母・琉璃が立っていた。
目を吊り上げ、今にも手を上げそうな勢い。
0
あなたにおすすめの小説
幸せごはんの作り方
コッシー
BL
他界した姉の娘、雫ちゃんを引き取ることになった天野宗二朗。
しかし三十七年間独り身だった天野は、子供との接し方が分からず、料理も作れず、仕事ばかりの日々で、ずさんな育て方になっていた。
そんな天野を見かねた部下の水島彰がとった行動はーー。
仕事もプライベートも完璧優秀部下×仕事中心寡黙上司が、我が儘を知らない五歳の女の子と一緒に過ごすお話し。
【完結】君の穿ったインソムニア
古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。
純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。
「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」
陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
告白ゲーム
茉莉花 香乃
BL
自転車にまたがり校門を抜け帰路に着く。最初の交差点で止まった時、教室の自分の机にぶら下がる空の弁当箱のイメージが頭に浮かぶ。「やばい。明日、弁当作ってもらえない」自転車を反転して、もう一度教室をめざす。教室の中には五人の男子がいた。入り辛い。扉の前で中を窺っていると、何やら悪巧みをしているのを聞いてしまった
他サイトにも公開しています
天使から美形へと成長した幼馴染から、放課後の美術室に呼ばれたら
たけむら
BL
美形で天才肌の幼馴染✕ちょっと鈍感な高校生
海野想は、保育園の頃からの幼馴染である、朝川唯斗と同じ高校に進学した。かつて天使のような可愛さを持っていた唯斗は、立派な美形へと変貌し、今は絵の勉強を進めている。
そんなある日、数学の補習を終えた想が唯斗を美術室へと迎えに行くと、唯斗はひどく驚いた顔をしていて…?
※1話から4話までは別タイトルでpixivに掲載しております。続きも書きたくなったので、ゆっくりではありますが更新していきますね。
※第4話の冒頭が消えておりましたので直しました。
紹介なんてされたくありません!
mahiro
BL
普通ならば「家族に紹介したい」と言われたら、嬉しいものなのだと思う。
けれど僕は男で目の前で平然と言ってのけたこの人物も男なわけで。
断りの言葉を言いかけた瞬間、来客を知らせるインターフォンが鳴り響き……?
キミがいる
hosimure
BL
ボクは学校でイジメを受けていた。
何が原因でイジメられていたかなんて分からない。
けれどずっと続いているイジメ。
だけどボクには親友の彼がいた。
明るく、優しい彼がいたからこそ、ボクは学校へ行けた。
彼のことを心から信じていたけれど…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる