17 / 43
17.悪いお医者様②
しおりを挟む
「誰をでしょうか?」
「レティシア様のことです。随分と失礼な呼び名ですが付けたのは私ではありません。ですが、一部の者は親しみを込めてそう呼んでいたんですよ。在学中、あなたは誰に対しても”君”という言い方はしなかったと聞いています」
聞けば、彼は兄やロイドと同学年だという。
初耳だと伝えると、彼らは覚えていなかったようなので、あえて言いませんでしたと告げてきた。知り合いだからと優遇されたくなかったらしい。普通ならコネを利用しようとするものが多いけれど、やはり彼は他の人とは違う。
「はい、当たり前のことですから。ですが、そんなふうに呼ばれていたのは知りませんでした」
「知って不快に思いましたか?」
私は答える前に、ふふと笑う。
「いいえ、ちっとも。マール先生がそう呼んだ時の声音がとても優しかったので、他の人達も同じだったのかなと、なんだか嬉しいです。知らぬ間に友人が増えて? 得した気分です」
「レティシア様らしい返事ですね」
彼は続けて、私のことを図書室で見かけたことがあると教えてくれた。学年が違ったので、直接話す機会はなかったそうだ。それを聞いてほっとした。兄達のように忘れていたら失礼過ぎるから。
「図書室では高位の者は当然のごとく良い場所を譲らせる。何も言わずに机のそばに来て、下位の者はそそくさと移動する。ですが、あなたは最初から空いている席に向かってましたね」
「早い者勝ちですから」
不文律のようなものがあるのは知っていた。でも、身分を笠に着るのは違うと思ったから普通にしていただけ。特別なことはしていない。
「そう思わない者が殆どでした。高位も下位も学園の色に染まっていきます。そのほうが楽ですから。あなただけは染まらなかった。私はあなたのことを存外知っているのですよ。その私が言います――あなたは悪くない」
彼はまっすぐに私の目を見て言う。
穏やかな口調なのに力強く感じる――人を安心させる声音。
悩みについては何も話していないのに、とても気が楽になっていた。……彼はとても不思議なお医者様だ。普通の医者とは全然違う。
「マール先生のお薬はよく効きますね」
「法外な診察料を取っていますので、それなりに。それと心苦しいのですが、更に上乗せをお願いしてもいいでしょうか?」
まさかまた要求されるとは思っていなかったので少し驚く。彼の顔は真剣そのものだったから、平民の診察に力を入れたいのかもしれない。助けて貰っているのだから、協力できることはしたい。
「私に払える金額でしたら……」
私が頷くと、彼は間髪を入れず言葉を発する。
「お金ではなく、肉体労働でお願いします」
「…………」
体力には自信がないのだけど大丈夫かしら?
まさかの要求でキョトンとする私に、彼は眉を八の字にして話し出す。
「この温室に来るまでに、たくさんの者達から叱られました。間を置かずに診察とは若奥様の負担を考えろと。藪医者、金の亡者とコソコソ囁いていましたね。温室までの道のりは針の筵でした。そうでないとみんなに伝えてくれませんか? ざっと二十人以上から言われたので大変な作業――まさしく肉体労働です」
「そんなに……」
「睨んでいただけの者も数えたらそれ以上です。レティシア様をお慕いしている者は多いですから。ほら、」
彼が指差した先には磨りガラス越しにたくさんの人影があった。
侍女に、庭師に、御者まで。あの帽子は……そう、料理長だわ。
普段はこの時間、ここにいるはずがない人達が不自然に行ったり来たりしている。
彼は独特な言い回しで、彼らの優しさを私に伝えてくれた。彼らに、そしてマールの気遣いに胸が熱くなる。
「そうだ、金の亡者は訂正しなくて構いません」
「誤解されたままでいいのですか? マール先生」
「本当のことですので。レティシア様に嘘を吐かせたと分かったらまた叱られます。それだけは勘弁です」
彼が口元を緩めて声を出さずに笑うと、私は声を上げて笑う。
南側に面した温室の窓は今日、開かれている。私の楽しげな声は外にも届いていることだろうから、きっと肉体労働は必要ないはず。
彼はどうしてこんなにも薬の処方が上手なんだろうか。これから待ち受けている困難を、私でも乗り越えられる気がしていた。
「レティシア様のことです。随分と失礼な呼び名ですが付けたのは私ではありません。ですが、一部の者は親しみを込めてそう呼んでいたんですよ。在学中、あなたは誰に対しても”君”という言い方はしなかったと聞いています」
聞けば、彼は兄やロイドと同学年だという。
初耳だと伝えると、彼らは覚えていなかったようなので、あえて言いませんでしたと告げてきた。知り合いだからと優遇されたくなかったらしい。普通ならコネを利用しようとするものが多いけれど、やはり彼は他の人とは違う。
「はい、当たり前のことですから。ですが、そんなふうに呼ばれていたのは知りませんでした」
「知って不快に思いましたか?」
私は答える前に、ふふと笑う。
「いいえ、ちっとも。マール先生がそう呼んだ時の声音がとても優しかったので、他の人達も同じだったのかなと、なんだか嬉しいです。知らぬ間に友人が増えて? 得した気分です」
「レティシア様らしい返事ですね」
彼は続けて、私のことを図書室で見かけたことがあると教えてくれた。学年が違ったので、直接話す機会はなかったそうだ。それを聞いてほっとした。兄達のように忘れていたら失礼過ぎるから。
「図書室では高位の者は当然のごとく良い場所を譲らせる。何も言わずに机のそばに来て、下位の者はそそくさと移動する。ですが、あなたは最初から空いている席に向かってましたね」
「早い者勝ちですから」
不文律のようなものがあるのは知っていた。でも、身分を笠に着るのは違うと思ったから普通にしていただけ。特別なことはしていない。
「そう思わない者が殆どでした。高位も下位も学園の色に染まっていきます。そのほうが楽ですから。あなただけは染まらなかった。私はあなたのことを存外知っているのですよ。その私が言います――あなたは悪くない」
彼はまっすぐに私の目を見て言う。
穏やかな口調なのに力強く感じる――人を安心させる声音。
悩みについては何も話していないのに、とても気が楽になっていた。……彼はとても不思議なお医者様だ。普通の医者とは全然違う。
「マール先生のお薬はよく効きますね」
「法外な診察料を取っていますので、それなりに。それと心苦しいのですが、更に上乗せをお願いしてもいいでしょうか?」
まさかまた要求されるとは思っていなかったので少し驚く。彼の顔は真剣そのものだったから、平民の診察に力を入れたいのかもしれない。助けて貰っているのだから、協力できることはしたい。
「私に払える金額でしたら……」
私が頷くと、彼は間髪を入れず言葉を発する。
「お金ではなく、肉体労働でお願いします」
「…………」
体力には自信がないのだけど大丈夫かしら?
まさかの要求でキョトンとする私に、彼は眉を八の字にして話し出す。
「この温室に来るまでに、たくさんの者達から叱られました。間を置かずに診察とは若奥様の負担を考えろと。藪医者、金の亡者とコソコソ囁いていましたね。温室までの道のりは針の筵でした。そうでないとみんなに伝えてくれませんか? ざっと二十人以上から言われたので大変な作業――まさしく肉体労働です」
「そんなに……」
「睨んでいただけの者も数えたらそれ以上です。レティシア様をお慕いしている者は多いですから。ほら、」
彼が指差した先には磨りガラス越しにたくさんの人影があった。
侍女に、庭師に、御者まで。あの帽子は……そう、料理長だわ。
普段はこの時間、ここにいるはずがない人達が不自然に行ったり来たりしている。
彼は独特な言い回しで、彼らの優しさを私に伝えてくれた。彼らに、そしてマールの気遣いに胸が熱くなる。
「そうだ、金の亡者は訂正しなくて構いません」
「誤解されたままでいいのですか? マール先生」
「本当のことですので。レティシア様に嘘を吐かせたと分かったらまた叱られます。それだけは勘弁です」
彼が口元を緩めて声を出さずに笑うと、私は声を上げて笑う。
南側に面した温室の窓は今日、開かれている。私の楽しげな声は外にも届いていることだろうから、きっと肉体労働は必要ないはず。
彼はどうしてこんなにも薬の処方が上手なんだろうか。これから待ち受けている困難を、私でも乗り越えられる気がしていた。
657
あなたにおすすめの小説
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
【本編完結・番外編不定期更新】
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
好きだと言ってくれたのに私は可愛くないんだそうです【完結】
須木 水夏
恋愛
大好きな幼なじみ兼婚約者の伯爵令息、ロミオは、メアリーナではない人と恋をする。
メアリーナの初恋は、叶うこと無く終わってしまった。傷ついたメアリーナはロメオとの婚約を解消し距離を置くが、彼の事で心に傷を負い忘れられずにいた。どうにかして彼を忘れる為にメアが頼ったのは、友人達に誘われた夜会。最初は遊びでも良いのじゃないの、と焚き付けられて。
(そうね、新しい恋を見つけましょう。その方が手っ取り早いわ。)
※ご都合主義です。変な法律出てきます。ふわっとしてます。
※ヒーローは変わってます。
※主人公は無意識でざまぁする系です。
※誤字脱字すみません。
【本編完結】独りよがりの初恋でした
須木 水夏
恋愛
好きだった人。ずっと好きだった人。その人のそばに居たくて、そばに居るために頑張ってた。
それが全く意味の無いことだなんて、知らなかったから。
アンティーヌは図書館の本棚の影で聞いてしまう。大好きな人が他の人に囁く愛の言葉を。
#ほろ苦い初恋
#それぞれにハッピーエンド
特にざまぁなどはありません。
小さく淡い恋の、始まりと終わりを描きました。完結いたします。
あなたへの想いを終わりにします
四折 柊
恋愛
シエナは王太子アドリアンの婚約者として体の弱い彼を支えてきた。だがある日彼は視察先で倒れそこで男爵令嬢に看病される。彼女の献身的な看病で医者に見放されていた病が治りアドリアンは健康を手に入れた。男爵令嬢は殿下を治癒した聖女と呼ばれ王城に招かれることになった。いつしかアドリアンは男爵令嬢に夢中になり彼女を正妃に迎えたいと言い出す。男爵令嬢では妃としての能力に問題がある。だからシエナには側室として彼女を支えてほしいと言われた。シエナは今までの献身と恋心を踏み躙られた絶望で彼らの目の前で自身の胸を短剣で刺した…………。(全13話)
いつまでも変わらない愛情を与えてもらえるのだと思っていた
奏千歌
恋愛
[ディエム家の双子姉妹]
どうして、こんな事になってしまったのか。
妻から向けられる愛情を、どうして疎ましいと思ってしまっていたのか。
【完結】もう誰にも恋なんてしないと誓った
Mimi
恋愛
声を出すこともなく、ふたりを見つめていた。
わたしにとって、恋人と親友だったふたりだ。
今日まで身近だったふたりは。
今日から一番遠いふたりになった。
*****
伯爵家の後継者シンシアは、友人アイリスから交際相手としてお薦めだと、幼馴染みの侯爵令息キャメロンを紹介された。
徐々に親しくなっていくシンシアとキャメロンに婚約の話がまとまり掛ける。
シンシアの誕生日の婚約披露パーティーが近付いた夏休み前のある日、シンシアは急ぐキャメロンを見掛けて彼の後を追い、そして見てしまった。
お互いにただの幼馴染みだと口にしていた恋人と親友の口づけを……
* 無自覚の上から目線
* 幼馴染みという特別感
* 失くしてからの後悔
幼馴染みカップルの当て馬にされてしまった伯爵令嬢、してしまった親友視点のお話です。
中盤は略奪した親友側の視点が続きますが、当て馬令嬢がヒロインです。
本編完結後に、力量不足故の幕間を書き加えており、最終話と重複しています。
ご了承下さいませ。
他サイトにも公開中です
王命を忘れた恋
須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』
そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。
強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?
そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。
婚約解消したら後悔しました
せいめ
恋愛
別に好きな人ができた私は、幼い頃からの婚約者と婚約解消した。
婚約解消したことで、ずっと後悔し続ける令息の話。
ご都合主義です。ゆるい設定です。
誤字脱字お許しください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる