60 / 65
60.越境 一
しおりを挟む
夜のアーケードで川島たちに遭遇した翌日から、晴久は退勤後に社交辞令で誘われることがいっさいなくなった。
あまりにも露骨な反応に晴久は苦笑したが、プライベートを詮索されることもなく、職場で過ごしやすくなっていた。
他の職員から無視されたり避けられている気はしない。ただ、必要以上に近づかれないといった感じだ。
「広瀬さん、知っています? 広瀬さんって、ボディーガードとホストを連れた裏社会系の年上超絶美女に溺愛されているらしいですよ」
噂が晴久の耳にまで入ったのは、落合がわざわざ教えてくれたからだ。
「借金のカタに身売りされて美女に気に入られたんじゃないかって話したら、超ウケていましたよ。でも、いやあ、すげーっすね。色々納得です」
そんな荒唐無稽な話を誰が信じるのかわからないが、色々納得した落合が噂を広めていることはよくわかった。その落合は、なぜか敬語に戻っていた。
晴久にとっては、噂はどうでもよかった。職場で仕事に支障がなければそれでいい。
考え過ぎるな。気にし過ぎるな。
悩みそうになるたびに、石崎の声が聞こえる気がした。
仕事帰りの十九時過ぎ。晴久はいつもと変わらず、駅前広場のベンチに座って人の波をぼんやりと眺める。
誰も僕を知らない。
僕も誰も知らない。
心を沈めて今日の自分を消す。明日を生きるための儀式。
あの日、石崎に出会って晴久の何かが変わった。はっきりと、何かが動き始めた。
僕は存在しない。
それでやっと安心できたはずなのに、
何もないはずの心の底にはいつからか石崎の姿がぼんやりと見えるようになっていた。
その姿を確認して、安心して、晴久の意識はまた日常に戻っていく。
自分を消さなくても明日が来ることを知った。
その出会いを、晴久も石崎も偶然と呼んだ。
お互いの心に決して近づかないオトモダチとして、晴久が他人と接することのできるギリギリの境界で背を向けて立っていた石崎。
晴久の過去を知っているのに、晴久の今と名前は知らない。晴久が石崎の名を知ってからも、晴久にだけ偽名を使い続けてササイと呼ばせなかった。
それが晴久と石崎の距離だった。
他人が怖いのは変わらない。それでも僕はもっと近づきたい。僕は今、全てを欲しいと願っている。
望むなら、手を伸ばせ。
ササイシンのツアーは既に終了した。
晴久が石崎に会いたいと思っていることは、明美から聞いているはずだ。石崎はいずれ現れるだろう。
石崎が来ても来なくても、駅前に寄る晴久の日課は変わらない。
約束はないが、石崎は晴久に会わなければいけない理由を作って去った。
だから、必ず会える。会えると確信している。
晴久はポケットに入れていた名札ホルダーからギターピックを取り出した。
うつむく石崎の姿と弦を押さえる指先を鮮明に思い出す。
石崎はライブハウスで時計台の曲を弾いた。晴久の心の支えとして思い出の中にあり続けた曲だ。
晴久の知るショッピングモールの時計台は、記憶の中にしかない。キヨの南大東島と同じで、今現在の時計台を晴久は知らない。
当時唯一の居場所だった時計台は、晴久が透明人間だった場所でもある。県外とはいえ見に行こうと思えば行ける距離にモールはあるが、ずっと怖くて近づけなかった。時計台を再び見たいとも思わなかった。
だが、石崎があの曲を演奏し、後に明美が歌ったことで思い出は色鮮やかに上書きされた。
今なら時計台をもう一度見ることができる気がした。
晴久はスマホを取り出した。
……県 ショッピングモール……時計台……
いつの日かあのモールへ行き、時計台を再び見上げることができても、それで過去を受け入れたとは言えないだろう。明美たちのように過去を懐かしむことは生涯ないだろう。
自分には決定的に欠けた時間があり、今さら埋めることのできない空白がある。
だが、幸いにも過去に戻ることはできない。
だから振り返らなければいい。ただ前に進めばいい。
今の時計台を見て、またひとつ過去と決別する。
その先に、いつか懐かしく振り返ることのできる日々を積み重ねていけばいい。
きっと僕にはできる。
……検索
「あれ?」
ショッピングモールは今も確かに存在する。だが、時計台がどこにもない。モールの案内にも他の画像にも全く出てこない。
「時計台が、ない?」
あまりにも露骨な反応に晴久は苦笑したが、プライベートを詮索されることもなく、職場で過ごしやすくなっていた。
他の職員から無視されたり避けられている気はしない。ただ、必要以上に近づかれないといった感じだ。
「広瀬さん、知っています? 広瀬さんって、ボディーガードとホストを連れた裏社会系の年上超絶美女に溺愛されているらしいですよ」
噂が晴久の耳にまで入ったのは、落合がわざわざ教えてくれたからだ。
「借金のカタに身売りされて美女に気に入られたんじゃないかって話したら、超ウケていましたよ。でも、いやあ、すげーっすね。色々納得です」
そんな荒唐無稽な話を誰が信じるのかわからないが、色々納得した落合が噂を広めていることはよくわかった。その落合は、なぜか敬語に戻っていた。
晴久にとっては、噂はどうでもよかった。職場で仕事に支障がなければそれでいい。
考え過ぎるな。気にし過ぎるな。
悩みそうになるたびに、石崎の声が聞こえる気がした。
仕事帰りの十九時過ぎ。晴久はいつもと変わらず、駅前広場のベンチに座って人の波をぼんやりと眺める。
誰も僕を知らない。
僕も誰も知らない。
心を沈めて今日の自分を消す。明日を生きるための儀式。
あの日、石崎に出会って晴久の何かが変わった。はっきりと、何かが動き始めた。
僕は存在しない。
それでやっと安心できたはずなのに、
何もないはずの心の底にはいつからか石崎の姿がぼんやりと見えるようになっていた。
その姿を確認して、安心して、晴久の意識はまた日常に戻っていく。
自分を消さなくても明日が来ることを知った。
その出会いを、晴久も石崎も偶然と呼んだ。
お互いの心に決して近づかないオトモダチとして、晴久が他人と接することのできるギリギリの境界で背を向けて立っていた石崎。
晴久の過去を知っているのに、晴久の今と名前は知らない。晴久が石崎の名を知ってからも、晴久にだけ偽名を使い続けてササイと呼ばせなかった。
それが晴久と石崎の距離だった。
他人が怖いのは変わらない。それでも僕はもっと近づきたい。僕は今、全てを欲しいと願っている。
望むなら、手を伸ばせ。
ササイシンのツアーは既に終了した。
晴久が石崎に会いたいと思っていることは、明美から聞いているはずだ。石崎はいずれ現れるだろう。
石崎が来ても来なくても、駅前に寄る晴久の日課は変わらない。
約束はないが、石崎は晴久に会わなければいけない理由を作って去った。
だから、必ず会える。会えると確信している。
晴久はポケットに入れていた名札ホルダーからギターピックを取り出した。
うつむく石崎の姿と弦を押さえる指先を鮮明に思い出す。
石崎はライブハウスで時計台の曲を弾いた。晴久の心の支えとして思い出の中にあり続けた曲だ。
晴久の知るショッピングモールの時計台は、記憶の中にしかない。キヨの南大東島と同じで、今現在の時計台を晴久は知らない。
当時唯一の居場所だった時計台は、晴久が透明人間だった場所でもある。県外とはいえ見に行こうと思えば行ける距離にモールはあるが、ずっと怖くて近づけなかった。時計台を再び見たいとも思わなかった。
だが、石崎があの曲を演奏し、後に明美が歌ったことで思い出は色鮮やかに上書きされた。
今なら時計台をもう一度見ることができる気がした。
晴久はスマホを取り出した。
……県 ショッピングモール……時計台……
いつの日かあのモールへ行き、時計台を再び見上げることができても、それで過去を受け入れたとは言えないだろう。明美たちのように過去を懐かしむことは生涯ないだろう。
自分には決定的に欠けた時間があり、今さら埋めることのできない空白がある。
だが、幸いにも過去に戻ることはできない。
だから振り返らなければいい。ただ前に進めばいい。
今の時計台を見て、またひとつ過去と決別する。
その先に、いつか懐かしく振り返ることのできる日々を積み重ねていけばいい。
きっと僕にはできる。
……検索
「あれ?」
ショッピングモールは今も確かに存在する。だが、時計台がどこにもない。モールの案内にも他の画像にも全く出てこない。
「時計台が、ない?」
1
あなたにおすすめの小説
切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜
水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。
そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー
-------------------------------
松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳
カフェ・ルーシェのオーナー
横家大輝(よこやだいき) 27歳
サッカー選手
吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳
ファッションデザイナー
-------------------------------
2024.12.21~
【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
「普通を探した彼の二年間の物語」
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ソング・バッファー・オンライン〜新人アイドルの日常〜
古森きり
BL
東雲学院芸能科に入学したミュージカル俳優志望の音無淳は、憧れの人がいた。
かつて東雲学院芸能科、星光騎士団第一騎士団というアイドルグループにいた神野栄治。
その人のようになりたいと高校も同じ場所を選び、今度歌の練習のために『ソング・バッファー・オンライン』を始めることにした。
ただし、どうせなら可愛い女の子のアバターがいいよね! と――。
BLoveさんに先行書き溜め。
なろう、アルファポリス、カクヨムにも掲載。
僕の恋人は、超イケメン!!
刃
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる