境界のクオリア

山碕田鶴

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60.越境 一

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 夜のアーケードで川島たちに遭遇した翌日から、晴久は退勤後に社交辞令で誘われることがいっさいなくなった。
   あまりにも露骨な反応に晴久は苦笑したが、プライベートを詮索されることもなく、職場で過ごしやすくなっていた。
 他の職員から無視されたり避けられている気はしない。ただ、必要以上に近づかれないといった感じだ。

「広瀬さん、知っています?  広瀬さんって、ボディーガードとホストを連れた裏社会系の年上超絶美女に溺愛されているらしいですよ」

 噂が晴久の耳にまで入ったのは、落合がわざわざ教えてくれたからだ。

「借金のカタに身売りされて美女に気に入られたんじゃないかって話したら、超ウケていましたよ。でも、いやあ、すげーっすね。色々納得です」

 そんな荒唐無稽な話を誰が信じるのかわからないが、色々納得した落合が噂を広めていることはよくわかった。その落合は、なぜか敬語に戻っていた。
 晴久にとっては、噂はどうでもよかった。職場で仕事に支障がなければそれでいい。
 考え過ぎるな。気にし過ぎるな。
 悩みそうになるたびに、石崎の声が聞こえる気がした。



 仕事帰りの十九時過ぎ。晴久はいつもと変わらず、駅前広場のベンチに座って人の波をぼんやりと眺める。

 誰も僕を知らない。
 僕も誰も知らない。

 心を沈めて今日の自分を消す。明日を生きるための儀式。
 あの日、石崎に出会って晴久の何かが変わった。はっきりと、何かが動き始めた。

 僕は存在しない。

 それでやっと安心できたはずなのに、
 何もないはずの心の底にはいつからか石崎の姿がぼんやりと見えるようになっていた。
   その姿を確認して、安心して、晴久の意識はまた日常に戻っていく。
 自分を消さなくても明日が来ることを知った。
 その出会いを、晴久も石崎も偶然と呼んだ。
 お互いの心に決して近づかないオトモダチとして、晴久が他人と接することのできるギリギリの境界で背を向けて立っていた石崎。
 晴久の過去を知っているのに、晴久の今と名前は知らない。晴久が石崎の名を知ってからも、晴久にだけ偽名を使い続けてササイと呼ばせなかった。
 それが晴久と石崎の距離だった。
 他人が怖いのは変わらない。それでも僕はもっと近づきたい。僕は今、全てを欲しいと願っている。

   望むなら、手を伸ばせ。

 ササイシンのツアーは既に終了した。
   晴久が石崎に会いたいと思っていることは、明美から聞いているはずだ。石崎はいずれ現れるだろう。
 石崎が来ても来なくても、駅前に寄る晴久の日課は変わらない。
 約束はないが、石崎は晴久に会わなければいけない理由を作って去った。
 だから、必ず会える。会えると確信している。
 晴久はポケットに入れていた名札ホルダーからギターピックを取り出した。
 うつむく石崎の姿と弦を押さえる指先を鮮明に思い出す。
 石崎はライブハウスで時計台の曲を弾いた。晴久の心の支えとして思い出の中にあり続けた曲だ。
 晴久の知るショッピングモールの時計台は、記憶の中にしかない。キヨの南大東島と同じで、今現在の時計台を晴久は知らない。
 当時唯一の居場所だった時計台は、晴久が透明人間だった場所でもある。県外とはいえ見に行こうと思えば行ける距離にモールはあるが、ずっと怖くて近づけなかった。時計台を再び見たいとも思わなかった。
 だが、石崎があの曲を演奏し、後に明美が歌ったことで思い出は色鮮やかに上書きされた。
 今なら時計台をもう一度見ることができる気がした。
 晴久はスマホを取り出した。
 ……県  ショッピングモール……時計台……
 いつの日かあのモールへ行き、時計台を再び見上げることができても、それで過去を受け入れたとは言えないだろう。明美たちのように過去を懐かしむことは生涯ないだろう。
   自分には決定的に欠けた時間があり、今さら埋めることのできない空白がある。
 だが、幸いにも過去に戻ることはできない。
   だから振り返らなければいい。ただ前に進めばいい。
 今の時計台を見て、またひとつ過去と決別する。
 その先に、いつか懐かしく振り返ることのできる日々を積み重ねていけばいい。
 きっと僕にはできる。
 ……検索

「あれ?」

 ショッピングモールは今も確かに存在する。だが、時計台がどこにもない。モールの案内にも他の画像にも全く出てこない。

「時計台が、ない?」
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