敗戦国の元王子へ 〜私を追放したせいで貴国は我が帝国に負けました。私はもう「敵国の皇后」ですので、頭が高いのではないでしょうか?〜

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第二話:追放の馬車と国境の雪

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ゴトゴトと、車輪が回る音が続いている。

王都を出てから、もう何時間が経過しただろうか。 窓の外の景色は、豊かな田園風景から、荒涼とした岩肌と針葉樹の森へと変わっていた。

寒い。 足の感覚が、徐々になくなっていく。

私が乗せられているこの馬車は、囚人護送用ではないものの、それに近い粗悪なものだ。 窓ガラスの隙間から、容赦なく冷気が入り込んでくる。 座席にはクッションもなく、木の板が直接、私のお尻と腰を打ち据える。

けれど、不思議と苦痛ではなかった。 先ほどまで流していた涙も、いつの間にか乾いていた。 私の思考は、冷え切った体とは裏腹に、驚くほど冴え渡り始めていたからだ。

(……この揺れの少なさ)

私は、ガタガタと音を立てる車内を見回した。 馬車自体は最悪だ。 サスペンションなどついていないし、車軸も歪んでいるかもしれない。 それなのに、決定的な突き上げが来ない。

それは、道が良いからだ。

私は窓に張り付き、眼下の道路を見つめた。 泥濘(ぬかるみ)になりやすい土の道ではなく、水はけの良い砂利と、その下層にしっかりと敷き詰められた砕石。 道の両脇には、雪解け水を流すための側溝が完璧な角度で掘られている。

これは、私が三ヶ年計画で整備させた『北方産業道路』だ。

かつて、この地域の村々は、冬になると雪で孤立していた。 病人が出ても医者を呼べず、食料が尽きても運び込めず、春には餓死者が出るのが当たり前だった。

『採算が合わない』 『たかが数千人の村人のために、巨額の予算を投じる必要はない』

財務省の役人たちはそう言って反対した。 レイモンド殿下も、『そんな地味な工事よりも、王都の広場に俺の銅像を建てたい』と言って興味を示さなかった。

それでも、私は譲らなかった。 何度も現場に足を運び、土質を調査し、最もコストパフォーマンスの良い工法を算出し、反対派を論理と数字でねじ伏せた。

結果、この道ができた。 物流速度は三倍になり、冬場の死者は激減した。 北部の特産品である毛皮や鉱石が王都へスムーズに届くようになり、国庫への税収も増えた。

(……皮肉なものね)

私は、自分の仕事の成果を、自らの体で確かめることになった。 私が作った道が、私をこの国から追い出すために使われている。 この道がこれほど快適でなければ、馬車はもっと難儀し、国境に着く前に夜が明けていたかもしれないのに。

「……ふっ」

乾いた笑いが漏れた。 自分の有能さが、自分の首を絞めている。 なんて滑稽なのだろう。

けれど、同時に誇らしくもあった。 見て、この美しいカーブを。 馬車が減速せずに曲がれるように計算された、緩和曲線。 あれも私の指示だ。

レイモンド殿下には、この道の価値など一生理解できないだろう。 彼が馬車に乗るときは、最高級のクッションと魔法具による温調が完備された王室専用車だ。 道が悪かろうが良かろうが、彼のお尻が痛くなることはない。 だから、インフラ整備の重要性になど気づきもしない。

『地味だ』 『可愛げがない』

彼の言葉が蘇る。 そうね、確かに地味だわ。 土と石と汗にまみれた仕事だもの。 キラキラした宝石や、甘い言葉や、聖女の祈りのような華やかさはどこにもない。

でも、この道は確実に人の命を救っている。 ミナの祈りが届かない場所でも、この道があれば医者が行ける。食料が届く。

(私は、間違っていなかった)

その確信だけが、凍えそうな私の心を支えていた。

     * * *

日が傾き、空が茜色から群青色へと染まり始めた頃。 馬車が停止した。

「降りろ」

御者台から、兵士の低い声が飛んでくる。 扉が開かれると、猛烈な冷気が車内に雪崩れ込んできた。

私は震える体を押して、馬車を降りた。

そこは、世界の果てのような場所だった。 見渡す限りの雪。 切り立った山々が、巨人の壁のように立ちはだかっている。 風が唸りを上げ、私の頬を刃物のように切り裂く。

「ここは……」

「国境の緩衝地帯だ。この先の橋を渡れば、帝国の領土になる」

兵士は私を見ることなく、指差した。 その先には、深い谷に架かる一本の石橋が見えた。 古びてはいるが、堅牢な作りの橋だ。

「俺たちの任務はここまでだ。あとは勝手に行け」

「……待ってください。ここで置いていかれるのですか? この寒空の下に、着替えも食料もなく?」

「知るかよ。殿下の命令だ。『国境の外へ捨ててこい』とな」

兵士は面倒くさそうに唾を吐いた。

「ま、運が良ければ帝国の巡回兵に拾ってもらえるんじゃないか? 運が悪ければ、朝には凍った肉塊だがな」

「……そうですか」

私はそれ以上、何も言わなかった。 彼に慈悲を乞うても無駄だ。 彼は命令に従っているだけの駒に過ぎない。

兵士はさっさと馬車の向きを変え、来た道を戻り始めた。 鞭の音が響き、馬車が遠ざかっていく。

後に残されたのは、私と、静寂と、死の気配だけ。

王国の方向を振り返る。 馬車の灯りが、小さくなっていく。 あれが見えなくなれば、私と祖国を繋ぐ糸は完全に切れる。

(さようなら)

私は心の中で呟いた。 未練はないと言えば嘘になる。 だって、あの国を良くするために、私の青春のすべてを費やしたのだから。

でも、もうあの国は私を必要としない。 私が作った道を、私を捨てるために使った国だ。

私はくるりと踵を返した。 目指すは、石橋の向こう。 帝国。

一歩、足を踏み出す。 雪が、薄い靴底を通して冷たさを伝えてくる。 ドレスの裾が濡れて重い。

寒い。 痛い。

公爵令嬢として育った私にとって、この環境は過酷すぎる。 本来なら、数分で心が折れて座り込んでいただろう。

けれど、私の脳はフル回転していた。

(現在の気温、体感でマイナス五度。風速、およそ十メートル。体温の低下速度を考慮すると、意識を保てるのはあと一時間……いいえ、三十分が限界ね)

恐怖よりも先に、計算式が浮かぶ。 これも職業病だろうか。

(このまま立ち止まれば死ぬ。橋を渡り、帝国の関所まで辿り着ける確率は……五分五分以下。でも、ゼロじゃない)

歩くのよ、コーデリア。 足を止めないで。 思考を止めないで。

私は歩き出した。 雪を踏みしめる音だけが、耳に届く。 ザクッ、ザクッ。

橋の上に差し掛かる。 谷底から吹き上げる風が、私の体を吹き飛ばそうとする。 手すりにしがみつき、必死に耐える。

「……っ!」

指の感覚がない。 耳がちぎれそうだ。

ふと、橋の中央にある石碑が目に入った。 国境を示す石碑だ。 ここから先は、王国法が通用しない。 レイモンド殿下の権力も、父の勘当も、ミナの嘲笑も、ここには届かない。

自由だ。 そして、孤独だ。

橋を渡りきったところで、私は力尽きかけた。 膝がガクガクと震え、言うことを聞かない。 視界が白く霞んでいく。

(ああ……ここまで、なの……?)

雪の上に膝をつく。 冷たさが、心地よい眠気へと変わっていく。 これが、凍死の前兆か。

その時だった。

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

規則正しい、重厚な音が聞こえた。 風の音ではない。 もっと硬質で、人工的な音。 金属が擦れ合う音。

顔を上げる。

雪の向こうから、黒い影が現れた。

一つではない。 十、二十……いいえ、もっと。

全身を黒塗りの甲冑で覆った、異様な集団。 彼らが手にしているのは、王国の兵士が持つような粗末な槍ではなく、統一された規格のハルバード。 その胸には、咆哮する狼の紋章が刻まれている。

帝国軍。 しかも、ただの国境警備隊ではない。 あの装備の質、一糸乱れぬ行軍。 あれは……。

(皇帝直属、近衛騎士団……『黒狼騎士団』!?)

なぜ、こんなところに? 彼らは帝都を守る最強の盾であり、皇帝の矛のはず。 こんな辺境の国境地帯にいるはずがない。

まさか、侵攻の準備? 王国に攻め込むつもりなの?

私の警戒心が、眠気を一瞬だけ吹き飛ばした。 逃げなければ。 でも、体が動かない。

騎士団の先頭を行く一団が、私に気づいた。 彼らは足を止めず、真っ直ぐに私へ向かってくる。

殺される。 敵国の公爵令嬢など、格好の人質か、あるいはその場で切り捨てられるか。

私は覚悟を決めて、精一杯の虚勢を張った。 震える唇を噛み締め、彼らを睨みつける。 せめて、誇り高く死ぬために。

騎士たちが私の前で止まった。 黒い壁が、私を取り囲む。 兜の奥から、値踏みするような視線を感じる。

そして、列が割れた。

奥から、一人の男が歩み出てくる。

彼だけは兜を被っていなかった。 月光のような銀髪。 血のように赤い瞳。 彫像のように整っているが、体温を感じさせない冷徹な美貌。 身に纏うのは、漆黒の軍服と、分厚い毛皮のマント。

息を呑んだ。 知っている。 肖像画で見たことがある。 報告書で何度もその名を記述した。

ジークハルト・フォン・エーデルシュタイン。 この大陸で最も恐れられ、最も優れた君主。 『氷の皇帝』その人だ。

彼が、私の目の前に立っている。 幻覚? それとも、死神が見せている夢?

彼は私を見下ろした。 その瞳には、感情の色が見えない。 まるで氷河の底を覗き込んでいるようだ。

「……王国は、本当に愚かだな」

彼が口を開いた。 その声は、低く、深く、腹の底に響くようなバリトンだった。

「宝石を泥の中に捨てるとは」

彼は私の前に跪いた。 雪の上に、躊躇いもなく膝をつく。 そして、凍りついた私の手を取り、彼の手袋に包まれた両手で優しく包み込んだ。

「え……?」

私は声を漏らした。 皇帝が、跪いた? 敵国の、追放された女に?

「寒かっただろう、コーデリア嬢」

彼の口から、私の名前が出た。 なぜ、私の名を知っているの?

「探したぞ。貴女が匿名で発表した『大陸間物流の効率化に関する提言』……あれを読んでから、ずっと貴女と話がしたかった」

「論文……?」

それは、私が暇つぶし……いいえ、鬱憤晴らしに書き殴り、他国の学術誌に偽名で投稿した論文だ。 王国内では誰も評価しなかった、誰も理解しようとしなかった、私の空想の産物。

「あの理論は美しい。だが、我が国の現状では実現不可能な点がいくつかある。それを貴女に問いたかった。……もっとも、今はそれどころではないな」

彼は私の顔色を見て、眉をひそめた。 そして、自分の羽織っていた毛皮のマントを外し、私の肩にふわりとかけた。 温かい。 彼の体温と、上質な毛皮の温もりが、冷え切った体を包み込む。

「立てるか?」

「あ……足が……」

「失礼する」

彼は短く断ると、軽々と私を横抱きにした。 いわゆる、お姫様抱っこだ。

「きゃっ……!?」

「じっとしていろ。体力を消耗する」

彼の腕は、鋼鉄のように硬く、安定していた。 間近で見上げる彼の顔は、やはり美しく、そしてどこか緊張しているように見えた。

「行くぞ。軍医を待たせてある」

彼が合図をすると、黒い騎士団が一斉に方向転換し、道を開けた。 その先には、豪奢な馬車……皇帝専用の馬車が待機していた。

「あ、あの……陛下……?」

私は混乱の中で、問いかけた。

「貴方様は、なぜ……ここに?」

偶然通りかかったわけではない。 『探した』と彼は言った。

ジークハルト陛下は、歩きながら私に視線を落とした。 その赤い瞳が、初めて微かに揺れたように見えた。

「迎えに来たに決まっているだろう」

彼は、当然のことのように言った。

「私の運命の相手を」

……はい?

運命の、相手? 今、この氷の皇帝はなんと言ったの?

思考が追いつかない。 物流の話ではなかったの? 論文の話ではなかったの?

「我が帝国は、貴女を歓迎する。……いいや、違うな」

彼は馬車の前で立ち止まり、私を抱き直した。 そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、私の耳元で囁いた。

「私が、貴女を欲しかったのだ。ずっと前から」

その声には、先ほどまでの冷徹さとは違う、焦がれるような熱が篭っていた。

雪は降り続いている。 けれど、もう寒くはなかった。 私のこれからの運命が、大きく、激しく動き出したことを予感させる熱が、そこにはあった。
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