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第五話:隣国からの嘲笑
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一方、その頃。 コーデリアを追放した王国の王城では、小さな、しかし確実な綻びが生じ始めていた。
「おい! 書類はまだか! 北部の輸送計画書だ!」
レイモンド王太子の怒鳴り声が執務室に響く。 侍従たちが青ざめた顔で書類の山をひっくり返していた。
「も、申し訳ありません殿下! 探しているのですが、見当たらず……」
「ええい、無能共め! コーデリアがいた頃は、言わずとも机の上に揃っていたぞ!」
レイモンドはイライラと貧乏ゆすりをし、インク壺をガシャンと倒した。 黒いインクが、高価な絨毯にシミを作る。
以前なら、コーデリアが先回りしてインクを補充し、倒れにくい位置に配置し、そもそも彼が癇癪を起こさないように完璧なスケジュール管理を行っていた。 だが、今の執務室は混沌そのものだった。
「レイモンド様ぁ、カリカリしないでぇ」
その殺伐とした空気に、場違いな甘い声が割り込む。 ソファでくつろいでいた聖女ミナだ。 彼女はクッキーをかじりながら、無邪気に首を傾げた。
「書類なんて、あとでいいじゃないですかぁ。それよりぃ、お庭のお花が元気ないんです。私の祈りで元気づけてあげてもいいですかぁ?」
「……ああ、そうだね。ミナの聖女の力は、そんな紙切れよりも尊い」
レイモンドは表情を緩め、ミナの頭を撫でた。 現実逃避だ。 目の前の山積みの業務から目を背け、ミナという「癒やし」に逃げ込んでいるに過ぎない。
「でもぉ、なんだか最近、お城の中が寒くないですかぁ? 私、冷え性だから困っちゃう」
ミナが身震いをする。 確かに、執務室の暖炉の火は弱々しく、廊下からは冷気が忍び込んでいた。
「おい、薪はどうした! なぜ火を大きくしない!」
レイモンドが侍従に怒鳴る。
「そ、それが……薪の納入業者が『契約更新の手続きがされていない』と言って、納品を止めてしまいまして……」
「なんだと? たかが薪だろう! 業者の分際で王家に逆らうのか!」
「い、いえ、以前はコーデリア様が個人的な伝手で、良質な薪を安く手配されていたようで……正規ルートだと価格が三倍になり、予算の承認印が必要だと……」
「ちっ、あの女、余計なことを……! いなくなってまで俺の手を煩わせるのか!」
レイモンドは舌打ちをした。 コーデリアがやっていた「根回し」や「価格交渉」という見えない労働に、彼は気づいていない。 ただ「勝手に快適だった環境」が損なわれたことに腹を立てているだけだった。
「もういい! 予算など後回しだ! とにかく部屋を暖めろ! ミナが風邪を引いたらどうするんだ!」
「は、はい!」
侍従は慌てて部屋を出て行った。 その背中には、「無理だ」という諦めが滲んでいた。
そう、まだ彼らは気づいていない。 これが、崩壊の序曲に過ぎないことを。 薪一つ満足に手配できない政権に、国家という巨大なシステムを維持できるはずがないことを。
* * *
数日後。 帝国から一通の親書が届いた。 豪奢な封筒には、帝国の皇帝印が押されている。
「ん? 帝国からか。……降伏勧告か何かか?」
レイモンドは鼻で笑いながら、ペーパーナイフで封を切った。 隣でミナが覗き込む。
「なになにぃ? 『皇帝ジークハルトより、王国に対し通告する』……?」
レイモンドが読み上げるにつれ、その顔が歪んでいった。 最初は驚きに、次は困惑に、そして最後は――侮蔑に変わった。
『我が帝国は、貴国の元公爵令嬢コーデリア・エバハートを保護した。彼女の才覚と人徳を高く評価し、予てよりの希望通り、我が帝国の皇后として迎え入れることとする。近日中に正式な婚約式を執り行う』
読み終えた瞬間、レイモンドは吹き出した。
「ぶはっ! なんだこれは! ギャグか!?」
彼は腹を抱えて笑った。
「おい聞いたかミナ! あの『鉄の女』が皇后だと! しかもあの『氷の皇帝』がか!?」
「きゃははは! うっそー! あの地味で暗いコーデリア様がぁ? 帝国って、よっぽど人材不足なんですねぇ!」
ミナも手を叩いて笑う。
「『才覚と人徳』だってさ! あいつにそんなものがあるわけないだろ! あるのは可愛げのない理屈と、男を萎えさせる冷たい目だけだ!」
「きっとぉ、帝国の人たちは怖い顔してるから、コーデリア様みたいな陰気な人がお似合いなんですよぉ。お似合いのカップル~!」
二人は執務室で嘲笑い合った。 彼らにとって、コーデリアは「捨てたゴミ」であり、価値のない存在だ。 それを敵国の皇帝が拾い上げ、「宝石だ」と言っている。 それは彼らのプライドを刺激すると同時に、滑稽な喜劇にしか見えなかった。
「よし、返事を書いてやろう。親切な同盟国として、忠告してやらんとな」
レイモンドはペンを取り、サラサラと羊皮紙に書き殴った。
『親愛なる皇帝陛下へ。 その女を拾ってくれるとは、感謝に堪えない。こちらは粗大ゴミの処分に困っていたところだ。 彼女は可愛げがなく、頭も固く、女としての魅力は皆無だぞ? 返品は受け付けないので、そちらの寒い国でお似合いの氷像夫婦として仲良くやってくれ。 ああ、結婚祝いとして、彼女が執務室に忘れていった古臭いペンでも送ってやろうか?』
「きゃー、レイモンド様ったら辛辣ぅ! でも本当のことだから仕方ないですよねぇ」
「だろう? これを読めば、皇帝も恥ずかしくて顔を真っ赤にするだろうさ」
レイモンドは満足げに封をし、使者に渡した。
「これを帝国へ送れ。大至急だ」
彼らは知らなかった。 その手紙が、虎の尾を踏むどころか、ドラゴンの逆鱗に触れる行為であることを。 そして、その「古臭いペン」こそが、コーデリアにとって何よりも大切な、亡き母の形見であったことも。
* * *
帝城、謁見の間。
空気は凍りついていた。 物理的な温度ではない。 玉座に座るジークハルト陛下から放たれる、絶対零度の殺気が、空間そのものを凍結させているのだ。
陛下の震える手には、王国から届いた返信が握られていた。
「…………」
無言。 それが余計に恐ろしい。 並み居る将軍たちですら、息を潜めて陛下の顔色を窺っている。
パリン。
静寂を破ったのは、陛下が握りしめていたワイングラスが砕ける音だった。 赤い液体が、白い手袋を染めて滴り落ちる。
「……陛下、お手が」
隣に控えていた私が声をかけると、陛下はゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、深紅に燃えていた。 激怒などという生易しいものではない。 憎悪と、軽蔑と、そして深い悲しみが入り混じった、凄絶な色。
「コーデリア」
地を這うような低い声。
「彼らは、貴女を『ゴミ』と呼んだ」
「……はい」
「貴女が人生をかけて守ってきた国を、貴女が寝る間も惜しんで支えてきた王家が、貴女を嘲笑った」
彼は立ち上がり、手紙をぐしゃりと握りつぶした。 青白い炎のような魔力が立ち上り、羊皮紙が一瞬で灰になって消える。
「許さん……。断じて、許さんぞ……!」
ドォォン!!
彼の覇気に呼応して、謁見の間の窓ガラスが一斉にヒビ割れた。 雷鳴のような怒声が轟く。
「我が妻を侮辱することは、このジークハルトへの宣戦布告と見なす! 奴らに、後悔する時間すら与えるな! 徹底的に、完膚なきまでに叩き潰せ!!」
将軍たちが一斉に平伏する。 「御意!!」という怒号が広間にこだまする。
帝国軍のトップたちが、本気になった瞬間だった。 彼らもまた、この数日で私の改革による恩恵を受け、私を「賢公」として認め始めていた。 その恩人を愚弄された怒りは、陛下と同じだった。
私は、ハンカチを取り出し、陛下の血に濡れた手を拭った。
「ジークハルト様。落ち着いてくださいませ」
「……だがっ!」
「怒りで我を忘れては、彼らと同じレベルに落ちてしまいます」
私は静かに諭した。 不思議と、私の心は凪いでいた。 かつて愛した祖国からの罵倒。 「ゴミ」「可愛げがない」。 それらの言葉を聞いても、もう胸は痛まなかった。
ただ、哀れなだけ。 自分たちの首を絞めるロープを、自ら編んでいる彼らが。
「私にお任せください。武力で潰すのは簡単です。ですが、それでは民が犠牲になりますし、彼らは『帝国の暴力だ』と被害者ぶるでしょう」
私は陛下の瞳を見つめ、冷ややかに微笑んだ。
「彼らが一番大事にしているもの……『プライド』と『安楽な生活』。それを、真綿で首を締めるように奪い取って差し上げます」
「……具体的には?」
「経済封鎖です」
私は懐から、一枚の地図を取り出した。
「王国は食料自給率が低い。特に小麦の4割を、我が帝国の属国である南方の小国からの輸入に頼っています。このルートを止めます」
「しかし、それでは属国の商人たちも損をするぞ?」
「いいえ。王国の買い取り価格よりも高く、帝国が買い取ればいいのです。先日の物流改革で浮いた予算を使えば、十分にお釣りが来ます」
私は地図上の「王国の喉元」にあたる街道に、赤い×印をつけた。
「さらに、王国から輸出される宝飾品への関税を500%引き上げます。彼らの主要な外貨獲得手段を断つのです。……贅沢に慣れきった貴族たちが、パンもなく、ドレスも買えない状況になった時。彼らは誰を恨むでしょうか?」
「……無能な王太子、か」
「はい。内部から崩壊させます。彼らが泣いて許しを請う頃には、玉座の主が変わっているかもしれませんね」
私の言葉に、ジークハルト陛下は大きく息を吐き、そしてニヤリと笑った。 それは、獲物を追い詰める捕食者の笑み。
「恐ろしい女だ。……だが、最高だ」
彼は私の腰を引き寄せ、皆の前であることも構わずに抱きしめた。
「頼もしいぞ、私の皇后。存分にやれ。帝国の全権限と、私の愛は、すべて貴女のものだ」
「はい、あなた」
私は彼の胸に顔を埋めた。 この温かさと、絶大な力を背に、私はかつての故郷へ「死刑宣告」を下す準備を整えた。
* * *
翌日。 王国の国境付近にある関所が、突然封鎖された。
「ど、どういうことだ!? 通れないだと!?」
王国の商人が叫ぶ。 彼の馬車には、王都の貴族たちが待ちわびている最高級の小麦が積まれているはずだった。
帝国の兵士は、冷たく告げた。
「本日付で、帝国およびその同盟国から、王国への物資輸出は全面禁止となった。皇帝陛下の勅命である」
「そ、そんな馬鹿な! 契約があるんだぞ!」
「契約? お前たちの王太子が、我が国の皇后陛下を『ゴミ』と呼んで破棄したではないか。我々はゴミを送りつけないように配慮しただけだ」
「な……っ!?」
兵士は槍を構え、威圧した。
「去れ。一粒の麦も、一滴の水も通さん。これは『制裁』だ」
巨大な鉄の門が、重い音を立てて閉ざされる。 その音は、王国の終わりの始まりを告げる鐘の音のように、寒空に響き渡った。
商人は青ざめ、膝から崩れ落ちた。 これが何を意味するか、商人である彼には痛いほど理解できたからだ。
王都では、まだレイモンドとミナが、帝国の「お粗末な結婚」を笑いのネタにしてお茶会を開いていた。 そのお茶菓子が、明日にはなくなることも知らずに。
「おい! 書類はまだか! 北部の輸送計画書だ!」
レイモンド王太子の怒鳴り声が執務室に響く。 侍従たちが青ざめた顔で書類の山をひっくり返していた。
「も、申し訳ありません殿下! 探しているのですが、見当たらず……」
「ええい、無能共め! コーデリアがいた頃は、言わずとも机の上に揃っていたぞ!」
レイモンドはイライラと貧乏ゆすりをし、インク壺をガシャンと倒した。 黒いインクが、高価な絨毯にシミを作る。
以前なら、コーデリアが先回りしてインクを補充し、倒れにくい位置に配置し、そもそも彼が癇癪を起こさないように完璧なスケジュール管理を行っていた。 だが、今の執務室は混沌そのものだった。
「レイモンド様ぁ、カリカリしないでぇ」
その殺伐とした空気に、場違いな甘い声が割り込む。 ソファでくつろいでいた聖女ミナだ。 彼女はクッキーをかじりながら、無邪気に首を傾げた。
「書類なんて、あとでいいじゃないですかぁ。それよりぃ、お庭のお花が元気ないんです。私の祈りで元気づけてあげてもいいですかぁ?」
「……ああ、そうだね。ミナの聖女の力は、そんな紙切れよりも尊い」
レイモンドは表情を緩め、ミナの頭を撫でた。 現実逃避だ。 目の前の山積みの業務から目を背け、ミナという「癒やし」に逃げ込んでいるに過ぎない。
「でもぉ、なんだか最近、お城の中が寒くないですかぁ? 私、冷え性だから困っちゃう」
ミナが身震いをする。 確かに、執務室の暖炉の火は弱々しく、廊下からは冷気が忍び込んでいた。
「おい、薪はどうした! なぜ火を大きくしない!」
レイモンドが侍従に怒鳴る。
「そ、それが……薪の納入業者が『契約更新の手続きがされていない』と言って、納品を止めてしまいまして……」
「なんだと? たかが薪だろう! 業者の分際で王家に逆らうのか!」
「い、いえ、以前はコーデリア様が個人的な伝手で、良質な薪を安く手配されていたようで……正規ルートだと価格が三倍になり、予算の承認印が必要だと……」
「ちっ、あの女、余計なことを……! いなくなってまで俺の手を煩わせるのか!」
レイモンドは舌打ちをした。 コーデリアがやっていた「根回し」や「価格交渉」という見えない労働に、彼は気づいていない。 ただ「勝手に快適だった環境」が損なわれたことに腹を立てているだけだった。
「もういい! 予算など後回しだ! とにかく部屋を暖めろ! ミナが風邪を引いたらどうするんだ!」
「は、はい!」
侍従は慌てて部屋を出て行った。 その背中には、「無理だ」という諦めが滲んでいた。
そう、まだ彼らは気づいていない。 これが、崩壊の序曲に過ぎないことを。 薪一つ満足に手配できない政権に、国家という巨大なシステムを維持できるはずがないことを。
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数日後。 帝国から一通の親書が届いた。 豪奢な封筒には、帝国の皇帝印が押されている。
「ん? 帝国からか。……降伏勧告か何かか?」
レイモンドは鼻で笑いながら、ペーパーナイフで封を切った。 隣でミナが覗き込む。
「なになにぃ? 『皇帝ジークハルトより、王国に対し通告する』……?」
レイモンドが読み上げるにつれ、その顔が歪んでいった。 最初は驚きに、次は困惑に、そして最後は――侮蔑に変わった。
『我が帝国は、貴国の元公爵令嬢コーデリア・エバハートを保護した。彼女の才覚と人徳を高く評価し、予てよりの希望通り、我が帝国の皇后として迎え入れることとする。近日中に正式な婚約式を執り行う』
読み終えた瞬間、レイモンドは吹き出した。
「ぶはっ! なんだこれは! ギャグか!?」
彼は腹を抱えて笑った。
「おい聞いたかミナ! あの『鉄の女』が皇后だと! しかもあの『氷の皇帝』がか!?」
「きゃははは! うっそー! あの地味で暗いコーデリア様がぁ? 帝国って、よっぽど人材不足なんですねぇ!」
ミナも手を叩いて笑う。
「『才覚と人徳』だってさ! あいつにそんなものがあるわけないだろ! あるのは可愛げのない理屈と、男を萎えさせる冷たい目だけだ!」
「きっとぉ、帝国の人たちは怖い顔してるから、コーデリア様みたいな陰気な人がお似合いなんですよぉ。お似合いのカップル~!」
二人は執務室で嘲笑い合った。 彼らにとって、コーデリアは「捨てたゴミ」であり、価値のない存在だ。 それを敵国の皇帝が拾い上げ、「宝石だ」と言っている。 それは彼らのプライドを刺激すると同時に、滑稽な喜劇にしか見えなかった。
「よし、返事を書いてやろう。親切な同盟国として、忠告してやらんとな」
レイモンドはペンを取り、サラサラと羊皮紙に書き殴った。
『親愛なる皇帝陛下へ。 その女を拾ってくれるとは、感謝に堪えない。こちらは粗大ゴミの処分に困っていたところだ。 彼女は可愛げがなく、頭も固く、女としての魅力は皆無だぞ? 返品は受け付けないので、そちらの寒い国でお似合いの氷像夫婦として仲良くやってくれ。 ああ、結婚祝いとして、彼女が執務室に忘れていった古臭いペンでも送ってやろうか?』
「きゃー、レイモンド様ったら辛辣ぅ! でも本当のことだから仕方ないですよねぇ」
「だろう? これを読めば、皇帝も恥ずかしくて顔を真っ赤にするだろうさ」
レイモンドは満足げに封をし、使者に渡した。
「これを帝国へ送れ。大至急だ」
彼らは知らなかった。 その手紙が、虎の尾を踏むどころか、ドラゴンの逆鱗に触れる行為であることを。 そして、その「古臭いペン」こそが、コーデリアにとって何よりも大切な、亡き母の形見であったことも。
* * *
帝城、謁見の間。
空気は凍りついていた。 物理的な温度ではない。 玉座に座るジークハルト陛下から放たれる、絶対零度の殺気が、空間そのものを凍結させているのだ。
陛下の震える手には、王国から届いた返信が握られていた。
「…………」
無言。 それが余計に恐ろしい。 並み居る将軍たちですら、息を潜めて陛下の顔色を窺っている。
パリン。
静寂を破ったのは、陛下が握りしめていたワイングラスが砕ける音だった。 赤い液体が、白い手袋を染めて滴り落ちる。
「……陛下、お手が」
隣に控えていた私が声をかけると、陛下はゆっくりと顔を上げた。 その瞳は、深紅に燃えていた。 激怒などという生易しいものではない。 憎悪と、軽蔑と、そして深い悲しみが入り混じった、凄絶な色。
「コーデリア」
地を這うような低い声。
「彼らは、貴女を『ゴミ』と呼んだ」
「……はい」
「貴女が人生をかけて守ってきた国を、貴女が寝る間も惜しんで支えてきた王家が、貴女を嘲笑った」
彼は立ち上がり、手紙をぐしゃりと握りつぶした。 青白い炎のような魔力が立ち上り、羊皮紙が一瞬で灰になって消える。
「許さん……。断じて、許さんぞ……!」
ドォォン!!
彼の覇気に呼応して、謁見の間の窓ガラスが一斉にヒビ割れた。 雷鳴のような怒声が轟く。
「我が妻を侮辱することは、このジークハルトへの宣戦布告と見なす! 奴らに、後悔する時間すら与えるな! 徹底的に、完膚なきまでに叩き潰せ!!」
将軍たちが一斉に平伏する。 「御意!!」という怒号が広間にこだまする。
帝国軍のトップたちが、本気になった瞬間だった。 彼らもまた、この数日で私の改革による恩恵を受け、私を「賢公」として認め始めていた。 その恩人を愚弄された怒りは、陛下と同じだった。
私は、ハンカチを取り出し、陛下の血に濡れた手を拭った。
「ジークハルト様。落ち着いてくださいませ」
「……だがっ!」
「怒りで我を忘れては、彼らと同じレベルに落ちてしまいます」
私は静かに諭した。 不思議と、私の心は凪いでいた。 かつて愛した祖国からの罵倒。 「ゴミ」「可愛げがない」。 それらの言葉を聞いても、もう胸は痛まなかった。
ただ、哀れなだけ。 自分たちの首を絞めるロープを、自ら編んでいる彼らが。
「私にお任せください。武力で潰すのは簡単です。ですが、それでは民が犠牲になりますし、彼らは『帝国の暴力だ』と被害者ぶるでしょう」
私は陛下の瞳を見つめ、冷ややかに微笑んだ。
「彼らが一番大事にしているもの……『プライド』と『安楽な生活』。それを、真綿で首を締めるように奪い取って差し上げます」
「……具体的には?」
「経済封鎖です」
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「王国は食料自給率が低い。特に小麦の4割を、我が帝国の属国である南方の小国からの輸入に頼っています。このルートを止めます」
「しかし、それでは属国の商人たちも損をするぞ?」
「いいえ。王国の買い取り価格よりも高く、帝国が買い取ればいいのです。先日の物流改革で浮いた予算を使えば、十分にお釣りが来ます」
私は地図上の「王国の喉元」にあたる街道に、赤い×印をつけた。
「さらに、王国から輸出される宝飾品への関税を500%引き上げます。彼らの主要な外貨獲得手段を断つのです。……贅沢に慣れきった貴族たちが、パンもなく、ドレスも買えない状況になった時。彼らは誰を恨むでしょうか?」
「……無能な王太子、か」
「はい。内部から崩壊させます。彼らが泣いて許しを請う頃には、玉座の主が変わっているかもしれませんね」
私の言葉に、ジークハルト陛下は大きく息を吐き、そしてニヤリと笑った。 それは、獲物を追い詰める捕食者の笑み。
「恐ろしい女だ。……だが、最高だ」
彼は私の腰を引き寄せ、皆の前であることも構わずに抱きしめた。
「頼もしいぞ、私の皇后。存分にやれ。帝国の全権限と、私の愛は、すべて貴女のものだ」
「はい、あなた」
私は彼の胸に顔を埋めた。 この温かさと、絶大な力を背に、私はかつての故郷へ「死刑宣告」を下す準備を整えた。
* * *
翌日。 王国の国境付近にある関所が、突然封鎖された。
「ど、どういうことだ!? 通れないだと!?」
王国の商人が叫ぶ。 彼の馬車には、王都の貴族たちが待ちわびている最高級の小麦が積まれているはずだった。
帝国の兵士は、冷たく告げた。
「本日付で、帝国およびその同盟国から、王国への物資輸出は全面禁止となった。皇帝陛下の勅命である」
「そ、そんな馬鹿な! 契約があるんだぞ!」
「契約? お前たちの王太子が、我が国の皇后陛下を『ゴミ』と呼んで破棄したではないか。我々はゴミを送りつけないように配慮しただけだ」
「な……っ!?」
兵士は槍を構え、威圧した。
「去れ。一粒の麦も、一滴の水も通さん。これは『制裁』だ」
巨大な鉄の門が、重い音を立てて閉ざされる。 その音は、王国の終わりの始まりを告げる鐘の音のように、寒空に響き渡った。
商人は青ざめ、膝から崩れ落ちた。 これが何を意味するか、商人である彼には痛いほど理解できたからだ。
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