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第七話:届かない物資
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王国の経済が死にかけていた。
それは、派手な爆発音を伴う崩壊ではない。 静かに、しかし確実に、首を絞められるようにして息絶えようとしていたのだ。
王都の中央広場に面した、商工ギルドの本部。 その応接室で、一人の男が怒号を上げていた。
「どういうことだ! なぜ市場に物が並ばない! 貴様ら、売り惜しみをしているのだろう!」
レイモンド王太子だ。 彼は豪奢なマントを翻し、目の前に座る初老の男性――商工ギルド長を睨みつけていた。
ギルド長は、深くため息をついた。 その目には、王族に対する敬意よりも、話の通じない子供を見るような諦めの色が浮かんでいた。
「殿下。売り惜しみなど滅相もございません。本当に、無いのです」
「嘘をつけ! 倉庫にはまだあるはずだ!」
「倉庫は空です。帝国からの輸入が止まった今、我が国の備蓄などとうの昔に尽きました。南方の属国からのルートも、帝国の高値買い取りによって完全に遮断されています」
ギルド長は淡々と事実を告げた。 だが、レイモンドにはそれが「言い訳」にしか聞こえない。
「ならば、他の国から買えばいいだろう! 西方の海洋国家はどうだ!」
「無理です。西方の商人たちは、我が国の港を避けています」
「なぜだ!」
「港湾設備の老朽化です。以前はコーデリア様が、浚渫(しゅんせつ)工事やクレーンの整備予算を確保し、安全な入港を保証していました。しかし、あの方が去られてからメンテナンスが行われず、先日、座礁事故が起きました。……リスクを冒してまで、貧しくなった我が国に来る船はありません」
コーデリア。 また、その名前だ。
レイモンドは歯ぎしりをした。 どこに行っても、何をしてもうまくいかない原因を探れば、必ずあの女の影に行き当たる。 まるで亡霊だ。
「ええい、うるさい! 言い訳は聞き飽きた!」
レイモンドは机を叩き、一方的な命令を下した。
「本日をもって、『物価統制令』を発令する! 小麦、野菜、肉、薪……すべての生活必需品の価格を、先月の半値に固定せよ!」
ギルド長が目を剥いた。
「は、半値!? 正気ですか!? 仕入れ値が5倍に高騰しているのですぞ!? そんな価格で売れば、商人は一瞬で破産します!」
「知ったことか! 民が苦しんでいるのだぞ? 貴様ら商人は今まで散々甘い汁を吸ってきたのだ、少しは国に還元しろ!」
「無茶苦茶だ……! 商売の理(ことわり)を無視すれば、市場は死にますぞ!」
「黙れ! これは王命だ! 従わぬ店は、反逆罪として取り潰す!」
レイモンドは捨て台詞を残し、肩で風を切って部屋を出て行った。 残されたギルド長は、震える手で顔を覆った。
「……終わりだ。この国は、もう終わりだ」
彼はその日の夜、裏口から密かに使いを出した。 主要な大商人たちへの伝令だ。
『荷をまとめろ。夜陰に乗じて脱出する。……行き先は、帝国だ』
* * *
翌朝。 レイモンドの思惑通り、市場には「安値」の札がついた商品が並ぶ……はずだった。
しかし、現実は残酷だった。
「閉まってる……?」
買い物籠を持った主婦たちが、呆然と立ち尽くしていた。 パン屋も、八百屋も、肉屋も。 すべての店のシャッターが下ろされ、固く閉ざされていたのだ。
『当店は閉店しました』 『長らくのご愛顧、ありがとうございました』
貼り紙だけが、寒風に揺れている。 王都の主要な商店が、一夜にして蒸発したのだ。
赤字で売れと命令されれば、売らないのが一番の自衛策だ。 商売の基本中の基本すら理解していない王太子への、それが商人たちの無言の、そして最大の抵抗だった。
「どうするのよ……今日のパンがないわ」 「お腹が空いたよぉ、ママ……」
子供の泣き声が響く。 市民たちの不安は、恐怖へ、そして怒りへと変わりつつあった。
その不穏な空気を察知したのか、広場の一角に華やかなテントが設営された。 ピンク色の垂れ幕には、王家の紋章と教会のシンボルが描かれている。
「皆様ぁ~! ご安心くださいねぇ~!」
高い場所から、可愛らしい声が降ってくる。 聖女ミナだ。 彼女は純白のドレスに身を包み、バルコニーから手を振っていた。 隣には、引きつった笑顔のレイモンドもいる。
「お店が意地悪して閉まっちゃったみたいですけどぉ、大丈夫です! 私が『聖女の炊き出し』を開催しまぁす!」
おお……と、民衆からどよめきが起こる。 飢えた人々が、救いを求めてテントに殺到した。
「並んでくださぁい! 喧嘩はだめですよぉ!」
ミナは笑顔でスープを配り始めた。 大鍋で煮込まれた、温かいスープ。 人々は震える手で器を受け取り、口に運ぶ。
「……ん?」
最初に違和感を覚えたのは、老人だった。
「これ……ただのお湯じゃねえか?」
スープ皿の中身は、薄く濁ったお湯だった。 具はほとんどない。 申し訳程度に浮いているのは、枯れたような茶色い葉っぱの欠片だけ。
「味が……甘い?」
塩気や肉の旨味ではなく、不自然な甘みがする。
「はいっ、次の方ぁ! 美味しいですかぁ? 私が『美味しくな~れ』って聖なる魔力を込めたんですよぉ!」
ミナが得意げに胸を張る。 そう、彼女は具材がないことを誤魔化すために、甘い味のする魔力を水に込めたのだ。 栄養価はゼロ。 ただの砂糖水のようなお湯だ。
「ふざけるな!」
男が器を地面に叩きつけた。
「俺たちが欲しいのは飯だ! 魔力なんて食えるか! 肉をよこせ! 芋をよこせ!」
「きゃっ! な、なんですか怖い!」
ミナが怯えて後ずさる。
「せっかく私が一生懸命作ったのにぃ……! ひどい、善意を踏みにじるなんて!」
「善意で腹が膨れるかよ! 王族はいいよな、毎日美味いもん食って、俺たちには甘いお湯か!?」 「商人を追い出したのはお前らだって噂だぞ!」 「前の公爵令嬢様がいた頃は、こんなことなかった!」
誰かが叫んだその一言が、広場の空気を決定づけた。
「そうだ! コーデリア様を返せ!」 「あの人は厳しかったけど、俺たちを飢えさせたりはしなかった!」 「偽物の聖女はいらねえ! 賢い元妃様を連れてこい!」
「コ、コーデリア……?」
ミナの顔が歪む。 なぜ、ここでその名前が出るのか。 自分がこんなに可愛くて、優しくて、奉仕しているのに。 なぜ、あの可愛げのない女の方が支持されるのか。
「おのれ、愚民どもが……!」
レイモンドが剣の柄に手をかけた。
「ミナの施しを受け取っておきながら、その暴言は何事か! 不敬罪で全員斬り捨てるぞ!」
「やってみろよ! どうせ飢えて死ぬんだ!」
民衆がじりじりと詰め寄る。 暴動寸前。 その殺気に、レイモンドとミナは顔を引きつらせ、衛兵に守られながら逃げるように城へ退散した。
残されたのは、こぼれた甘いお湯の匂いと、民衆の絶望的な怒りだけだった。
* * *
遠く離れた帝国、帝都。
執務室の窓辺で、私は一枚の報告書を読んでいた。 王都での騒乱。 商人たちの大量亡命。 そして、炊き出しの失敗。
「……予想よりも早かったわね」
私は独り言ちた。 一ヶ月は持つかと思っていたが、半月でここまで崩れるとは。 それだけ、王国のシステムが私の個人的な能力に依存しすぎていたということだ。 属人的すぎる組織は脆い。 私が常に危惧し、改善しようとしていた課題が、最悪の形で証明されてしまった。
胸が痛まないと言えば、嘘になる。 あの広場で怒号を上げている民衆の中には、かつて私が整備した公園で遊んでいた子供たちもいるだろう。 私が守りたかった人々だ。
「……辛いか?」
背後から、温かい手が私の肩を包んだ。 ジークハルト様だ。 いつの間に入ってきたのか、気配を感じさせないのはさすが武人だ。
「……いいえ。ただ、哀れなだけです」
私は報告書を伏せた。
「私は警告しました。何度も、何度も。物流の重要性を、備蓄の必要性を。でも、彼らは耳を貸さなかった。これは彼らが選んだ結果です」
「自分を責めるな。貴女は神ではない。救えるのは、手を伸ばしてくる者だけだ」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「ちなみに、亡命を希望している商人たちだが……どうする?」
「受け入れましょう。彼らは目ざとい。帝国の経済が上向きだと判断したからこそ、リスクを冒して国境を越えてきたのです。彼らの持つ商業ネットワークと資金力は、帝国のさらなる発展に役立ちます」
「敵国の人間だぞ?」
「金に国境はありません。それに、彼らを受け入れれば、王国の経済は完全に死にます。血の一滴まで搾り取る、という約束でしたでしょう?」
私は冷徹に言い放った。 ここで情けをかけて追い返せば、彼らは王国に戻り、レイモンドを支えるかもしれない。 それは戦争を長引かせ、結果的により多くの民を苦しめることになる。
「……ふっ、厳しいな。だが正しい」
ジークハルト様は苦笑し、私の首筋にキスを落とした。
「貴女が私の味方で本当によかった。もし敵に回していたらと思うと、ゾッとするよ」
「あら、私は味方にした途端に甘くなるタイプですわよ?」
「それは知っている。昨夜、たっぷりと教えてもらったからな」
彼の甘い囁きに、顔が熱くなる。 この人は、執務モードと恋人モードの切り替えが上手すぎる。
「と、ところでお話が変わりますが……」
私は慌てて話題を変えた。
「王国の動きが、きな臭いです。国内の不満を逸らすために、対外戦争に踏み切る可能性があります」
「ああ。国境警備隊からも報告が来ている。王国軍が集結し始めているとな」
ジークハルト様の纏う空気が、瞬時に鋭い刃のようなものに変わった。
「愚かなことだ。飢えた兵士、錆びついた武器、無能な指揮官。それで我が『黒狼騎士団』に勝てると思っているのか」
「彼らは現実が見えていないのです。……あるいは、ミナの『聖女の力』を過信しているか」
「聖女、か。……貴女から見て、あれは脅威か?」
「いいえ」
私は即答した。
「彼女の力は『局所的な奇跡』に過ぎません。一人の怪我を治せても、一万人の軍隊を維持することはできない。戦場において、補給なき軍隊はただの的です」
「同感だ。……よし」
陛下は窓の外、南の空を睨み据えた。
「迎え撃つぞ。彼らが国境を越えた瞬間、それが王国の最後の日となる」
* * *
再び、王国。
王城の軍議室は、異様な熱気に包まれていた。 だがそれは、勝利を確信した高揚感ではなく、追い詰められた獣の放つ狂気のような熱だった。
「出兵だ! 帝国を討ち、物資を奪還する!」
レイモンドが地図の上に剣を突き立てた。
「しかし殿下、兵士たちの士気が……食料も足りておりません!」
将軍の一人が悲鳴のように訴える。
「心配いらない! ミナが言っていた! 『敵の食料を奪えばいい』とな! 現地調達だ、それが一番効率的だろう!」
「そ、それは略奪では……騎士道に反します!」
「うるさい! 勝てば官軍だ! 帝国には、コーデリアが整えた豊かな倉庫があるのだろ? それは元々、俺たちのものになるはずだったんだ。取り返して何が悪い!」
レイモンドの論理は破綻していた。 だが、誰も彼を止められない。 止めるべき理性的な人間は、すでに全員追放されるか、辞職してしまっていたからだ。
「装備はどうだ!」
「は、はい……。倉庫から鎧を出しましたが、革紐が腐り落ちて使い物になりません。剣も錆が浮いており……」
「砥石で磨けば切れるだろう! 甘えるな!」
「馬も足りません! 飼料がなくて痩せ細っており、重い騎士を乗せて走れません!」
「歩かせろ! 帝国までの距離など知れている!」
精神論。 根性論。 具体的な解決策は何一つないまま、「やる気があればなんとかなる」という暴論だけで、国家の最高意思決定が進んでいく。
その様子を、部屋の隅でミナが見ていた。 彼女は退屈そうに爪をいじっている。
「戦争かぁ。勝ったら、帝国の美味しいケーキが食べられるかなぁ。コーデリア様が着てたあのドレス、私に似合うかなぁ」
彼女には想像力が欠如していた。 戦争が泥と血にまみれた殺し合いであることも、自分がその最前線に立たされる意味も、理解していなかった。 ただのイベント、あるいはゲームの一種だと思っている。
「よし、全軍出撃だ! 3日後に国境を越える!」
レイモンドが宣言した。
こうして、歴史上最も無謀で、最も悲惨な行軍が始まろうとしていた。 ボロボロの鎧を着て、空腹でふらつく兵士たち。 それを率いる、勘違いした王太子と、微笑む死神のような聖女。
彼らが向かう先には、万全の準備を整え、冷ややかに待ち構える「鉄の女」と「氷の皇帝」がいるとも知らずに。
それは、派手な爆発音を伴う崩壊ではない。 静かに、しかし確実に、首を絞められるようにして息絶えようとしていたのだ。
王都の中央広場に面した、商工ギルドの本部。 その応接室で、一人の男が怒号を上げていた。
「どういうことだ! なぜ市場に物が並ばない! 貴様ら、売り惜しみをしているのだろう!」
レイモンド王太子だ。 彼は豪奢なマントを翻し、目の前に座る初老の男性――商工ギルド長を睨みつけていた。
ギルド長は、深くため息をついた。 その目には、王族に対する敬意よりも、話の通じない子供を見るような諦めの色が浮かんでいた。
「殿下。売り惜しみなど滅相もございません。本当に、無いのです」
「嘘をつけ! 倉庫にはまだあるはずだ!」
「倉庫は空です。帝国からの輸入が止まった今、我が国の備蓄などとうの昔に尽きました。南方の属国からのルートも、帝国の高値買い取りによって完全に遮断されています」
ギルド長は淡々と事実を告げた。 だが、レイモンドにはそれが「言い訳」にしか聞こえない。
「ならば、他の国から買えばいいだろう! 西方の海洋国家はどうだ!」
「無理です。西方の商人たちは、我が国の港を避けています」
「なぜだ!」
「港湾設備の老朽化です。以前はコーデリア様が、浚渫(しゅんせつ)工事やクレーンの整備予算を確保し、安全な入港を保証していました。しかし、あの方が去られてからメンテナンスが行われず、先日、座礁事故が起きました。……リスクを冒してまで、貧しくなった我が国に来る船はありません」
コーデリア。 また、その名前だ。
レイモンドは歯ぎしりをした。 どこに行っても、何をしてもうまくいかない原因を探れば、必ずあの女の影に行き当たる。 まるで亡霊だ。
「ええい、うるさい! 言い訳は聞き飽きた!」
レイモンドは机を叩き、一方的な命令を下した。
「本日をもって、『物価統制令』を発令する! 小麦、野菜、肉、薪……すべての生活必需品の価格を、先月の半値に固定せよ!」
ギルド長が目を剥いた。
「は、半値!? 正気ですか!? 仕入れ値が5倍に高騰しているのですぞ!? そんな価格で売れば、商人は一瞬で破産します!」
「知ったことか! 民が苦しんでいるのだぞ? 貴様ら商人は今まで散々甘い汁を吸ってきたのだ、少しは国に還元しろ!」
「無茶苦茶だ……! 商売の理(ことわり)を無視すれば、市場は死にますぞ!」
「黙れ! これは王命だ! 従わぬ店は、反逆罪として取り潰す!」
レイモンドは捨て台詞を残し、肩で風を切って部屋を出て行った。 残されたギルド長は、震える手で顔を覆った。
「……終わりだ。この国は、もう終わりだ」
彼はその日の夜、裏口から密かに使いを出した。 主要な大商人たちへの伝令だ。
『荷をまとめろ。夜陰に乗じて脱出する。……行き先は、帝国だ』
* * *
翌朝。 レイモンドの思惑通り、市場には「安値」の札がついた商品が並ぶ……はずだった。
しかし、現実は残酷だった。
「閉まってる……?」
買い物籠を持った主婦たちが、呆然と立ち尽くしていた。 パン屋も、八百屋も、肉屋も。 すべての店のシャッターが下ろされ、固く閉ざされていたのだ。
『当店は閉店しました』 『長らくのご愛顧、ありがとうございました』
貼り紙だけが、寒風に揺れている。 王都の主要な商店が、一夜にして蒸発したのだ。
赤字で売れと命令されれば、売らないのが一番の自衛策だ。 商売の基本中の基本すら理解していない王太子への、それが商人たちの無言の、そして最大の抵抗だった。
「どうするのよ……今日のパンがないわ」 「お腹が空いたよぉ、ママ……」
子供の泣き声が響く。 市民たちの不安は、恐怖へ、そして怒りへと変わりつつあった。
その不穏な空気を察知したのか、広場の一角に華やかなテントが設営された。 ピンク色の垂れ幕には、王家の紋章と教会のシンボルが描かれている。
「皆様ぁ~! ご安心くださいねぇ~!」
高い場所から、可愛らしい声が降ってくる。 聖女ミナだ。 彼女は純白のドレスに身を包み、バルコニーから手を振っていた。 隣には、引きつった笑顔のレイモンドもいる。
「お店が意地悪して閉まっちゃったみたいですけどぉ、大丈夫です! 私が『聖女の炊き出し』を開催しまぁす!」
おお……と、民衆からどよめきが起こる。 飢えた人々が、救いを求めてテントに殺到した。
「並んでくださぁい! 喧嘩はだめですよぉ!」
ミナは笑顔でスープを配り始めた。 大鍋で煮込まれた、温かいスープ。 人々は震える手で器を受け取り、口に運ぶ。
「……ん?」
最初に違和感を覚えたのは、老人だった。
「これ……ただのお湯じゃねえか?」
スープ皿の中身は、薄く濁ったお湯だった。 具はほとんどない。 申し訳程度に浮いているのは、枯れたような茶色い葉っぱの欠片だけ。
「味が……甘い?」
塩気や肉の旨味ではなく、不自然な甘みがする。
「はいっ、次の方ぁ! 美味しいですかぁ? 私が『美味しくな~れ』って聖なる魔力を込めたんですよぉ!」
ミナが得意げに胸を張る。 そう、彼女は具材がないことを誤魔化すために、甘い味のする魔力を水に込めたのだ。 栄養価はゼロ。 ただの砂糖水のようなお湯だ。
「ふざけるな!」
男が器を地面に叩きつけた。
「俺たちが欲しいのは飯だ! 魔力なんて食えるか! 肉をよこせ! 芋をよこせ!」
「きゃっ! な、なんですか怖い!」
ミナが怯えて後ずさる。
「せっかく私が一生懸命作ったのにぃ……! ひどい、善意を踏みにじるなんて!」
「善意で腹が膨れるかよ! 王族はいいよな、毎日美味いもん食って、俺たちには甘いお湯か!?」 「商人を追い出したのはお前らだって噂だぞ!」 「前の公爵令嬢様がいた頃は、こんなことなかった!」
誰かが叫んだその一言が、広場の空気を決定づけた。
「そうだ! コーデリア様を返せ!」 「あの人は厳しかったけど、俺たちを飢えさせたりはしなかった!」 「偽物の聖女はいらねえ! 賢い元妃様を連れてこい!」
「コ、コーデリア……?」
ミナの顔が歪む。 なぜ、ここでその名前が出るのか。 自分がこんなに可愛くて、優しくて、奉仕しているのに。 なぜ、あの可愛げのない女の方が支持されるのか。
「おのれ、愚民どもが……!」
レイモンドが剣の柄に手をかけた。
「ミナの施しを受け取っておきながら、その暴言は何事か! 不敬罪で全員斬り捨てるぞ!」
「やってみろよ! どうせ飢えて死ぬんだ!」
民衆がじりじりと詰め寄る。 暴動寸前。 その殺気に、レイモンドとミナは顔を引きつらせ、衛兵に守られながら逃げるように城へ退散した。
残されたのは、こぼれた甘いお湯の匂いと、民衆の絶望的な怒りだけだった。
* * *
遠く離れた帝国、帝都。
執務室の窓辺で、私は一枚の報告書を読んでいた。 王都での騒乱。 商人たちの大量亡命。 そして、炊き出しの失敗。
「……予想よりも早かったわね」
私は独り言ちた。 一ヶ月は持つかと思っていたが、半月でここまで崩れるとは。 それだけ、王国のシステムが私の個人的な能力に依存しすぎていたということだ。 属人的すぎる組織は脆い。 私が常に危惧し、改善しようとしていた課題が、最悪の形で証明されてしまった。
胸が痛まないと言えば、嘘になる。 あの広場で怒号を上げている民衆の中には、かつて私が整備した公園で遊んでいた子供たちもいるだろう。 私が守りたかった人々だ。
「……辛いか?」
背後から、温かい手が私の肩を包んだ。 ジークハルト様だ。 いつの間に入ってきたのか、気配を感じさせないのはさすが武人だ。
「……いいえ。ただ、哀れなだけです」
私は報告書を伏せた。
「私は警告しました。何度も、何度も。物流の重要性を、備蓄の必要性を。でも、彼らは耳を貸さなかった。これは彼らが選んだ結果です」
「自分を責めるな。貴女は神ではない。救えるのは、手を伸ばしてくる者だけだ」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「ちなみに、亡命を希望している商人たちだが……どうする?」
「受け入れましょう。彼らは目ざとい。帝国の経済が上向きだと判断したからこそ、リスクを冒して国境を越えてきたのです。彼らの持つ商業ネットワークと資金力は、帝国のさらなる発展に役立ちます」
「敵国の人間だぞ?」
「金に国境はありません。それに、彼らを受け入れれば、王国の経済は完全に死にます。血の一滴まで搾り取る、という約束でしたでしょう?」
私は冷徹に言い放った。 ここで情けをかけて追い返せば、彼らは王国に戻り、レイモンドを支えるかもしれない。 それは戦争を長引かせ、結果的により多くの民を苦しめることになる。
「……ふっ、厳しいな。だが正しい」
ジークハルト様は苦笑し、私の首筋にキスを落とした。
「貴女が私の味方で本当によかった。もし敵に回していたらと思うと、ゾッとするよ」
「あら、私は味方にした途端に甘くなるタイプですわよ?」
「それは知っている。昨夜、たっぷりと教えてもらったからな」
彼の甘い囁きに、顔が熱くなる。 この人は、執務モードと恋人モードの切り替えが上手すぎる。
「と、ところでお話が変わりますが……」
私は慌てて話題を変えた。
「王国の動きが、きな臭いです。国内の不満を逸らすために、対外戦争に踏み切る可能性があります」
「ああ。国境警備隊からも報告が来ている。王国軍が集結し始めているとな」
ジークハルト様の纏う空気が、瞬時に鋭い刃のようなものに変わった。
「愚かなことだ。飢えた兵士、錆びついた武器、無能な指揮官。それで我が『黒狼騎士団』に勝てると思っているのか」
「彼らは現実が見えていないのです。……あるいは、ミナの『聖女の力』を過信しているか」
「聖女、か。……貴女から見て、あれは脅威か?」
「いいえ」
私は即答した。
「彼女の力は『局所的な奇跡』に過ぎません。一人の怪我を治せても、一万人の軍隊を維持することはできない。戦場において、補給なき軍隊はただの的です」
「同感だ。……よし」
陛下は窓の外、南の空を睨み据えた。
「迎え撃つぞ。彼らが国境を越えた瞬間、それが王国の最後の日となる」
* * *
再び、王国。
王城の軍議室は、異様な熱気に包まれていた。 だがそれは、勝利を確信した高揚感ではなく、追い詰められた獣の放つ狂気のような熱だった。
「出兵だ! 帝国を討ち、物資を奪還する!」
レイモンドが地図の上に剣を突き立てた。
「しかし殿下、兵士たちの士気が……食料も足りておりません!」
将軍の一人が悲鳴のように訴える。
「心配いらない! ミナが言っていた! 『敵の食料を奪えばいい』とな! 現地調達だ、それが一番効率的だろう!」
「そ、それは略奪では……騎士道に反します!」
「うるさい! 勝てば官軍だ! 帝国には、コーデリアが整えた豊かな倉庫があるのだろ? それは元々、俺たちのものになるはずだったんだ。取り返して何が悪い!」
レイモンドの論理は破綻していた。 だが、誰も彼を止められない。 止めるべき理性的な人間は、すでに全員追放されるか、辞職してしまっていたからだ。
「装備はどうだ!」
「は、はい……。倉庫から鎧を出しましたが、革紐が腐り落ちて使い物になりません。剣も錆が浮いており……」
「砥石で磨けば切れるだろう! 甘えるな!」
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「歩かせろ! 帝国までの距離など知れている!」
精神論。 根性論。 具体的な解決策は何一つないまま、「やる気があればなんとかなる」という暴論だけで、国家の最高意思決定が進んでいく。
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彼女には想像力が欠如していた。 戦争が泥と血にまみれた殺し合いであることも、自分がその最前線に立たされる意味も、理解していなかった。 ただのイベント、あるいはゲームの一種だと思っている。
「よし、全軍出撃だ! 3日後に国境を越える!」
レイモンドが宣言した。
こうして、歴史上最も無謀で、最も悲惨な行軍が始まろうとしていた。 ボロボロの鎧を着て、空腹でふらつく兵士たち。 それを率いる、勘違いした王太子と、微笑む死神のような聖女。
彼らが向かう先には、万全の準備を整え、冷ややかに待ち構える「鉄の女」と「氷の皇帝」がいるとも知らずに。
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オフィーリアは両親からの過剰な愛を受けて愛らしく育ったが、過剰な愛を受けて育ったために次第に世界は自分のためにあると勘違いするようになってしまい……。
「お姉さまはずるいわ。皇太子妃になっていずれはこの国の妃になるのでしょう?」
「私も、この国の頂点に立つ女性になりたいわ。」
「ねえ、お姉さま。私の方が皇太子妃に相応しいと思うの。代わってくださらない?」
妹の要求は徐々にエスカレートしていき、最後には……。
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