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第八話:不器用な贈り物
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帝城の執務室にある大時計が、深夜二時を告げる鐘を鳴らした。
静寂に包まれた部屋で、私のペンが紙を走る音だけが響いている。 カリ、カリ、カリ。
机の上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。 王国から逃げてきた商人たちの受け入れ手続き。 国境付近の村々の避難計画。 そして、迎撃部隊への兵站(へいたん)管理。
やるべきことは無限にあった。 戦争は、始まる前から始まっている。 私の判断一つで、数千人の兵士と民の命が左右されるのだ。
「……ふぅ」
ペンのインクを補充しようとして、手が止まった。 指先が震えている。 視界が少し霞んでいる。
(いけない。集中しなさい、コーデリア)
私はこめかみを強く揉み、自分を叱咤した。 休んでいる暇はない。 私がここで手を抜けば、誰かが死ぬかもしれない。 私が役に立たなくなれば、また「不要だ」と捨てられるかもしれない。
その恐怖が、私の背中を押し続けていた。 王国の公爵家にいた頃からの、呪いのような強迫観念。 『有能であれ。さもなくば、お前に価値はない』 父の言葉と、レイモンドの冷たい視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……もっと、早く。もっと正確に」
私は霞む目をこすり、再びペンを握り直した。 その時だった。
「――入るぞ」
ノックもなく、重厚な扉が開かれた。 ジークハルト陛下だ。 寝間着姿ではなく、まだ軍服を着ている。 彼もまた、遅くまで軍議を重ねていたのだろう。
「陛下。……申し訳ありません、お出迎えもせず」
私は慌てて立ち上がろうとしたが、ふらりと体が揺れた。 めまいだ。
「おいっ!」
陛下の強い腕が、倒れかけた私を支えた。 革手袋の冷たさと、その奥にある体温が伝わってくる。
「……馬鹿者」
彼は低い声で叱責した。
「顔色が紙のように白いぞ。いつから休んでいない?」
「い、いえ、大丈夫です。少し目が疲れただけで……まだ、この輸送計画を仕上げなければ……」
「却下だ」
彼は問答無用で私を抱き上げ、執務室の隅にある仮眠用のソファへと運んだ。
「降ろしてください、陛下! 仕事が……!」
「仕事なら、私がやる。貴女はもう限界だ」
彼は私をソファに座らせると、ブランケットを頭から被せた。 そして、私の目の前に仁王立ちになり、溜め息をついた。
「コーデリア。貴女は優秀だが、自分の体調管理に関しては落第点だな。……王国では、いつもこうだったのか?」
「……はい。私がやらなければ、誰もやりませんでしたから」
「あそこは地獄か」
彼は吐き捨てるように言った。 そして、懐から小さな包みを取り出し、私の膝の上に放り投げた。
「……これは?」
「受け取れ。……その、なんだ。……慰問品だ」
彼が視線を逸らす。 銀髪の間から覗く耳が、ほんのりと赤くなっているように見えた。
私は不思議に思いながら、包みを開けた。 中に入っていたのは、黒塗りの木箱。 開けると、そこには二つの品が収められていた。
一つは、万年筆。 漆黒のボディに金の装飾が施された、重厚で美しい一本だ。 もう一つは、乾燥した青い花びらが詰まった小瓶。
「これは……」
「貴女が使っていたペン、だいぶガタがきていただろう」
陛下はそっぽを向いたまま言った。
「ペン先が摩耗して、インクの出が悪くなっていた。それに、貴女の手には軸が少し太すぎて、長時間書くと手首を痛めるようだったからな。……帝国の職人に命じて、貴女の手のサイズに合わせて重心を調整させた特注品だ」
私は息を呑んだ。 確かに、私が王国から持ってきたペンは、亡き母の形見とはいえ古く、書き心地は悪くなっていた。 手首が痛むのも、職業病だと諦めていた。
それを、この人は見ていたのか。 私が一言も不満を漏らしていないのに。 ただ書類を書いている姿を見ただけで、私の小さな苦痛に気づいてくれたのか。
「それと、その瓶は……『蒼月草(そうげつそう)』だ」
「蒼月草……? 北の峻険な山岳地帯にしか咲かないという、あの幻の?」
「ああ。煎じて飲むと、眼精疲労と頭痛に劇的に効く。……部下に採りに行かせようとしたが、今の時期は雪崩が多くて危険だと言われてな。仕方がないから、私が先日の視察のついでに採ってきた」
「へ……?」
採ってきた? 皇帝陛下が? あの、断崖絶壁に咲く花を? ついで、と言うにはあまりにも命がけな場所のはずだ。
「陛下……まさか、私のために、雪山に登られたのですか?」
「……勘違いするな。あくまで視察のついでだ。たまたま、崖の途中に咲いているのが見えたから、ちょっと飛んでむしり取ってきただけだ」
彼は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 だが、その軍服の袖口に、小さな引っかき傷があるのを私は見逃さなかった。 岩場で擦ったのだろうか。
胸が、熱くなった。 喉の奥が詰まるような、甘くて切ない痛み。
高価な宝石でもない。 流行のドレスでもない。 仕事道具のペンと、薬草。
なんて色気のない、実用一辺倒な贈り物だろう。 でも、私にとっては、世界中のどんな財宝よりも価値があった。
彼は、私という人間を、芯まで理解してくれている。 私が何を必要としているか。 何に困っているか。 そして、どうすれば私が仕事を続けられるか。
「……不器用な方」
涙が、ポロリとこぼれた。
「えっ? お、おい、なぜ泣く!?」
陛下が狼狽する。 氷の皇帝と呼ばれる男が、女の涙一つでオロオロと動揺している。
「気に入らなかったか? すまん、私は女への贈り物など選んだことがなくて……やはり宝石の方がよかったか? それとも花束か?」
「いいえ……いいえ!」
私は首を横に振った。 溢れる涙を止めることができない。
「嬉しいのです。……こんなに、大切にされたことなんて、なかったから」
私は万年筆を胸に抱きしめた。
「王国では……誕生日に何かをもらったことなどありませんでした。レイモンド殿下は、いつも自分の欲しいものを私に買わせていました。父は、私の成果だけを求めて、私の体調など気にしたこともありませんでした」
長年、心の奥底に封印していた澱(おり)が、決壊したダムのように溢れ出してくる。
「私は、道具でしたから。壊れたら捨てられる、代わりのある道具。だから、メンテナンスなんて必要ないと思われていました」
「コーデリア……」
「でも、貴方は違う。壊れかけた私を拾って、直してくれて、さらにこうして……大切に扱ってくれる」
私は涙で濡れた顔を上げ、彼を見た。
「どうしてですか? 私はただの契約者でしょう? なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
陛下は静かに私を見下ろした。 その赤い瞳から、動揺の色が消え、深く、揺るぎない光が宿る。
彼はゆっくりと片膝をついた。 私の目線の高さに合わせて。
「契約者だからではない」
彼の大きな手が伸びてきて、私の頬を伝う涙を親指で拭った。 その手つきは、割れ物に触れるように繊細だった。
「惚れた女に尽くすのに、理由が必要か?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「コーデリア。私は貴女の頭脳に惚れたと言った。だが、それは貴女の一部に過ぎない。必死に国を支えようとする責任感も、民を想って心を痛める優しさも、そして……こうして私の前で見せる脆さも、すべて愛おしい」
彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とした。 契約の時のような儀礼的なものではない。 長く、熱い、所有と崇拝を示すキス。
「貴女は道具ではない。私の半身だ。貴女が壊れれば、私も壊れる。だから、自分を粗末にするな。それは私を傷つけるのと同じことだ」
「ジークハルト様……」
「これからは、私が貴女の盾になろう。貴女を守るためなら、私は皇帝の座すら賭けてもいい」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも重く、私の魂に響いた。 この人は本気だ。 私のために、世界を敵に回す覚悟がある。
張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れた。 私はソファから身を乗り出し、彼の首に腕を回した。
「……っ!?」
驚く彼を、私は強く抱きしめた。 軍服の硬い感触と、石鹸の香り。
「ありがとうございます……。私も、貴方が好きです。皇帝だからではなく、貴方だから」
初めて、言葉にして伝えた。 契約ではない。 計算でもない。 ただの一人の女性としての、純粋な恋心。
ジークハルト様の体が強張ったのは一瞬だった。 すぐに彼の腕が私の背中に回され、骨が軋むほど強く抱きしめ返された。
「……参ったな」
彼の声が、私の耳元で震えていた。
「そんなことを言われては、もう離してやれなくなる」
「離さないでください。……一生」
私たちは、静かな執務室で、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。 言葉はもう要らなかった。 互いの鼓動のリズムが、同じ速さで刻まれていることだけで十分だった。
しばらくして、彼が体を離し、少し照れくさそうに言った。
「さて……まずはその薬草茶を飲んで、少し眠れ。仕事は私が引き継ぐ」
「でも、陛下も寝ていないのでは?」
「私は平気だ。これでも体力には自信がある。それに……」
彼は机の上の万年筆を手に取り、私に手渡した。
「目が覚めたら、この新しいペンで、私へのラブレターでも書いてくれないか? 最初の試し書きとして」
冗談めかして言う彼に、私は吹き出した。
「ふふっ……わかりました。最高にロマンチックで、論理的なラブレターを書いて差し上げますわ」
「楽しみにしている」
彼は私の頭をポンポンと撫でると、本当に私の机に座り、書類仕事を始めた。 その背中は大きく、頼もしかった。
私はソファに横になり、ブランケットに包まった。 万年筆を握りしめたまま。 その黒い軸の冷たさが、体温で徐々に温まっていく。
(ああ、幸せ……)
瞼が重くなる。 不安は消えていた。 私は一人じゃない。 最強のパートナーが、すぐ傍にいてくれる。
深い眠りに落ちる直前、私は夢を見た気がした。 二人で手を取り合い、春の光の中を歩く夢を。
* * *
翌朝。 私は驚くほどすっきりと目覚めた。 蒼月草の効果か、それとも深い安心感のおかげか。 目の疲れも、頭の重さも消え去っていた。
机の上を見ると、書類の山は綺麗に片付き、すべてに的確な決裁印が押されていた。 そして、その横には一枚のメモが置かれていた。
『よく眠れていたようだ。寝顔も悪くない』
ぶっきらぼうな筆跡に、私は顔を赤くし、そしてクスクスと笑った。
「本当に……愛おしい人」
私は新しい万年筆にインクを吸わせた。 滑らかな吸入機構。 手に吸い付くようなグリップ感。
私は紙を広げ、彼への「ラブレター」ではなく、新たな作戦計画書を書き始めた。 彼への愛を証明するには、これが一番だからだ。 インクが紙に染みる。 その書き心地は、まるで氷の上を滑るように滑らかで、私の思考を加速させた。
だが、その平穏な時間は長くは続かなかった。
ドンドンドン!
激しいノックと共に、伝令兵が部屋に飛び込んできた。
「ご報告します!! 皇后陛下、緊急事態です!!」
兵士は息を切らし、顔面蒼白で叫んだ。
「たった今、国境の監視砦より狼煙(のろし)が上がりました! 王国軍です! 王国軍およそ三万が、国境を越えて侵攻を開始しました!!」
ついに、来た。 私はペンを置いた。 不思議と、心は静かだった。 昨夜の彼との時間のおかげで、私の心幹は鋼のように強くなっていたからだ。
私は立ち上がり、窓の外を見た。 南の空が、重苦しい雲に覆われている。
「……愚かな人たち」
私は万年筆を強く握りしめた。
「せっかくの新しいペンの最初の仕事が、貴方たちの『死亡証明書』へのサインになるなんて」
私は振り返り、凛とした声で命じた。
「陛下にお伝えして。……『準備は完了しています。狩りの時間です』と」
伝令兵が震え上がり、敬礼して飛び出していく。
私は鏡の前に行き、自分の顔を見た。 そこには、もう迷いも、未練も、弱さもない。 愛を知り、守るべきものを得た「鉄の女」の、完全なる戦闘形態があった。
さあ、始めましょう。 私の大切な人を傷つけようとする者たちへ。 情け容赦のない、教育的指導を。
静寂に包まれた部屋で、私のペンが紙を走る音だけが響いている。 カリ、カリ、カリ。
机の上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。 王国から逃げてきた商人たちの受け入れ手続き。 国境付近の村々の避難計画。 そして、迎撃部隊への兵站(へいたん)管理。
やるべきことは無限にあった。 戦争は、始まる前から始まっている。 私の判断一つで、数千人の兵士と民の命が左右されるのだ。
「……ふぅ」
ペンのインクを補充しようとして、手が止まった。 指先が震えている。 視界が少し霞んでいる。
(いけない。集中しなさい、コーデリア)
私はこめかみを強く揉み、自分を叱咤した。 休んでいる暇はない。 私がここで手を抜けば、誰かが死ぬかもしれない。 私が役に立たなくなれば、また「不要だ」と捨てられるかもしれない。
その恐怖が、私の背中を押し続けていた。 王国の公爵家にいた頃からの、呪いのような強迫観念。 『有能であれ。さもなくば、お前に価値はない』 父の言葉と、レイモンドの冷たい視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……もっと、早く。もっと正確に」
私は霞む目をこすり、再びペンを握り直した。 その時だった。
「――入るぞ」
ノックもなく、重厚な扉が開かれた。 ジークハルト陛下だ。 寝間着姿ではなく、まだ軍服を着ている。 彼もまた、遅くまで軍議を重ねていたのだろう。
「陛下。……申し訳ありません、お出迎えもせず」
私は慌てて立ち上がろうとしたが、ふらりと体が揺れた。 めまいだ。
「おいっ!」
陛下の強い腕が、倒れかけた私を支えた。 革手袋の冷たさと、その奥にある体温が伝わってくる。
「……馬鹿者」
彼は低い声で叱責した。
「顔色が紙のように白いぞ。いつから休んでいない?」
「い、いえ、大丈夫です。少し目が疲れただけで……まだ、この輸送計画を仕上げなければ……」
「却下だ」
彼は問答無用で私を抱き上げ、執務室の隅にある仮眠用のソファへと運んだ。
「降ろしてください、陛下! 仕事が……!」
「仕事なら、私がやる。貴女はもう限界だ」
彼は私をソファに座らせると、ブランケットを頭から被せた。 そして、私の目の前に仁王立ちになり、溜め息をついた。
「コーデリア。貴女は優秀だが、自分の体調管理に関しては落第点だな。……王国では、いつもこうだったのか?」
「……はい。私がやらなければ、誰もやりませんでしたから」
「あそこは地獄か」
彼は吐き捨てるように言った。 そして、懐から小さな包みを取り出し、私の膝の上に放り投げた。
「……これは?」
「受け取れ。……その、なんだ。……慰問品だ」
彼が視線を逸らす。 銀髪の間から覗く耳が、ほんのりと赤くなっているように見えた。
私は不思議に思いながら、包みを開けた。 中に入っていたのは、黒塗りの木箱。 開けると、そこには二つの品が収められていた。
一つは、万年筆。 漆黒のボディに金の装飾が施された、重厚で美しい一本だ。 もう一つは、乾燥した青い花びらが詰まった小瓶。
「これは……」
「貴女が使っていたペン、だいぶガタがきていただろう」
陛下はそっぽを向いたまま言った。
「ペン先が摩耗して、インクの出が悪くなっていた。それに、貴女の手には軸が少し太すぎて、長時間書くと手首を痛めるようだったからな。……帝国の職人に命じて、貴女の手のサイズに合わせて重心を調整させた特注品だ」
私は息を呑んだ。 確かに、私が王国から持ってきたペンは、亡き母の形見とはいえ古く、書き心地は悪くなっていた。 手首が痛むのも、職業病だと諦めていた。
それを、この人は見ていたのか。 私が一言も不満を漏らしていないのに。 ただ書類を書いている姿を見ただけで、私の小さな苦痛に気づいてくれたのか。
「それと、その瓶は……『蒼月草(そうげつそう)』だ」
「蒼月草……? 北の峻険な山岳地帯にしか咲かないという、あの幻の?」
「ああ。煎じて飲むと、眼精疲労と頭痛に劇的に効く。……部下に採りに行かせようとしたが、今の時期は雪崩が多くて危険だと言われてな。仕方がないから、私が先日の視察のついでに採ってきた」
「へ……?」
採ってきた? 皇帝陛下が? あの、断崖絶壁に咲く花を? ついで、と言うにはあまりにも命がけな場所のはずだ。
「陛下……まさか、私のために、雪山に登られたのですか?」
「……勘違いするな。あくまで視察のついでだ。たまたま、崖の途中に咲いているのが見えたから、ちょっと飛んでむしり取ってきただけだ」
彼は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 だが、その軍服の袖口に、小さな引っかき傷があるのを私は見逃さなかった。 岩場で擦ったのだろうか。
胸が、熱くなった。 喉の奥が詰まるような、甘くて切ない痛み。
高価な宝石でもない。 流行のドレスでもない。 仕事道具のペンと、薬草。
なんて色気のない、実用一辺倒な贈り物だろう。 でも、私にとっては、世界中のどんな財宝よりも価値があった。
彼は、私という人間を、芯まで理解してくれている。 私が何を必要としているか。 何に困っているか。 そして、どうすれば私が仕事を続けられるか。
「……不器用な方」
涙が、ポロリとこぼれた。
「えっ? お、おい、なぜ泣く!?」
陛下が狼狽する。 氷の皇帝と呼ばれる男が、女の涙一つでオロオロと動揺している。
「気に入らなかったか? すまん、私は女への贈り物など選んだことがなくて……やはり宝石の方がよかったか? それとも花束か?」
「いいえ……いいえ!」
私は首を横に振った。 溢れる涙を止めることができない。
「嬉しいのです。……こんなに、大切にされたことなんて、なかったから」
私は万年筆を胸に抱きしめた。
「王国では……誕生日に何かをもらったことなどありませんでした。レイモンド殿下は、いつも自分の欲しいものを私に買わせていました。父は、私の成果だけを求めて、私の体調など気にしたこともありませんでした」
長年、心の奥底に封印していた澱(おり)が、決壊したダムのように溢れ出してくる。
「私は、道具でしたから。壊れたら捨てられる、代わりのある道具。だから、メンテナンスなんて必要ないと思われていました」
「コーデリア……」
「でも、貴方は違う。壊れかけた私を拾って、直してくれて、さらにこうして……大切に扱ってくれる」
私は涙で濡れた顔を上げ、彼を見た。
「どうしてですか? 私はただの契約者でしょう? なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
陛下は静かに私を見下ろした。 その赤い瞳から、動揺の色が消え、深く、揺るぎない光が宿る。
彼はゆっくりと片膝をついた。 私の目線の高さに合わせて。
「契約者だからではない」
彼の大きな手が伸びてきて、私の頬を伝う涙を親指で拭った。 その手つきは、割れ物に触れるように繊細だった。
「惚れた女に尽くすのに、理由が必要か?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「コーデリア。私は貴女の頭脳に惚れたと言った。だが、それは貴女の一部に過ぎない。必死に国を支えようとする責任感も、民を想って心を痛める優しさも、そして……こうして私の前で見せる脆さも、すべて愛おしい」
彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とした。 契約の時のような儀礼的なものではない。 長く、熱い、所有と崇拝を示すキス。
「貴女は道具ではない。私の半身だ。貴女が壊れれば、私も壊れる。だから、自分を粗末にするな。それは私を傷つけるのと同じことだ」
「ジークハルト様……」
「これからは、私が貴女の盾になろう。貴女を守るためなら、私は皇帝の座すら賭けてもいい」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも重く、私の魂に響いた。 この人は本気だ。 私のために、世界を敵に回す覚悟がある。
張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れた。 私はソファから身を乗り出し、彼の首に腕を回した。
「……っ!?」
驚く彼を、私は強く抱きしめた。 軍服の硬い感触と、石鹸の香り。
「ありがとうございます……。私も、貴方が好きです。皇帝だからではなく、貴方だから」
初めて、言葉にして伝えた。 契約ではない。 計算でもない。 ただの一人の女性としての、純粋な恋心。
ジークハルト様の体が強張ったのは一瞬だった。 すぐに彼の腕が私の背中に回され、骨が軋むほど強く抱きしめ返された。
「……参ったな」
彼の声が、私の耳元で震えていた。
「そんなことを言われては、もう離してやれなくなる」
「離さないでください。……一生」
私たちは、静かな執務室で、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。 言葉はもう要らなかった。 互いの鼓動のリズムが、同じ速さで刻まれていることだけで十分だった。
しばらくして、彼が体を離し、少し照れくさそうに言った。
「さて……まずはその薬草茶を飲んで、少し眠れ。仕事は私が引き継ぐ」
「でも、陛下も寝ていないのでは?」
「私は平気だ。これでも体力には自信がある。それに……」
彼は机の上の万年筆を手に取り、私に手渡した。
「目が覚めたら、この新しいペンで、私へのラブレターでも書いてくれないか? 最初の試し書きとして」
冗談めかして言う彼に、私は吹き出した。
「ふふっ……わかりました。最高にロマンチックで、論理的なラブレターを書いて差し上げますわ」
「楽しみにしている」
彼は私の頭をポンポンと撫でると、本当に私の机に座り、書類仕事を始めた。 その背中は大きく、頼もしかった。
私はソファに横になり、ブランケットに包まった。 万年筆を握りしめたまま。 その黒い軸の冷たさが、体温で徐々に温まっていく。
(ああ、幸せ……)
瞼が重くなる。 不安は消えていた。 私は一人じゃない。 最強のパートナーが、すぐ傍にいてくれる。
深い眠りに落ちる直前、私は夢を見た気がした。 二人で手を取り合い、春の光の中を歩く夢を。
* * *
翌朝。 私は驚くほどすっきりと目覚めた。 蒼月草の効果か、それとも深い安心感のおかげか。 目の疲れも、頭の重さも消え去っていた。
机の上を見ると、書類の山は綺麗に片付き、すべてに的確な決裁印が押されていた。 そして、その横には一枚のメモが置かれていた。
『よく眠れていたようだ。寝顔も悪くない』
ぶっきらぼうな筆跡に、私は顔を赤くし、そしてクスクスと笑った。
「本当に……愛おしい人」
私は新しい万年筆にインクを吸わせた。 滑らかな吸入機構。 手に吸い付くようなグリップ感。
私は紙を広げ、彼への「ラブレター」ではなく、新たな作戦計画書を書き始めた。 彼への愛を証明するには、これが一番だからだ。 インクが紙に染みる。 その書き心地は、まるで氷の上を滑るように滑らかで、私の思考を加速させた。
だが、その平穏な時間は長くは続かなかった。
ドンドンドン!
激しいノックと共に、伝令兵が部屋に飛び込んできた。
「ご報告します!! 皇后陛下、緊急事態です!!」
兵士は息を切らし、顔面蒼白で叫んだ。
「たった今、国境の監視砦より狼煙(のろし)が上がりました! 王国軍です! 王国軍およそ三万が、国境を越えて侵攻を開始しました!!」
ついに、来た。 私はペンを置いた。 不思議と、心は静かだった。 昨夜の彼との時間のおかげで、私の心幹は鋼のように強くなっていたからだ。
私は立ち上がり、窓の外を見た。 南の空が、重苦しい雲に覆われている。
「……愚かな人たち」
私は万年筆を強く握りしめた。
「せっかくの新しいペンの最初の仕事が、貴方たちの『死亡証明書』へのサインになるなんて」
私は振り返り、凛とした声で命じた。
「陛下にお伝えして。……『準備は完了しています。狩りの時間です』と」
伝令兵が震え上がり、敬礼して飛び出していく。
私は鏡の前に行き、自分の顔を見た。 そこには、もう迷いも、未練も、弱さもない。 愛を知り、守るべきものを得た「鉄の女」の、完全なる戦闘形態があった。
さあ、始めましょう。 私の大切な人を傷つけようとする者たちへ。 情け容赦のない、教育的指導を。
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彼女(アマリリス)が淑女の礼の最中に、それを見終えることなく歩き出したデバンの足取りは軽やかだった。
(漸くだ。あいつの有責で、やっと婚約解消が出来る。こちらに非がなければ、父上も同意するだろう)
この婚約はデバン・クラッチの父親、グラナス・クラッチ侯爵からの申し込みであった。クライド公爵家はアマリリスの兄が継ぐので、侯爵家を継ぐデバンは嫁入り先として丁度良いと整ったものだった。
カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています。
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