敗戦国の元王子へ 〜私を追放したせいで貴国は我が帝国に負けました。私はもう「敵国の皇后」ですので、頭が高いのではないでしょうか?〜

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第九話:最後通牒

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国境の砦、『鉄壁の要塞(ガルド・ミラ)』。

帝国の最南端に位置するこの要塞は、今、異様な緊張感に包まれていた。 城壁の上には数千の弓兵が配置され、眼下の平原を睨みつけている。 城門の前には、ジークハルト陛下直属の『黒狼騎士団』が、黒い塊となって整列していた。

そして、司令塔の一室。 私は、眼下に広がる光景を、望遠鏡で確認していた。

「……酷いものですね」

レンズの向こうに見えるのは、王国軍の陣形だ。 いや、あれを陣形と呼ぶのは、軍事学に対する冒涜だろう。

隊列は乱れ、歩調はバラバラ。 兵士たちは痩せこけ、行軍の疲れからか、すでに座り込んでいる者もいる。 旗印だけは立派だが、肝心の武器は太陽の光を鈍く反射するのみで、手入れが行き届いていないのが遠目にもわかった。

「あれが、かつて私が守ろうとした国の軍隊ですか……」

ため息が出た。 私が予算を削り出し、装備を整えさせ、訓練計画を立案していた頃の精強さは見る影もない。 補給を軽視し、精神論で兵を動かした結果がこれだ。

「見るに堪えんな」

隣に立つジークハルト陛下が、吐き捨てるように言った。

「彼らは戦争をしに来たのではない。死に場所を探しに来たのだろう」

「……陛下。彼らは本気で勝てると思っているのでしょうか?」

「思っているのだろうな。無知とは、時に最強の麻酔薬になる」

陛下は冷ややかに言い、腰の剣に手を置いた。

その時、敵陣から一騎の馬が飛び出してきた。 白旗を掲げている。 使者だ。

「……来たか」

陛下が目を細める。

「通せ! 話だけは聞いてやる!」

陛下の号令で、城門が少しだけ開かれる。 王国の使者が、怯えた様子で馬を進めてきた。 彼は城壁の下まで来ると、震える手で羊皮紙を広げ、大声で読み上げ始めた。

「こ、皇帝ジークハルトに告ぐ!!」

声が裏返っている。 無理もない。 城壁の上から、無数の矢と、氷の皇帝の殺気が向けられているのだから。

「我らが王太子、レイモンド殿下からの最後通牒である! 心して聞け!」

最後通牒。 その言葉に、司令室の空気がピリリと張り詰めた。 私はゴクリと喉を鳴らした。

使者が読み上げる。

『帝国は、我が国に対し卑劣な経済封鎖を行い、民を不当に苦しめている! これは国際法違反であり、人道に対する罪である!』

どの口が言うのか。 先に私を追放し、契約を破棄したのはそちらなのに。 私は呆れを通り越して、乾いた笑いが漏れそうになった。

『よって、我々は以下の条件を提示する! これを受け入れれば、慈悲を持って軍を引こう!』

『一つ! 帝国の穀倉地帯から、小麦十万トンを無償で提供せよ!』 『一つ! 関税を撤廃し、我が国の商人を優遇せよ!』 『一つ! 賠償金として金貨一億枚を支払え!』

司令室の将軍たちが、ざわめき始める。 怒りではない。 あまりの厚かましさに、正気を疑っているのだ。 強請(ゆす)り集(たか)りにしては、桁が外れすぎている。

だが、次の言葉が、その場の空気を一変させた。

『そして最後に! 我が国の所有物である罪人、コーデリア・エバハートを即刻返還せよ!』

ドクン、と心臓が跳ねた。

『彼女は我が国の機密情報を盗み出したスパイである! 彼女を引き渡せば、今回の帝国の暴挙には目をつぶってやろう! 以上が条件である! 拒否すれば、我が聖女ミナの神聖魔法と、正義の軍隊が帝都を火の海にするだろう!』

使者が読み終えると、静寂が訪れた。 風の音だけが聞こえる。

私は、無意識に自分の腕を抱きしめていた。 所有物。 罪人。 返還。

彼らにとって、私は人間ではない。 便利な道具であり、気に入らなければ捨て、必要になれば「返せ」と喚くモノなのだ。

わかっていたはずだ。 彼らがそういう人間だと。 でも、改めて言葉にされると、古傷が疼く。

「……陛下」

私は震える唇を開いた。 冷静にならなければ。 私は軍師だ。 感情で動いてはいけない。 最少の犠牲で、最大の利益を得るのが私の役目だ。

「……条件を、飲むべきではありませんが、交渉の余地はあります」

私は声を絞り出した。

「彼らの狙いは食料です。私を……私を人質として差し出せば、少なくとも開戦は回避できるかもしれません。時間を稼いでいる間に、彼らの内部崩壊を待つという手も……」

「黙れ」

鋭い声が、私の言葉を遮った。

「へ、陛下……?」

恐る恐る顔を上げると、そこには鬼神のごとき形相のジークハルト陛下がいた。 その美しい顔は怒りで歪み、赤い瞳からは物理的な熱量を持った殺気が噴き出していた。

彼は窓枠を掴んだ。 メキメキ、と石造りの窓枠が悲鳴を上げ、粉々に砕け散る。

「……ふざけるな」

彼は低く、地を這うような声で唸った。

「食料? 金? そんなものはくれてやってもいい。だが……」

彼は私の方を振り向き、大股で歩み寄ってきた。 そして、私の肩を乱暴に掴んだ。 痛い。 でも、その痛みすら、彼の激しい感情の表れだとわかった。

「貴女を返せだと? 私の妻を? 私の半身を? 『所有物』扱いだと!?」

「ジークハルト様……」

「コーデリア、貴女は馬鹿か! なぜそこで『自分を犠牲にする』などという選択肢が出る!?」

彼は私を揺さぶった。

「貴女を差し出して得られる平和になど、何の価値もない! そんなプライドのない国なら、滅んだほうがマシだ!」

「でもっ、戦争になれば人が死にます! 貴方の兵士も、民も!」

「構わん!!」

彼は叫んだ。 理屈のすべてをねじ伏せるような、王の咆哮。

「全軍をもって、貴女を守る! 世界中を敵に回しても、私は貴女を渡さないと言ったはずだ! それは比喩ではない!」

彼は私を強く抱きしめた。 その体は怒りで震えていたが、私を包む腕だけは優しかった。

「彼らは越えてはならない一線を越えた。私の最愛の人を侮辱し、モノ扱いした。……その罪は、死をもって償わせるしかない」

彼は私を離し、バルコニーへと出た。 そして、眼下の全軍に向かって、雷のような声を張り上げた。

「全軍、聞けぇぇぇ!!」

ビリビリと空気が振動する。 数千の兵士たちが、一斉に皇帝を見上げた。

「王国の豚どもは、余に対し『最後通牒』を突きつけた! 余が愛する皇后コーデリアを、罪人として引き渡せとほざいた!」

兵士たちの間に、どよめきが走る。 そして、それは瞬く間に激しい怒号へと変わった。 「ふざけるな!」「皇后陛下を渡すだと!?」「殺せ!!」

彼らにとっても、今の生活を豊かにしてくれたコーデリアは、守るべき象徴だったのだ。

ジークハルト陛下は剣を抜き放ち、天に掲げた。

「これは交渉ではない! 奴らは我々の誇りを踏みにじった! よって、慈悲は与えない!」

剣先が、王国の軍勢に向けられる。

「蹂躙せよ!! 奴らに、真の恐怖を教えてやれ! 我が妻を欲した代償が、いかに高くつくかを骨の髄まで刻んでやれ!!」

『ウオオオオオオオオオオッッ!!!』

地鳴りのような鬨(とき)の声が上がった。 それは、統制された軍隊の雄叫びであり、同時に、主君の怒りを共有した狼の群れの咆哮だった。

私は、その光景を呆然と見つめていた。 私一人のために。 一国の皇帝が、数万の軍隊が、怒り狂って動いている。

「……ああ」

私の中で、何かが完全に吹っ切れた。

かつて、私は「国のために自分を殺せ」と教えられた。 「個人の幸せより、全体の利益を優先しろ」と。

でも、この人は違う。 「全体など知るか、お前が大事だ」と言ってくれた。

その愛の重さが、私の背骨を貫いた。 もはや、迷っている場合ではない。 私がウジウジしていれば、それは彼らの剣を鈍らせることになる。

私はスカートを翻し、作戦テーブルに向かった。 そこには、この要塞周辺の詳細な地形図が広げられている。

「……通信兵!」

私の声は、もう震えていなかった。 冷徹な「軍師」の声に戻っていた。

「はっ!」

「全部隊に伝達! 作戦コード『雪崩(アヴァランチ)』を発動します!」

私は地図の上の駒を動かした。

「敵軍は飢えています。短期決戦を狙って、中央突破を仕掛けてくるでしょう。……誘い込みなさい」

「誘い込む、でありますか?」

「ええ。砦の正面ゲートを開放。第一防衛ラインをわざと崩壊させ、敵を砦内部の広場へ引き込みます」

「なっ、危険すぎます! 敵を城内に入れるなど!」

将軍たちが色めき立つ。 だが、私は不敵に微笑んだ。

「大丈夫です。その広場は、私が設計した『キルゾーン』ですから」

私は、かつてレイモンド殿下に却下された防衛計画の一つを思い出していた。 『卑怯だ』『騎士らしくない』と言われて採用されなかった、効率重視の殲滅プラン。

「敵が広場に密集した瞬間、左右の城壁上部から油を流し込み、火矢を放ちます。同時に、後方の水門を開き、雪解け水を一気に流し込みなさい。火と水、そしてパニックで、彼らは身動きが取れなくなります」

「……えげつない」

誰かがポツリと漏らした。 ええ、えげつないでしょうね。 騎士道精神のかけらもない。 でも、これが戦争です。

「陛下」

私はバルコニーから戻ってきたジークハルト様を見た。 彼はまだ興奮冷めやらぬ様子だったが、私の顔を見てニヤリと笑った。

「覚悟は決まったか?」

「はい。貴方が私のために世界を敵に回すなら、私は貴方のために悪魔にでもなりましょう」

私は彼の手を取り、その手の甲に唇を寄せた。 今度は、私が彼を守る番だ。

「私の知略で、彼らを一匹残らず地獄へ送ります。……見ていてください、私の愛しい旦那様」

「ああ。特等席で見せてもらおう」

陛下は私の腰を抱き寄せ、短く口づけた。

「開戦だ」

その言葉と共に、要塞の角笛が吹き鳴らされた。

ブオオオオオオオオオッ――!

低く、腹に響く音が、雪原にこだまする。 それは王国の終わりを告げる弔鐘であり、私たち夫婦の、血塗られた結婚行進曲の始まりだった。

城壁の下では、挑発に乗った王国軍が、「門が開いたぞ!」「逃げたのか!?」と喚きながら、雪崩を打って突撃を開始していた。 先頭には、黄金の鎧を着て、勝ち誇った顔のレイモンドがいるのが見えた。

「行けー! コーデリアを奪い返せ! 食料を奪え!」

彼の声が風に乗って聞こえてくる。

愚かだ。 本当に、救いようがなく愚かだ。 自分が飛び込もうとしているのが、蜘蛛の巣だとも知らずに。

私は冷ややかな目で見下ろした。 かつて愛そうと努力した男。 私の青春を捧げた相手。

「さようなら、レイモンド殿下」

私の中に、一欠片の憐憫も残っていなかった。 あるのは、ただ事務的な「敵の排除」というタスクだけ。

「総員、攻撃準備! 合図と共に、一斉射撃!」

私の右手が振り下ろされる。 その瞬間、私の過去との決別は完了した。

空を埋め尽くすほどの矢の雨が、黒い雲のように王国軍へ降り注ぐ。 悲鳴と絶叫が、開戦のファンファーレとなった。
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