7 / 20
第七話:届かない物資
しおりを挟む
王国の経済が死にかけていた。
それは、派手な爆発音を伴う崩壊ではない。 静かに、しかし確実に、首を絞められるようにして息絶えようとしていたのだ。
王都の中央広場に面した、商工ギルドの本部。 その応接室で、一人の男が怒号を上げていた。
「どういうことだ! なぜ市場に物が並ばない! 貴様ら、売り惜しみをしているのだろう!」
レイモンド王太子だ。 彼は豪奢なマントを翻し、目の前に座る初老の男性――商工ギルド長を睨みつけていた。
ギルド長は、深くため息をついた。 その目には、王族に対する敬意よりも、話の通じない子供を見るような諦めの色が浮かんでいた。
「殿下。売り惜しみなど滅相もございません。本当に、無いのです」
「嘘をつけ! 倉庫にはまだあるはずだ!」
「倉庫は空です。帝国からの輸入が止まった今、我が国の備蓄などとうの昔に尽きました。南方の属国からのルートも、帝国の高値買い取りによって完全に遮断されています」
ギルド長は淡々と事実を告げた。 だが、レイモンドにはそれが「言い訳」にしか聞こえない。
「ならば、他の国から買えばいいだろう! 西方の海洋国家はどうだ!」
「無理です。西方の商人たちは、我が国の港を避けています」
「なぜだ!」
「港湾設備の老朽化です。以前はコーデリア様が、浚渫(しゅんせつ)工事やクレーンの整備予算を確保し、安全な入港を保証していました。しかし、あの方が去られてからメンテナンスが行われず、先日、座礁事故が起きました。……リスクを冒してまで、貧しくなった我が国に来る船はありません」
コーデリア。 また、その名前だ。
レイモンドは歯ぎしりをした。 どこに行っても、何をしてもうまくいかない原因を探れば、必ずあの女の影に行き当たる。 まるで亡霊だ。
「ええい、うるさい! 言い訳は聞き飽きた!」
レイモンドは机を叩き、一方的な命令を下した。
「本日をもって、『物価統制令』を発令する! 小麦、野菜、肉、薪……すべての生活必需品の価格を、先月の半値に固定せよ!」
ギルド長が目を剥いた。
「は、半値!? 正気ですか!? 仕入れ値が5倍に高騰しているのですぞ!? そんな価格で売れば、商人は一瞬で破産します!」
「知ったことか! 民が苦しんでいるのだぞ? 貴様ら商人は今まで散々甘い汁を吸ってきたのだ、少しは国に還元しろ!」
「無茶苦茶だ……! 商売の理(ことわり)を無視すれば、市場は死にますぞ!」
「黙れ! これは王命だ! 従わぬ店は、反逆罪として取り潰す!」
レイモンドは捨て台詞を残し、肩で風を切って部屋を出て行った。 残されたギルド長は、震える手で顔を覆った。
「……終わりだ。この国は、もう終わりだ」
彼はその日の夜、裏口から密かに使いを出した。 主要な大商人たちへの伝令だ。
『荷をまとめろ。夜陰に乗じて脱出する。……行き先は、帝国だ』
* * *
翌朝。 レイモンドの思惑通り、市場には「安値」の札がついた商品が並ぶ……はずだった。
しかし、現実は残酷だった。
「閉まってる……?」
買い物籠を持った主婦たちが、呆然と立ち尽くしていた。 パン屋も、八百屋も、肉屋も。 すべての店のシャッターが下ろされ、固く閉ざされていたのだ。
『当店は閉店しました』 『長らくのご愛顧、ありがとうございました』
貼り紙だけが、寒風に揺れている。 王都の主要な商店が、一夜にして蒸発したのだ。
赤字で売れと命令されれば、売らないのが一番の自衛策だ。 商売の基本中の基本すら理解していない王太子への、それが商人たちの無言の、そして最大の抵抗だった。
「どうするのよ……今日のパンがないわ」 「お腹が空いたよぉ、ママ……」
子供の泣き声が響く。 市民たちの不安は、恐怖へ、そして怒りへと変わりつつあった。
その不穏な空気を察知したのか、広場の一角に華やかなテントが設営された。 ピンク色の垂れ幕には、王家の紋章と教会のシンボルが描かれている。
「皆様ぁ~! ご安心くださいねぇ~!」
高い場所から、可愛らしい声が降ってくる。 聖女ミナだ。 彼女は純白のドレスに身を包み、バルコニーから手を振っていた。 隣には、引きつった笑顔のレイモンドもいる。
「お店が意地悪して閉まっちゃったみたいですけどぉ、大丈夫です! 私が『聖女の炊き出し』を開催しまぁす!」
おお……と、民衆からどよめきが起こる。 飢えた人々が、救いを求めてテントに殺到した。
「並んでくださぁい! 喧嘩はだめですよぉ!」
ミナは笑顔でスープを配り始めた。 大鍋で煮込まれた、温かいスープ。 人々は震える手で器を受け取り、口に運ぶ。
「……ん?」
最初に違和感を覚えたのは、老人だった。
「これ……ただのお湯じゃねえか?」
スープ皿の中身は、薄く濁ったお湯だった。 具はほとんどない。 申し訳程度に浮いているのは、枯れたような茶色い葉っぱの欠片だけ。
「味が……甘い?」
塩気や肉の旨味ではなく、不自然な甘みがする。
「はいっ、次の方ぁ! 美味しいですかぁ? 私が『美味しくな~れ』って聖なる魔力を込めたんですよぉ!」
ミナが得意げに胸を張る。 そう、彼女は具材がないことを誤魔化すために、甘い味のする魔力を水に込めたのだ。 栄養価はゼロ。 ただの砂糖水のようなお湯だ。
「ふざけるな!」
男が器を地面に叩きつけた。
「俺たちが欲しいのは飯だ! 魔力なんて食えるか! 肉をよこせ! 芋をよこせ!」
「きゃっ! な、なんですか怖い!」
ミナが怯えて後ずさる。
「せっかく私が一生懸命作ったのにぃ……! ひどい、善意を踏みにじるなんて!」
「善意で腹が膨れるかよ! 王族はいいよな、毎日美味いもん食って、俺たちには甘いお湯か!?」 「商人を追い出したのはお前らだって噂だぞ!」 「前の公爵令嬢様がいた頃は、こんなことなかった!」
誰かが叫んだその一言が、広場の空気を決定づけた。
「そうだ! コーデリア様を返せ!」 「あの人は厳しかったけど、俺たちを飢えさせたりはしなかった!」 「偽物の聖女はいらねえ! 賢い元妃様を連れてこい!」
「コ、コーデリア……?」
ミナの顔が歪む。 なぜ、ここでその名前が出るのか。 自分がこんなに可愛くて、優しくて、奉仕しているのに。 なぜ、あの可愛げのない女の方が支持されるのか。
「おのれ、愚民どもが……!」
レイモンドが剣の柄に手をかけた。
「ミナの施しを受け取っておきながら、その暴言は何事か! 不敬罪で全員斬り捨てるぞ!」
「やってみろよ! どうせ飢えて死ぬんだ!」
民衆がじりじりと詰め寄る。 暴動寸前。 その殺気に、レイモンドとミナは顔を引きつらせ、衛兵に守られながら逃げるように城へ退散した。
残されたのは、こぼれた甘いお湯の匂いと、民衆の絶望的な怒りだけだった。
* * *
遠く離れた帝国、帝都。
執務室の窓辺で、私は一枚の報告書を読んでいた。 王都での騒乱。 商人たちの大量亡命。 そして、炊き出しの失敗。
「……予想よりも早かったわね」
私は独り言ちた。 一ヶ月は持つかと思っていたが、半月でここまで崩れるとは。 それだけ、王国のシステムが私の個人的な能力に依存しすぎていたということだ。 属人的すぎる組織は脆い。 私が常に危惧し、改善しようとしていた課題が、最悪の形で証明されてしまった。
胸が痛まないと言えば、嘘になる。 あの広場で怒号を上げている民衆の中には、かつて私が整備した公園で遊んでいた子供たちもいるだろう。 私が守りたかった人々だ。
「……辛いか?」
背後から、温かい手が私の肩を包んだ。 ジークハルト様だ。 いつの間に入ってきたのか、気配を感じさせないのはさすが武人だ。
「……いいえ。ただ、哀れなだけです」
私は報告書を伏せた。
「私は警告しました。何度も、何度も。物流の重要性を、備蓄の必要性を。でも、彼らは耳を貸さなかった。これは彼らが選んだ結果です」
「自分を責めるな。貴女は神ではない。救えるのは、手を伸ばしてくる者だけだ」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「ちなみに、亡命を希望している商人たちだが……どうする?」
「受け入れましょう。彼らは目ざとい。帝国の経済が上向きだと判断したからこそ、リスクを冒して国境を越えてきたのです。彼らの持つ商業ネットワークと資金力は、帝国のさらなる発展に役立ちます」
「敵国の人間だぞ?」
「金に国境はありません。それに、彼らを受け入れれば、王国の経済は完全に死にます。血の一滴まで搾り取る、という約束でしたでしょう?」
私は冷徹に言い放った。 ここで情けをかけて追い返せば、彼らは王国に戻り、レイモンドを支えるかもしれない。 それは戦争を長引かせ、結果的により多くの民を苦しめることになる。
「……ふっ、厳しいな。だが正しい」
ジークハルト様は苦笑し、私の首筋にキスを落とした。
「貴女が私の味方で本当によかった。もし敵に回していたらと思うと、ゾッとするよ」
「あら、私は味方にした途端に甘くなるタイプですわよ?」
「それは知っている。昨夜、たっぷりと教えてもらったからな」
彼の甘い囁きに、顔が熱くなる。 この人は、執務モードと恋人モードの切り替えが上手すぎる。
「と、ところでお話が変わりますが……」
私は慌てて話題を変えた。
「王国の動きが、きな臭いです。国内の不満を逸らすために、対外戦争に踏み切る可能性があります」
「ああ。国境警備隊からも報告が来ている。王国軍が集結し始めているとな」
ジークハルト様の纏う空気が、瞬時に鋭い刃のようなものに変わった。
「愚かなことだ。飢えた兵士、錆びついた武器、無能な指揮官。それで我が『黒狼騎士団』に勝てると思っているのか」
「彼らは現実が見えていないのです。……あるいは、ミナの『聖女の力』を過信しているか」
「聖女、か。……貴女から見て、あれは脅威か?」
「いいえ」
私は即答した。
「彼女の力は『局所的な奇跡』に過ぎません。一人の怪我を治せても、一万人の軍隊を維持することはできない。戦場において、補給なき軍隊はただの的です」
「同感だ。……よし」
陛下は窓の外、南の空を睨み据えた。
「迎え撃つぞ。彼らが国境を越えた瞬間、それが王国の最後の日となる」
* * *
再び、王国。
王城の軍議室は、異様な熱気に包まれていた。 だがそれは、勝利を確信した高揚感ではなく、追い詰められた獣の放つ狂気のような熱だった。
「出兵だ! 帝国を討ち、物資を奪還する!」
レイモンドが地図の上に剣を突き立てた。
「しかし殿下、兵士たちの士気が……食料も足りておりません!」
将軍の一人が悲鳴のように訴える。
「心配いらない! ミナが言っていた! 『敵の食料を奪えばいい』とな! 現地調達だ、それが一番効率的だろう!」
「そ、それは略奪では……騎士道に反します!」
「うるさい! 勝てば官軍だ! 帝国には、コーデリアが整えた豊かな倉庫があるのだろ? それは元々、俺たちのものになるはずだったんだ。取り返して何が悪い!」
レイモンドの論理は破綻していた。 だが、誰も彼を止められない。 止めるべき理性的な人間は、すでに全員追放されるか、辞職してしまっていたからだ。
「装備はどうだ!」
「は、はい……。倉庫から鎧を出しましたが、革紐が腐り落ちて使い物になりません。剣も錆が浮いており……」
「砥石で磨けば切れるだろう! 甘えるな!」
「馬も足りません! 飼料がなくて痩せ細っており、重い騎士を乗せて走れません!」
「歩かせろ! 帝国までの距離など知れている!」
精神論。 根性論。 具体的な解決策は何一つないまま、「やる気があればなんとかなる」という暴論だけで、国家の最高意思決定が進んでいく。
その様子を、部屋の隅でミナが見ていた。 彼女は退屈そうに爪をいじっている。
「戦争かぁ。勝ったら、帝国の美味しいケーキが食べられるかなぁ。コーデリア様が着てたあのドレス、私に似合うかなぁ」
彼女には想像力が欠如していた。 戦争が泥と血にまみれた殺し合いであることも、自分がその最前線に立たされる意味も、理解していなかった。 ただのイベント、あるいはゲームの一種だと思っている。
「よし、全軍出撃だ! 3日後に国境を越える!」
レイモンドが宣言した。
こうして、歴史上最も無謀で、最も悲惨な行軍が始まろうとしていた。 ボロボロの鎧を着て、空腹でふらつく兵士たち。 それを率いる、勘違いした王太子と、微笑む死神のような聖女。
彼らが向かう先には、万全の準備を整え、冷ややかに待ち構える「鉄の女」と「氷の皇帝」がいるとも知らずに。
それは、派手な爆発音を伴う崩壊ではない。 静かに、しかし確実に、首を絞められるようにして息絶えようとしていたのだ。
王都の中央広場に面した、商工ギルドの本部。 その応接室で、一人の男が怒号を上げていた。
「どういうことだ! なぜ市場に物が並ばない! 貴様ら、売り惜しみをしているのだろう!」
レイモンド王太子だ。 彼は豪奢なマントを翻し、目の前に座る初老の男性――商工ギルド長を睨みつけていた。
ギルド長は、深くため息をついた。 その目には、王族に対する敬意よりも、話の通じない子供を見るような諦めの色が浮かんでいた。
「殿下。売り惜しみなど滅相もございません。本当に、無いのです」
「嘘をつけ! 倉庫にはまだあるはずだ!」
「倉庫は空です。帝国からの輸入が止まった今、我が国の備蓄などとうの昔に尽きました。南方の属国からのルートも、帝国の高値買い取りによって完全に遮断されています」
ギルド長は淡々と事実を告げた。 だが、レイモンドにはそれが「言い訳」にしか聞こえない。
「ならば、他の国から買えばいいだろう! 西方の海洋国家はどうだ!」
「無理です。西方の商人たちは、我が国の港を避けています」
「なぜだ!」
「港湾設備の老朽化です。以前はコーデリア様が、浚渫(しゅんせつ)工事やクレーンの整備予算を確保し、安全な入港を保証していました。しかし、あの方が去られてからメンテナンスが行われず、先日、座礁事故が起きました。……リスクを冒してまで、貧しくなった我が国に来る船はありません」
コーデリア。 また、その名前だ。
レイモンドは歯ぎしりをした。 どこに行っても、何をしてもうまくいかない原因を探れば、必ずあの女の影に行き当たる。 まるで亡霊だ。
「ええい、うるさい! 言い訳は聞き飽きた!」
レイモンドは机を叩き、一方的な命令を下した。
「本日をもって、『物価統制令』を発令する! 小麦、野菜、肉、薪……すべての生活必需品の価格を、先月の半値に固定せよ!」
ギルド長が目を剥いた。
「は、半値!? 正気ですか!? 仕入れ値が5倍に高騰しているのですぞ!? そんな価格で売れば、商人は一瞬で破産します!」
「知ったことか! 民が苦しんでいるのだぞ? 貴様ら商人は今まで散々甘い汁を吸ってきたのだ、少しは国に還元しろ!」
「無茶苦茶だ……! 商売の理(ことわり)を無視すれば、市場は死にますぞ!」
「黙れ! これは王命だ! 従わぬ店は、反逆罪として取り潰す!」
レイモンドは捨て台詞を残し、肩で風を切って部屋を出て行った。 残されたギルド長は、震える手で顔を覆った。
「……終わりだ。この国は、もう終わりだ」
彼はその日の夜、裏口から密かに使いを出した。 主要な大商人たちへの伝令だ。
『荷をまとめろ。夜陰に乗じて脱出する。……行き先は、帝国だ』
* * *
翌朝。 レイモンドの思惑通り、市場には「安値」の札がついた商品が並ぶ……はずだった。
しかし、現実は残酷だった。
「閉まってる……?」
買い物籠を持った主婦たちが、呆然と立ち尽くしていた。 パン屋も、八百屋も、肉屋も。 すべての店のシャッターが下ろされ、固く閉ざされていたのだ。
『当店は閉店しました』 『長らくのご愛顧、ありがとうございました』
貼り紙だけが、寒風に揺れている。 王都の主要な商店が、一夜にして蒸発したのだ。
赤字で売れと命令されれば、売らないのが一番の自衛策だ。 商売の基本中の基本すら理解していない王太子への、それが商人たちの無言の、そして最大の抵抗だった。
「どうするのよ……今日のパンがないわ」 「お腹が空いたよぉ、ママ……」
子供の泣き声が響く。 市民たちの不安は、恐怖へ、そして怒りへと変わりつつあった。
その不穏な空気を察知したのか、広場の一角に華やかなテントが設営された。 ピンク色の垂れ幕には、王家の紋章と教会のシンボルが描かれている。
「皆様ぁ~! ご安心くださいねぇ~!」
高い場所から、可愛らしい声が降ってくる。 聖女ミナだ。 彼女は純白のドレスに身を包み、バルコニーから手を振っていた。 隣には、引きつった笑顔のレイモンドもいる。
「お店が意地悪して閉まっちゃったみたいですけどぉ、大丈夫です! 私が『聖女の炊き出し』を開催しまぁす!」
おお……と、民衆からどよめきが起こる。 飢えた人々が、救いを求めてテントに殺到した。
「並んでくださぁい! 喧嘩はだめですよぉ!」
ミナは笑顔でスープを配り始めた。 大鍋で煮込まれた、温かいスープ。 人々は震える手で器を受け取り、口に運ぶ。
「……ん?」
最初に違和感を覚えたのは、老人だった。
「これ……ただのお湯じゃねえか?」
スープ皿の中身は、薄く濁ったお湯だった。 具はほとんどない。 申し訳程度に浮いているのは、枯れたような茶色い葉っぱの欠片だけ。
「味が……甘い?」
塩気や肉の旨味ではなく、不自然な甘みがする。
「はいっ、次の方ぁ! 美味しいですかぁ? 私が『美味しくな~れ』って聖なる魔力を込めたんですよぉ!」
ミナが得意げに胸を張る。 そう、彼女は具材がないことを誤魔化すために、甘い味のする魔力を水に込めたのだ。 栄養価はゼロ。 ただの砂糖水のようなお湯だ。
「ふざけるな!」
男が器を地面に叩きつけた。
「俺たちが欲しいのは飯だ! 魔力なんて食えるか! 肉をよこせ! 芋をよこせ!」
「きゃっ! な、なんですか怖い!」
ミナが怯えて後ずさる。
「せっかく私が一生懸命作ったのにぃ……! ひどい、善意を踏みにじるなんて!」
「善意で腹が膨れるかよ! 王族はいいよな、毎日美味いもん食って、俺たちには甘いお湯か!?」 「商人を追い出したのはお前らだって噂だぞ!」 「前の公爵令嬢様がいた頃は、こんなことなかった!」
誰かが叫んだその一言が、広場の空気を決定づけた。
「そうだ! コーデリア様を返せ!」 「あの人は厳しかったけど、俺たちを飢えさせたりはしなかった!」 「偽物の聖女はいらねえ! 賢い元妃様を連れてこい!」
「コ、コーデリア……?」
ミナの顔が歪む。 なぜ、ここでその名前が出るのか。 自分がこんなに可愛くて、優しくて、奉仕しているのに。 なぜ、あの可愛げのない女の方が支持されるのか。
「おのれ、愚民どもが……!」
レイモンドが剣の柄に手をかけた。
「ミナの施しを受け取っておきながら、その暴言は何事か! 不敬罪で全員斬り捨てるぞ!」
「やってみろよ! どうせ飢えて死ぬんだ!」
民衆がじりじりと詰め寄る。 暴動寸前。 その殺気に、レイモンドとミナは顔を引きつらせ、衛兵に守られながら逃げるように城へ退散した。
残されたのは、こぼれた甘いお湯の匂いと、民衆の絶望的な怒りだけだった。
* * *
遠く離れた帝国、帝都。
執務室の窓辺で、私は一枚の報告書を読んでいた。 王都での騒乱。 商人たちの大量亡命。 そして、炊き出しの失敗。
「……予想よりも早かったわね」
私は独り言ちた。 一ヶ月は持つかと思っていたが、半月でここまで崩れるとは。 それだけ、王国のシステムが私の個人的な能力に依存しすぎていたということだ。 属人的すぎる組織は脆い。 私が常に危惧し、改善しようとしていた課題が、最悪の形で証明されてしまった。
胸が痛まないと言えば、嘘になる。 あの広場で怒号を上げている民衆の中には、かつて私が整備した公園で遊んでいた子供たちもいるだろう。 私が守りたかった人々だ。
「……辛いか?」
背後から、温かい手が私の肩を包んだ。 ジークハルト様だ。 いつの間に入ってきたのか、気配を感じさせないのはさすが武人だ。
「……いいえ。ただ、哀れなだけです」
私は報告書を伏せた。
「私は警告しました。何度も、何度も。物流の重要性を、備蓄の必要性を。でも、彼らは耳を貸さなかった。これは彼らが選んだ結果です」
「自分を責めるな。貴女は神ではない。救えるのは、手を伸ばしてくる者だけだ」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「ちなみに、亡命を希望している商人たちだが……どうする?」
「受け入れましょう。彼らは目ざとい。帝国の経済が上向きだと判断したからこそ、リスクを冒して国境を越えてきたのです。彼らの持つ商業ネットワークと資金力は、帝国のさらなる発展に役立ちます」
「敵国の人間だぞ?」
「金に国境はありません。それに、彼らを受け入れれば、王国の経済は完全に死にます。血の一滴まで搾り取る、という約束でしたでしょう?」
私は冷徹に言い放った。 ここで情けをかけて追い返せば、彼らは王国に戻り、レイモンドを支えるかもしれない。 それは戦争を長引かせ、結果的により多くの民を苦しめることになる。
「……ふっ、厳しいな。だが正しい」
ジークハルト様は苦笑し、私の首筋にキスを落とした。
「貴女が私の味方で本当によかった。もし敵に回していたらと思うと、ゾッとするよ」
「あら、私は味方にした途端に甘くなるタイプですわよ?」
「それは知っている。昨夜、たっぷりと教えてもらったからな」
彼の甘い囁きに、顔が熱くなる。 この人は、執務モードと恋人モードの切り替えが上手すぎる。
「と、ところでお話が変わりますが……」
私は慌てて話題を変えた。
「王国の動きが、きな臭いです。国内の不満を逸らすために、対外戦争に踏み切る可能性があります」
「ああ。国境警備隊からも報告が来ている。王国軍が集結し始めているとな」
ジークハルト様の纏う空気が、瞬時に鋭い刃のようなものに変わった。
「愚かなことだ。飢えた兵士、錆びついた武器、無能な指揮官。それで我が『黒狼騎士団』に勝てると思っているのか」
「彼らは現実が見えていないのです。……あるいは、ミナの『聖女の力』を過信しているか」
「聖女、か。……貴女から見て、あれは脅威か?」
「いいえ」
私は即答した。
「彼女の力は『局所的な奇跡』に過ぎません。一人の怪我を治せても、一万人の軍隊を維持することはできない。戦場において、補給なき軍隊はただの的です」
「同感だ。……よし」
陛下は窓の外、南の空を睨み据えた。
「迎え撃つぞ。彼らが国境を越えた瞬間、それが王国の最後の日となる」
* * *
再び、王国。
王城の軍議室は、異様な熱気に包まれていた。 だがそれは、勝利を確信した高揚感ではなく、追い詰められた獣の放つ狂気のような熱だった。
「出兵だ! 帝国を討ち、物資を奪還する!」
レイモンドが地図の上に剣を突き立てた。
「しかし殿下、兵士たちの士気が……食料も足りておりません!」
将軍の一人が悲鳴のように訴える。
「心配いらない! ミナが言っていた! 『敵の食料を奪えばいい』とな! 現地調達だ、それが一番効率的だろう!」
「そ、それは略奪では……騎士道に反します!」
「うるさい! 勝てば官軍だ! 帝国には、コーデリアが整えた豊かな倉庫があるのだろ? それは元々、俺たちのものになるはずだったんだ。取り返して何が悪い!」
レイモンドの論理は破綻していた。 だが、誰も彼を止められない。 止めるべき理性的な人間は、すでに全員追放されるか、辞職してしまっていたからだ。
「装備はどうだ!」
「は、はい……。倉庫から鎧を出しましたが、革紐が腐り落ちて使い物になりません。剣も錆が浮いており……」
「砥石で磨けば切れるだろう! 甘えるな!」
「馬も足りません! 飼料がなくて痩せ細っており、重い騎士を乗せて走れません!」
「歩かせろ! 帝国までの距離など知れている!」
精神論。 根性論。 具体的な解決策は何一つないまま、「やる気があればなんとかなる」という暴論だけで、国家の最高意思決定が進んでいく。
その様子を、部屋の隅でミナが見ていた。 彼女は退屈そうに爪をいじっている。
「戦争かぁ。勝ったら、帝国の美味しいケーキが食べられるかなぁ。コーデリア様が着てたあのドレス、私に似合うかなぁ」
彼女には想像力が欠如していた。 戦争が泥と血にまみれた殺し合いであることも、自分がその最前線に立たされる意味も、理解していなかった。 ただのイベント、あるいはゲームの一種だと思っている。
「よし、全軍出撃だ! 3日後に国境を越える!」
レイモンドが宣言した。
こうして、歴史上最も無謀で、最も悲惨な行軍が始まろうとしていた。 ボロボロの鎧を着て、空腹でふらつく兵士たち。 それを率いる、勘違いした王太子と、微笑む死神のような聖女。
彼らが向かう先には、万全の準備を整え、冷ややかに待ち構える「鉄の女」と「氷の皇帝」がいるとも知らずに。
25
あなたにおすすめの小説
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
【完結】双子の伯爵令嬢とその許婚たちの物語
ひかり芽衣
恋愛
伯爵令嬢のリリカとキャサリンは二卵性双生児。生まれつき病弱でどんどん母似の美女へ成長するキャサリンを母は溺愛し、そんな母に父は何も言えない……。そんな家庭で育った父似のリリカは、とにかく自分に自信がない。幼い頃からの許婚である伯爵家長男ウィリアムが心の支えだ。しかしある日、ウィリアムに許婚の話をなかったことにして欲しいと言われ……
リリカとキャサリン、ウィリアム、キャサリンの許婚である公爵家次男のスターリン……彼らの物語を一緒に見守って下さると嬉しいです。
⭐︎2023.4.24完結⭐︎
※2024.2.8~追加・修正作業のため、2話以降を一旦非公開にしていました。
→2024.3.4再投稿。大幅に追加&修正をしたので、もしよければ読んでみて下さい(^^)
甘そうな話は甘くない
ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
「君には失望したよ。ミレイ傷つけるなんて酷いことを! 婚約解消の通知は君の両親にさせて貰うから、もう会うこともないだろうな!」
言い捨てるような突然の婚約解消に、困惑しかないアマリリス・クライド公爵令嬢。
「ミレイ様とは、どなたのことでしょうか? 私(わたくし)には分かりかねますわ」
「とぼけるのも程ほどにしろっ。まったくこれだから気位の高い女は好かんのだ」
先程から散々不満を並べ立てるのが、アマリリスの婚約者のデバン・クラッチ侯爵令息だ。煌めく碧眼と艶々の長い金髪を腰まで伸ばした長身の全身筋肉。
彼の家門は武に長けた者が多く輩出され、彼もそれに漏れないのだが脳筋過ぎた。
だけど顔は普通。
10人に1人くらいは見かける顔である。
そして自分とは真逆の、大人しくか弱い女性が好みなのだ。
前述のアマリリス・クライド公爵令嬢は猫目で菫色、銀糸のサラサラ髪を持つ美しい令嬢だ。祖母似の容姿の為、特に父方の祖父母に溺愛されている。
そんな彼女は言葉が通じない婚約者に、些かの疲労感を覚えた。
「ミレイ様のことは覚えがないのですが、お話は両親に伝えますわ。それでは」
彼女(アマリリス)が淑女の礼の最中に、それを見終えることなく歩き出したデバンの足取りは軽やかだった。
(漸くだ。あいつの有責で、やっと婚約解消が出来る。こちらに非がなければ、父上も同意するだろう)
この婚約はデバン・クラッチの父親、グラナス・クラッチ侯爵からの申し込みであった。クライド公爵家はアマリリスの兄が継ぐので、侯爵家を継ぐデバンは嫁入り先として丁度良いと整ったものだった。
カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています。
妹の身代わり人生です。愛してくれた辺境伯の腕の中さえ妹のものになるようです。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。
※※※※※※※※※※※※※
双子として生まれたエレナとエレン。
かつては忌み子とされていた双子も何代か前の王によって、そういった扱いは禁止されたはずだった。
だけどいつの時代でも古い因習に囚われてしまう人達がいる。
エレナにとって不幸だったのはそれが実の両親だったということだった。
両親は妹のエレンだけを我が子(長女)として溺愛し、エレナは家族とさえ認められない日々を過ごしていた。
そんな中でエレンのミスによって辺境伯カナトス卿の令息リオネルがケガを負ってしまう。
療養期間の1年間、娘を差し出すよう求めてくるカナトス卿へ両親が差し出したのは、エレンではなくエレナだった。
エレンのフリをして初恋の相手のリオネルの元に向かうエレナは、そんな中でリオネルから優しさをむけてもらえる。
だが、その優しささえも本当はエレンへ向けられたものなのだ。
自分がニセモノだと知っている。
だから、この1年限りの恋をしよう。
そう心に決めてエレナは1年を過ごし始める。
※※※※※※※※※※※※※
異世界として、その世界特有の法や産物、鉱物、身分制度がある前提で書いています。
現実と違うな、という場面も多いと思います(すみません💦)
ファンタジーという事でゆるくとらえて頂けると助かります💦
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
居候と婚約者が手を組んでいた!
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
グリンマトル伯爵家の一人娘のレネットは、前世の記憶を持っていた。前世は体が弱く入院しそのまま亡くなった。その為、病気に苦しむ人を助けたいと思い薬師になる事に。幸いの事に、家業は薬師だったので、いざ学校へ。本来は17歳から通う学校へ7歳から行く事に。ほらそこは、転生者だから!
って、王都の学校だったので寮生活で、数年後に帰ってみると居候がいるではないですか!
父親の妹家族のウルミーシュ子爵家だった。同じ年の従姉妹アンナがこれまたわがまま。
アンアの母親で父親の妹のエルダがこれまたくせ者で。
最悪な事態が起き、レネットの思い描いていた未来は消え去った。家族と末永く幸せと願った未来が――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる