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第八話:不器用な贈り物
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帝城の執務室にある大時計が、深夜二時を告げる鐘を鳴らした。
静寂に包まれた部屋で、私のペンが紙を走る音だけが響いている。 カリ、カリ、カリ。
机の上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。 王国から逃げてきた商人たちの受け入れ手続き。 国境付近の村々の避難計画。 そして、迎撃部隊への兵站(へいたん)管理。
やるべきことは無限にあった。 戦争は、始まる前から始まっている。 私の判断一つで、数千人の兵士と民の命が左右されるのだ。
「……ふぅ」
ペンのインクを補充しようとして、手が止まった。 指先が震えている。 視界が少し霞んでいる。
(いけない。集中しなさい、コーデリア)
私はこめかみを強く揉み、自分を叱咤した。 休んでいる暇はない。 私がここで手を抜けば、誰かが死ぬかもしれない。 私が役に立たなくなれば、また「不要だ」と捨てられるかもしれない。
その恐怖が、私の背中を押し続けていた。 王国の公爵家にいた頃からの、呪いのような強迫観念。 『有能であれ。さもなくば、お前に価値はない』 父の言葉と、レイモンドの冷たい視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……もっと、早く。もっと正確に」
私は霞む目をこすり、再びペンを握り直した。 その時だった。
「――入るぞ」
ノックもなく、重厚な扉が開かれた。 ジークハルト陛下だ。 寝間着姿ではなく、まだ軍服を着ている。 彼もまた、遅くまで軍議を重ねていたのだろう。
「陛下。……申し訳ありません、お出迎えもせず」
私は慌てて立ち上がろうとしたが、ふらりと体が揺れた。 めまいだ。
「おいっ!」
陛下の強い腕が、倒れかけた私を支えた。 革手袋の冷たさと、その奥にある体温が伝わってくる。
「……馬鹿者」
彼は低い声で叱責した。
「顔色が紙のように白いぞ。いつから休んでいない?」
「い、いえ、大丈夫です。少し目が疲れただけで……まだ、この輸送計画を仕上げなければ……」
「却下だ」
彼は問答無用で私を抱き上げ、執務室の隅にある仮眠用のソファへと運んだ。
「降ろしてください、陛下! 仕事が……!」
「仕事なら、私がやる。貴女はもう限界だ」
彼は私をソファに座らせると、ブランケットを頭から被せた。 そして、私の目の前に仁王立ちになり、溜め息をついた。
「コーデリア。貴女は優秀だが、自分の体調管理に関しては落第点だな。……王国では、いつもこうだったのか?」
「……はい。私がやらなければ、誰もやりませんでしたから」
「あそこは地獄か」
彼は吐き捨てるように言った。 そして、懐から小さな包みを取り出し、私の膝の上に放り投げた。
「……これは?」
「受け取れ。……その、なんだ。……慰問品だ」
彼が視線を逸らす。 銀髪の間から覗く耳が、ほんのりと赤くなっているように見えた。
私は不思議に思いながら、包みを開けた。 中に入っていたのは、黒塗りの木箱。 開けると、そこには二つの品が収められていた。
一つは、万年筆。 漆黒のボディに金の装飾が施された、重厚で美しい一本だ。 もう一つは、乾燥した青い花びらが詰まった小瓶。
「これは……」
「貴女が使っていたペン、だいぶガタがきていただろう」
陛下はそっぽを向いたまま言った。
「ペン先が摩耗して、インクの出が悪くなっていた。それに、貴女の手には軸が少し太すぎて、長時間書くと手首を痛めるようだったからな。……帝国の職人に命じて、貴女の手のサイズに合わせて重心を調整させた特注品だ」
私は息を呑んだ。 確かに、私が王国から持ってきたペンは、亡き母の形見とはいえ古く、書き心地は悪くなっていた。 手首が痛むのも、職業病だと諦めていた。
それを、この人は見ていたのか。 私が一言も不満を漏らしていないのに。 ただ書類を書いている姿を見ただけで、私の小さな苦痛に気づいてくれたのか。
「それと、その瓶は……『蒼月草(そうげつそう)』だ」
「蒼月草……? 北の峻険な山岳地帯にしか咲かないという、あの幻の?」
「ああ。煎じて飲むと、眼精疲労と頭痛に劇的に効く。……部下に採りに行かせようとしたが、今の時期は雪崩が多くて危険だと言われてな。仕方がないから、私が先日の視察のついでに採ってきた」
「へ……?」
採ってきた? 皇帝陛下が? あの、断崖絶壁に咲く花を? ついで、と言うにはあまりにも命がけな場所のはずだ。
「陛下……まさか、私のために、雪山に登られたのですか?」
「……勘違いするな。あくまで視察のついでだ。たまたま、崖の途中に咲いているのが見えたから、ちょっと飛んでむしり取ってきただけだ」
彼は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 だが、その軍服の袖口に、小さな引っかき傷があるのを私は見逃さなかった。 岩場で擦ったのだろうか。
胸が、熱くなった。 喉の奥が詰まるような、甘くて切ない痛み。
高価な宝石でもない。 流行のドレスでもない。 仕事道具のペンと、薬草。
なんて色気のない、実用一辺倒な贈り物だろう。 でも、私にとっては、世界中のどんな財宝よりも価値があった。
彼は、私という人間を、芯まで理解してくれている。 私が何を必要としているか。 何に困っているか。 そして、どうすれば私が仕事を続けられるか。
「……不器用な方」
涙が、ポロリとこぼれた。
「えっ? お、おい、なぜ泣く!?」
陛下が狼狽する。 氷の皇帝と呼ばれる男が、女の涙一つでオロオロと動揺している。
「気に入らなかったか? すまん、私は女への贈り物など選んだことがなくて……やはり宝石の方がよかったか? それとも花束か?」
「いいえ……いいえ!」
私は首を横に振った。 溢れる涙を止めることができない。
「嬉しいのです。……こんなに、大切にされたことなんて、なかったから」
私は万年筆を胸に抱きしめた。
「王国では……誕生日に何かをもらったことなどありませんでした。レイモンド殿下は、いつも自分の欲しいものを私に買わせていました。父は、私の成果だけを求めて、私の体調など気にしたこともありませんでした」
長年、心の奥底に封印していた澱(おり)が、決壊したダムのように溢れ出してくる。
「私は、道具でしたから。壊れたら捨てられる、代わりのある道具。だから、メンテナンスなんて必要ないと思われていました」
「コーデリア……」
「でも、貴方は違う。壊れかけた私を拾って、直してくれて、さらにこうして……大切に扱ってくれる」
私は涙で濡れた顔を上げ、彼を見た。
「どうしてですか? 私はただの契約者でしょう? なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
陛下は静かに私を見下ろした。 その赤い瞳から、動揺の色が消え、深く、揺るぎない光が宿る。
彼はゆっくりと片膝をついた。 私の目線の高さに合わせて。
「契約者だからではない」
彼の大きな手が伸びてきて、私の頬を伝う涙を親指で拭った。 その手つきは、割れ物に触れるように繊細だった。
「惚れた女に尽くすのに、理由が必要か?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「コーデリア。私は貴女の頭脳に惚れたと言った。だが、それは貴女の一部に過ぎない。必死に国を支えようとする責任感も、民を想って心を痛める優しさも、そして……こうして私の前で見せる脆さも、すべて愛おしい」
彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とした。 契約の時のような儀礼的なものではない。 長く、熱い、所有と崇拝を示すキス。
「貴女は道具ではない。私の半身だ。貴女が壊れれば、私も壊れる。だから、自分を粗末にするな。それは私を傷つけるのと同じことだ」
「ジークハルト様……」
「これからは、私が貴女の盾になろう。貴女を守るためなら、私は皇帝の座すら賭けてもいい」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも重く、私の魂に響いた。 この人は本気だ。 私のために、世界を敵に回す覚悟がある。
張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れた。 私はソファから身を乗り出し、彼の首に腕を回した。
「……っ!?」
驚く彼を、私は強く抱きしめた。 軍服の硬い感触と、石鹸の香り。
「ありがとうございます……。私も、貴方が好きです。皇帝だからではなく、貴方だから」
初めて、言葉にして伝えた。 契約ではない。 計算でもない。 ただの一人の女性としての、純粋な恋心。
ジークハルト様の体が強張ったのは一瞬だった。 すぐに彼の腕が私の背中に回され、骨が軋むほど強く抱きしめ返された。
「……参ったな」
彼の声が、私の耳元で震えていた。
「そんなことを言われては、もう離してやれなくなる」
「離さないでください。……一生」
私たちは、静かな執務室で、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。 言葉はもう要らなかった。 互いの鼓動のリズムが、同じ速さで刻まれていることだけで十分だった。
しばらくして、彼が体を離し、少し照れくさそうに言った。
「さて……まずはその薬草茶を飲んで、少し眠れ。仕事は私が引き継ぐ」
「でも、陛下も寝ていないのでは?」
「私は平気だ。これでも体力には自信がある。それに……」
彼は机の上の万年筆を手に取り、私に手渡した。
「目が覚めたら、この新しいペンで、私へのラブレターでも書いてくれないか? 最初の試し書きとして」
冗談めかして言う彼に、私は吹き出した。
「ふふっ……わかりました。最高にロマンチックで、論理的なラブレターを書いて差し上げますわ」
「楽しみにしている」
彼は私の頭をポンポンと撫でると、本当に私の机に座り、書類仕事を始めた。 その背中は大きく、頼もしかった。
私はソファに横になり、ブランケットに包まった。 万年筆を握りしめたまま。 その黒い軸の冷たさが、体温で徐々に温まっていく。
(ああ、幸せ……)
瞼が重くなる。 不安は消えていた。 私は一人じゃない。 最強のパートナーが、すぐ傍にいてくれる。
深い眠りに落ちる直前、私は夢を見た気がした。 二人で手を取り合い、春の光の中を歩く夢を。
* * *
翌朝。 私は驚くほどすっきりと目覚めた。 蒼月草の効果か、それとも深い安心感のおかげか。 目の疲れも、頭の重さも消え去っていた。
机の上を見ると、書類の山は綺麗に片付き、すべてに的確な決裁印が押されていた。 そして、その横には一枚のメモが置かれていた。
『よく眠れていたようだ。寝顔も悪くない』
ぶっきらぼうな筆跡に、私は顔を赤くし、そしてクスクスと笑った。
「本当に……愛おしい人」
私は新しい万年筆にインクを吸わせた。 滑らかな吸入機構。 手に吸い付くようなグリップ感。
私は紙を広げ、彼への「ラブレター」ではなく、新たな作戦計画書を書き始めた。 彼への愛を証明するには、これが一番だからだ。 インクが紙に染みる。 その書き心地は、まるで氷の上を滑るように滑らかで、私の思考を加速させた。
だが、その平穏な時間は長くは続かなかった。
ドンドンドン!
激しいノックと共に、伝令兵が部屋に飛び込んできた。
「ご報告します!! 皇后陛下、緊急事態です!!」
兵士は息を切らし、顔面蒼白で叫んだ。
「たった今、国境の監視砦より狼煙(のろし)が上がりました! 王国軍です! 王国軍およそ三万が、国境を越えて侵攻を開始しました!!」
ついに、来た。 私はペンを置いた。 不思議と、心は静かだった。 昨夜の彼との時間のおかげで、私の心幹は鋼のように強くなっていたからだ。
私は立ち上がり、窓の外を見た。 南の空が、重苦しい雲に覆われている。
「……愚かな人たち」
私は万年筆を強く握りしめた。
「せっかくの新しいペンの最初の仕事が、貴方たちの『死亡証明書』へのサインになるなんて」
私は振り返り、凛とした声で命じた。
「陛下にお伝えして。……『準備は完了しています。狩りの時間です』と」
伝令兵が震え上がり、敬礼して飛び出していく。
私は鏡の前に行き、自分の顔を見た。 そこには、もう迷いも、未練も、弱さもない。 愛を知り、守るべきものを得た「鉄の女」の、完全なる戦闘形態があった。
さあ、始めましょう。 私の大切な人を傷つけようとする者たちへ。 情け容赦のない、教育的指導を。
静寂に包まれた部屋で、私のペンが紙を走る音だけが響いている。 カリ、カリ、カリ。
机の上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。 王国から逃げてきた商人たちの受け入れ手続き。 国境付近の村々の避難計画。 そして、迎撃部隊への兵站(へいたん)管理。
やるべきことは無限にあった。 戦争は、始まる前から始まっている。 私の判断一つで、数千人の兵士と民の命が左右されるのだ。
「……ふぅ」
ペンのインクを補充しようとして、手が止まった。 指先が震えている。 視界が少し霞んでいる。
(いけない。集中しなさい、コーデリア)
私はこめかみを強く揉み、自分を叱咤した。 休んでいる暇はない。 私がここで手を抜けば、誰かが死ぬかもしれない。 私が役に立たなくなれば、また「不要だ」と捨てられるかもしれない。
その恐怖が、私の背中を押し続けていた。 王国の公爵家にいた頃からの、呪いのような強迫観念。 『有能であれ。さもなくば、お前に価値はない』 父の言葉と、レイモンドの冷たい視線が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……もっと、早く。もっと正確に」
私は霞む目をこすり、再びペンを握り直した。 その時だった。
「――入るぞ」
ノックもなく、重厚な扉が開かれた。 ジークハルト陛下だ。 寝間着姿ではなく、まだ軍服を着ている。 彼もまた、遅くまで軍議を重ねていたのだろう。
「陛下。……申し訳ありません、お出迎えもせず」
私は慌てて立ち上がろうとしたが、ふらりと体が揺れた。 めまいだ。
「おいっ!」
陛下の強い腕が、倒れかけた私を支えた。 革手袋の冷たさと、その奥にある体温が伝わってくる。
「……馬鹿者」
彼は低い声で叱責した。
「顔色が紙のように白いぞ。いつから休んでいない?」
「い、いえ、大丈夫です。少し目が疲れただけで……まだ、この輸送計画を仕上げなければ……」
「却下だ」
彼は問答無用で私を抱き上げ、執務室の隅にある仮眠用のソファへと運んだ。
「降ろしてください、陛下! 仕事が……!」
「仕事なら、私がやる。貴女はもう限界だ」
彼は私をソファに座らせると、ブランケットを頭から被せた。 そして、私の目の前に仁王立ちになり、溜め息をついた。
「コーデリア。貴女は優秀だが、自分の体調管理に関しては落第点だな。……王国では、いつもこうだったのか?」
「……はい。私がやらなければ、誰もやりませんでしたから」
「あそこは地獄か」
彼は吐き捨てるように言った。 そして、懐から小さな包みを取り出し、私の膝の上に放り投げた。
「……これは?」
「受け取れ。……その、なんだ。……慰問品だ」
彼が視線を逸らす。 銀髪の間から覗く耳が、ほんのりと赤くなっているように見えた。
私は不思議に思いながら、包みを開けた。 中に入っていたのは、黒塗りの木箱。 開けると、そこには二つの品が収められていた。
一つは、万年筆。 漆黒のボディに金の装飾が施された、重厚で美しい一本だ。 もう一つは、乾燥した青い花びらが詰まった小瓶。
「これは……」
「貴女が使っていたペン、だいぶガタがきていただろう」
陛下はそっぽを向いたまま言った。
「ペン先が摩耗して、インクの出が悪くなっていた。それに、貴女の手には軸が少し太すぎて、長時間書くと手首を痛めるようだったからな。……帝国の職人に命じて、貴女の手のサイズに合わせて重心を調整させた特注品だ」
私は息を呑んだ。 確かに、私が王国から持ってきたペンは、亡き母の形見とはいえ古く、書き心地は悪くなっていた。 手首が痛むのも、職業病だと諦めていた。
それを、この人は見ていたのか。 私が一言も不満を漏らしていないのに。 ただ書類を書いている姿を見ただけで、私の小さな苦痛に気づいてくれたのか。
「それと、その瓶は……『蒼月草(そうげつそう)』だ」
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「ああ。煎じて飲むと、眼精疲労と頭痛に劇的に効く。……部下に採りに行かせようとしたが、今の時期は雪崩が多くて危険だと言われてな。仕方がないから、私が先日の視察のついでに採ってきた」
「へ……?」
採ってきた? 皇帝陛下が? あの、断崖絶壁に咲く花を? ついで、と言うにはあまりにも命がけな場所のはずだ。
「陛下……まさか、私のために、雪山に登られたのですか?」
「……勘違いするな。あくまで視察のついでだ。たまたま、崖の途中に咲いているのが見えたから、ちょっと飛んでむしり取ってきただけだ」
彼は腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 だが、その軍服の袖口に、小さな引っかき傷があるのを私は見逃さなかった。 岩場で擦ったのだろうか。
胸が、熱くなった。 喉の奥が詰まるような、甘くて切ない痛み。
高価な宝石でもない。 流行のドレスでもない。 仕事道具のペンと、薬草。
なんて色気のない、実用一辺倒な贈り物だろう。 でも、私にとっては、世界中のどんな財宝よりも価値があった。
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「えっ? お、おい、なぜ泣く!?」
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「いいえ……いいえ!」
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長年、心の奥底に封印していた澱(おり)が、決壊したダムのように溢れ出してくる。
「私は、道具でしたから。壊れたら捨てられる、代わりのある道具。だから、メンテナンスなんて必要ないと思われていました」
「コーデリア……」
「でも、貴方は違う。壊れかけた私を拾って、直してくれて、さらにこうして……大切に扱ってくれる」
私は涙で濡れた顔を上げ、彼を見た。
「どうしてですか? 私はただの契約者でしょう? なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
陛下は静かに私を見下ろした。 その赤い瞳から、動揺の色が消え、深く、揺るぎない光が宿る。
彼はゆっくりと片膝をついた。 私の目線の高さに合わせて。
「契約者だからではない」
彼の大きな手が伸びてきて、私の頬を伝う涙を親指で拭った。 その手つきは、割れ物に触れるように繊細だった。
「惚れた女に尽くすのに、理由が必要か?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「コーデリア。私は貴女の頭脳に惚れたと言った。だが、それは貴女の一部に過ぎない。必死に国を支えようとする責任感も、民を想って心を痛める優しさも、そして……こうして私の前で見せる脆さも、すべて愛おしい」
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「貴女は道具ではない。私の半身だ。貴女が壊れれば、私も壊れる。だから、自分を粗末にするな。それは私を傷つけるのと同じことだ」
「ジークハルト様……」
「これからは、私が貴女の盾になろう。貴女を守るためなら、私は皇帝の座すら賭けてもいい」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも重く、私の魂に響いた。 この人は本気だ。 私のために、世界を敵に回す覚悟がある。
張り詰めていた緊張の糸が、完全に切れた。 私はソファから身を乗り出し、彼の首に腕を回した。
「……っ!?」
驚く彼を、私は強く抱きしめた。 軍服の硬い感触と、石鹸の香り。
「ありがとうございます……。私も、貴方が好きです。皇帝だからではなく、貴方だから」
初めて、言葉にして伝えた。 契約ではない。 計算でもない。 ただの一人の女性としての、純粋な恋心。
ジークハルト様の体が強張ったのは一瞬だった。 すぐに彼の腕が私の背中に回され、骨が軋むほど強く抱きしめ返された。
「……参ったな」
彼の声が、私の耳元で震えていた。
「そんなことを言われては、もう離してやれなくなる」
「離さないでください。……一生」
私たちは、静かな執務室で、互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。 言葉はもう要らなかった。 互いの鼓動のリズムが、同じ速さで刻まれていることだけで十分だった。
しばらくして、彼が体を離し、少し照れくさそうに言った。
「さて……まずはその薬草茶を飲んで、少し眠れ。仕事は私が引き継ぐ」
「でも、陛下も寝ていないのでは?」
「私は平気だ。これでも体力には自信がある。それに……」
彼は机の上の万年筆を手に取り、私に手渡した。
「目が覚めたら、この新しいペンで、私へのラブレターでも書いてくれないか? 最初の試し書きとして」
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瞼が重くなる。 不安は消えていた。 私は一人じゃない。 最強のパートナーが、すぐ傍にいてくれる。
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ぶっきらぼうな筆跡に、私は顔を赤くし、そしてクスクスと笑った。
「本当に……愛おしい人」
私は新しい万年筆にインクを吸わせた。 滑らかな吸入機構。 手に吸い付くようなグリップ感。
私は紙を広げ、彼への「ラブレター」ではなく、新たな作戦計画書を書き始めた。 彼への愛を証明するには、これが一番だからだ。 インクが紙に染みる。 その書き心地は、まるで氷の上を滑るように滑らかで、私の思考を加速させた。
だが、その平穏な時間は長くは続かなかった。
ドンドンドン!
激しいノックと共に、伝令兵が部屋に飛び込んできた。
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私は万年筆を強く握りしめた。
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私は振り返り、凛とした声で命じた。
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伝令兵が震え上がり、敬礼して飛び出していく。
私は鏡の前に行き、自分の顔を見た。 そこには、もう迷いも、未練も、弱さもない。 愛を知り、守るべきものを得た「鉄の女」の、完全なる戦闘形態があった。
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