50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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第五章 影理の司祭

第112話 音なき理の門

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 谷を抜けた先は異様なほど静かだった。
 俺たちは南西の廃域はいいきを歩いていた。目的地は『ゼーレ』。かつて魔法理論が体系化された場所。そして今、ことわりの歪みの中心とされている禁域に足を踏み入れていた。

 この地は——進めば進むほど音が消えていく。
 最初は鳥の声がなくなった。次に風の音が消えた。そして、俺たちの足音すら、まるで地面に吸い取られているかのように薄れていった。

「……ねぇ、これって……なんかおかしくない?」

 ルナがぽつりとつぶやく。

 声も普段より小さく聞こえる。いや、実際に小さいんじゃない。音そのものが空気の中に溶けて消えている。

「火が冷たい……」

 彼女が手のひらに小さな火球を生み出す。けれど、そこには温もりがなかった。色もいつものような赤ではなく、どこか淡く、青白い。

「それ……火として成り立っていないのでは?」

 エルンが慎重に火球を覗き込みながら言う。

「精霊の反応が極端に鈍いわ。まるで風も炎もここでは存在しないものとして扱われてるみたい」

 俺は周囲に目を凝らす。地形は平坦で木々もまばらだが、その一本一本が不自然なまでに静止していた。風が吹いているはずなのに葉は一枚も揺れない。

「この静けさは……異常だ。理式りしき魔術で演出されている」

 カズエルの声は断言だった。

「自然の静けさじゃない。誰かがこの空間の音を封じ、ことわりを止めている。……これは明らかに理式りしき魔術の仕業だ」

「ってことは、ここってもう中なんだよね? 『ゼーレ』の領域……?」

 ルナの声が震えていた。普段なら明るい冗談で場を和ませる彼女も今は笑っていない。

「……落ち着かないわ。風の流れがまったく読めないの。ここまで反応がないと精霊の存在自体が希薄になってる気がして……」

 エルンの声にも珍しく弱音が混じっていた。

「妙な感じです。視界も遮られてないのに、ここでだけ気配が掴めない。……何かが剣の気を逸らそうとしているようです」

 セリスも剣を抜きかけたまま警戒の姿勢を解かなかった。
 俺たちは今、何かの結界に踏み込んでいる。それは攻撃的でも、拒絶的でもない。むしろ——迎える準備ができているような、そんな沈黙だった。

 ***

 ——どれくらい歩いただろう。地平線の向こうに、なだらかな起伏の影が見えた。風化した石柱。崩れた円形の階段跡。古の魔導文明の痕跡。それらがぽつぽつと現れ始める。

「これが……『ゼーレ』の外縁……」

 俺は小さくつぶやいた。声は自分の耳には届いたが、隣のルナには届いていないようだった。

「……なんて広い空間なのかしら」

 エルンが周囲を見渡しながら言った。

 だが、門も、壁も、入り口と呼べるものはどこにもない。ただ、静けさだけが広がっていた。無音の空間。まるでことわりが立ち止まった場所。

 ——けれど、俺にはわかる。ここは閉じているのではなく、待っている。

「この空間……反応してる。結界がある。でも眠ってるだけだ」

 カズエルが地面に手を当てて言った。

「ならどうする? 俺がぶっ壊せばいいか?」

「いや。これは壊すんじゃない。揺らすんだ。ことわりに気づかせる。……ただし、それには動力が要る」

 カズエルがこちらを見た。

「プログラムは俺が組む。……だから、カイン。お前は動力を貸してくれ」

「動力……って、魔力を?」

「そう。お前の『光』はことわりに響く。精霊の力を通して俺の理式りしき魔術を動かしてくれ」

 カズエルの理式りしき魔術が目の前に展開される。魔法陣とは違い、数式の様にも見える理式りしき魔術。俺には複雑すぎて理解できなかったが、確かに何かが動こうとしていた。

 俺は深く息を吸い、魔力を練る。光の精霊に呼びかけ、意志を込めて、そっとカズエルが描いた術式の中心へ手をかざした。

「いくぞ……!」

 魔力が流れ込む。カズエルの術式が輝き、空間に小さなひびが入ったような音が響く。まるで、水面が軋むように——。音もない空間に波紋が広がった。

 結界が静かに開かれていく。

「……何をしたの?」

 ルナが小声で聞く。

「よくわからないが、カズエルの魔術が結界をどうにかしたみたいだ」

 俺は目の前で起きた現象を眺めながら、カズエルの術に感嘆した。

 どうやら俺たちは『ゼーレ』の結界を越えられたみたいだ。そこは異世界にあって、異世界のような沈黙の空間だった。そして、この先にあるのは——止まったことわり

 『ゼーレ』――沈黙を刻む魔法の都。
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