50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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第五章 影理の司祭

第111話 理に囚われし谷

 俺たちは、ようやく『それ』を振り切った。

 魔力の濁った谷の底、突如として発生した魔力生命体。
 霧が凝り固まったような塊で、姿かたちは曖昧だったが、意志のようなものを感じた。何かの精霊のようにも見えるいびつな『それ』は、こちらの動きを模倣しながら迫ってきていた。

 エルンの風魔法は霧に吸収され、ルナの火球は弾かれて爆ぜた。俺が放った水魔法も、途中で歪められて別の方向に逸れてしまった。

 唯一通じたのはセリスの剣だった。魔力に頼らず体技で振るわれた刃がその霧の核を裂いた。……いや、正確には、かろうじて押し返しただけだ。完全に倒したという感覚はなかった。

「はぁ~っ、なにあれ、魔物っていうやつなの!?」

 ルナが岩陰に腰を下ろし、肩で息をしながら文句をぶちまけた。火の精霊とのつながりが今も途切れがちなのか、手のひらに炎を灯そうとしては、ふっと掻き消えている。

「あの魔力生命体……精霊魔法が発動しかけて行き場を失ったものかしら。地脈の魔力が不安定すぎるわ」

 エルンが落ち着いた声で周囲を見渡しながらつぶやく。
 森とは明らかに異質な空気。魔力の密度が異様に濃く、重く、肌にまとわりつく。

「意図的に造られたものじゃないにしても……これが偶然で済むなら、もはやことわりそのものが崩れ始めてるってことだな」

 カズエルが結界の調整用術式を地面に描きながら言った。その顔には焦燥よりも、冷静な警戒心がにじんでいた。

 谷の中ほどへ進むと空がぐにゃりと歪んで見えた。
 雲が流れるように歪曲し、光の軌道すら曲がっているように思える。視界の端では何かが動いたような気配もした。

「ねぇ、今……誰かいたように見えなかった?」

 ルナが立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。

「白い服の人影が、すーって通り過ぎたような……見間違いかなぁ」

「わたしも感じたわ。風の流れがほんの一瞬だけ逆転したの。……普通じゃない」

 エルンが風の精霊を探るように目を細める。だけど、そこには何もなかった。気配も残っていない。ただ、何か過去の残響のようなものが一瞬、空間に揺れとして刻まれただけだった。

ことわり残響ざんきょうかもしれないな」

 カズエルがつぶやく。

「空間が不安定な場所では過去の強い記憶が空間に染み付き、まるで再生されたように現れることがある。……あれはそういう現象かもしれない」

「えっ……なにそれ、なんか怖い……」

 ルナが肩をすくめた。けど、誰も笑わなかった。この谷に満ちているのは魔力じゃない。ことわりの疲労だ。
 術式の乱れ。空間のゆがみ。魔力の逆流。今まで俺たちが頼りにしてきた世界のルールが、ここでは当たり前のように壊れていく。
 そして、ついにそれが目に見えるかたちで現れ始めていた。

 ***

 ――谷の出口は近かった。
 遠くに、かすかに丘のような影が見える。その先には地図にすら記されていない禁域——『ゼーレ』がある。
 セリスが足を止め腰の剣に手をかけた。

「この感じ……また何かいます」

「魔力の濁りは弱まってるけど……魔力が勝手に揺れてる。自然じゃない。これも何かの……残響ざんきょう?」

 カズエルが観測術式を展開する。しかし、その魔法陣はすぐに崩れた。反応が不安定すぎる。

ことわりが波打ってる。まるで……呼吸してるみたいに」

「呼吸……って、そんなこともあるの?」

「普通は、無い。でもこの谷は生きてる術式に近い。魔法の死骸が自己再生してるかのような……」

「それ、また出てくるってことじゃん!」

 ルナの叫びを誰も否定できなかった。けれど、それでも——俺たちは前に進んだ。本当にことわりが壊れかけているなら直さなければならない。この旅はそのためのものだ。
 俺は、俺たちは覚悟を持ってここまで来た。そしてこの先にことわりの中心がある。

 俺たちは静寂に向かって、ひたすら歩き続けていた。
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