111 / 280
第五章 影理の司祭
第111話 理に囚われし谷
しおりを挟む
俺たちは、ようやく『それ』を振り切った。
魔力の濁った谷の底、突如として発生した魔力生命体。
霧が凝り固まったような塊で、姿かたちは曖昧だったが、意志のようなものを感じた。何かの精霊のようにも見えるいびつな『それ』は、こちらの動きを模倣しながら迫ってきていた。
エルンの風魔法は霧に吸収され、ルナの火球は弾かれて爆ぜた。俺が放った水魔法も、途中で歪められて別の方向に逸れてしまった。
唯一通じたのはセリスの剣だった。魔力に頼らず体技で振るわれた刃がその霧の核を裂いた。……いや、正確には、かろうじて押し返しただけだ。完全に倒したという感覚はなかった。
「はぁ~っ、なにあれ、魔物っていうやつなの!?」
ルナが岩陰に腰を下ろし、肩で息をしながら文句をぶちまけた。火の精霊とのつながりが今も途切れがちなのか、手のひらに炎を灯そうとしては、ふっと掻き消えている。
「あの魔力生命体……精霊魔法が発動しかけて行き場を失ったものかしら。地脈の魔力が不安定すぎるわ」
エルンが落ち着いた声で周囲を見渡しながらつぶやく。
森とは明らかに異質な空気。魔力の密度が異様に濃く、重く、肌にまとわりつく。
「意図的に造られたものじゃないにしても……これが偶然で済むなら、もはや理そのものが崩れ始めてるってことだな」
カズエルが結界の調整用術式を地面に描きながら言った。その顔には焦燥よりも、冷静な警戒心がにじんでいた。
谷の中ほどへ進むと空がぐにゃりと歪んで見えた。
雲が流れるように歪曲し、光の軌道すら曲がっているように思える。視界の端では何かが動いたような気配もした。
「ねぇ、今……誰かいたように見えなかった?」
ルナが立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。
「白い服の人影が、すーって通り過ぎたような……見間違いかなぁ」
「わたしも感じたわ。風の流れがほんの一瞬だけ逆転したの。……普通じゃない」
エルンが風の精霊を探るように目を細める。だけど、そこには何もなかった。気配も残っていない。ただ、何か過去の残響のようなものが一瞬、空間に揺れとして刻まれただけだった。
「理の残響かもしれないな」
カズエルがつぶやく。
「空間が不安定な場所では過去の強い記憶が空間に染み付き、まるで再生されたように現れることがある。……あれはそういう現象かもしれない」
「えっ……なにそれ、なんか怖い……」
ルナが肩をすくめた。けど、誰も笑わなかった。この谷に満ちているのは魔力じゃない。理の疲労だ。
術式の乱れ。空間のゆがみ。魔力の逆流。今まで俺たちが頼りにしてきた世界のルールが、ここでは当たり前のように壊れていく。
そして、ついにそれが目に見えるかたちで現れ始めていた。
***
――谷の出口は近かった。
遠くに、かすかに丘のような影が見える。その先には地図にすら記されていない禁域——『ゼーレ』がある。
セリスが足を止め腰の剣に手をかけた。
「この感じ……また何かいます」
「魔力の濁りは弱まってるけど……魔力が勝手に揺れてる。自然じゃない。これも何かの……残響?」
カズエルが観測術式を展開する。しかし、その魔法陣はすぐに崩れた。反応が不安定すぎる。
「理が波打ってる。まるで……呼吸してるみたいに」
「呼吸……って、そんなこともあるの?」
「普通は、無い。でもこの谷は生きてる術式に近い。魔法の死骸が自己再生してるかのような……」
「それ、また出てくるってことじゃん!」
ルナの叫びを誰も否定できなかった。けれど、それでも——俺たちは前に進んだ。本当に理が壊れかけているなら直さなければならない。この旅はそのためのものだ。
俺は、俺たちは覚悟を持ってここまで来た。そしてこの先に理の中心がある。
俺たちは静寂に向かって、ひたすら歩き続けていた。
魔力の濁った谷の底、突如として発生した魔力生命体。
霧が凝り固まったような塊で、姿かたちは曖昧だったが、意志のようなものを感じた。何かの精霊のようにも見えるいびつな『それ』は、こちらの動きを模倣しながら迫ってきていた。
エルンの風魔法は霧に吸収され、ルナの火球は弾かれて爆ぜた。俺が放った水魔法も、途中で歪められて別の方向に逸れてしまった。
唯一通じたのはセリスの剣だった。魔力に頼らず体技で振るわれた刃がその霧の核を裂いた。……いや、正確には、かろうじて押し返しただけだ。完全に倒したという感覚はなかった。
「はぁ~っ、なにあれ、魔物っていうやつなの!?」
ルナが岩陰に腰を下ろし、肩で息をしながら文句をぶちまけた。火の精霊とのつながりが今も途切れがちなのか、手のひらに炎を灯そうとしては、ふっと掻き消えている。
「あの魔力生命体……精霊魔法が発動しかけて行き場を失ったものかしら。地脈の魔力が不安定すぎるわ」
エルンが落ち着いた声で周囲を見渡しながらつぶやく。
森とは明らかに異質な空気。魔力の密度が異様に濃く、重く、肌にまとわりつく。
「意図的に造られたものじゃないにしても……これが偶然で済むなら、もはや理そのものが崩れ始めてるってことだな」
カズエルが結界の調整用術式を地面に描きながら言った。その顔には焦燥よりも、冷静な警戒心がにじんでいた。
谷の中ほどへ進むと空がぐにゃりと歪んで見えた。
雲が流れるように歪曲し、光の軌道すら曲がっているように思える。視界の端では何かが動いたような気配もした。
「ねぇ、今……誰かいたように見えなかった?」
ルナが立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回す。
「白い服の人影が、すーって通り過ぎたような……見間違いかなぁ」
「わたしも感じたわ。風の流れがほんの一瞬だけ逆転したの。……普通じゃない」
エルンが風の精霊を探るように目を細める。だけど、そこには何もなかった。気配も残っていない。ただ、何か過去の残響のようなものが一瞬、空間に揺れとして刻まれただけだった。
「理の残響かもしれないな」
カズエルがつぶやく。
「空間が不安定な場所では過去の強い記憶が空間に染み付き、まるで再生されたように現れることがある。……あれはそういう現象かもしれない」
「えっ……なにそれ、なんか怖い……」
ルナが肩をすくめた。けど、誰も笑わなかった。この谷に満ちているのは魔力じゃない。理の疲労だ。
術式の乱れ。空間のゆがみ。魔力の逆流。今まで俺たちが頼りにしてきた世界のルールが、ここでは当たり前のように壊れていく。
そして、ついにそれが目に見えるかたちで現れ始めていた。
***
――谷の出口は近かった。
遠くに、かすかに丘のような影が見える。その先には地図にすら記されていない禁域——『ゼーレ』がある。
セリスが足を止め腰の剣に手をかけた。
「この感じ……また何かいます」
「魔力の濁りは弱まってるけど……魔力が勝手に揺れてる。自然じゃない。これも何かの……残響?」
カズエルが観測術式を展開する。しかし、その魔法陣はすぐに崩れた。反応が不安定すぎる。
「理が波打ってる。まるで……呼吸してるみたいに」
「呼吸……って、そんなこともあるの?」
「普通は、無い。でもこの谷は生きてる術式に近い。魔法の死骸が自己再生してるかのような……」
「それ、また出てくるってことじゃん!」
ルナの叫びを誰も否定できなかった。けれど、それでも——俺たちは前に進んだ。本当に理が壊れかけているなら直さなければならない。この旅はそのためのものだ。
俺は、俺たちは覚悟を持ってここまで来た。そしてこの先に理の中心がある。
俺たちは静寂に向かって、ひたすら歩き続けていた。
0
あなたにおすすめの小説
三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る
マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息
三歳で婚約破棄され
そのショックで前世の記憶が蘇る
前世でも貧乏だったのなんの問題なし
なによりも魔法の世界
ワクワクが止まらない三歳児の
波瀾万丈
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
侯爵家三男からはじまる異世界チート冒険録 〜元プログラマー、スキルと現代知識で理想の異世界ライフ満喫中!〜【奨励賞】
のびすけ。
ファンタジー
気づけば侯爵家の三男として異世界に転生していた元プログラマー。
そこはどこか懐かしく、けれど想像以上に自由で――ちょっとだけ危険な世界。
幼い頃、命の危機をきっかけに前世の記憶が蘇り、
“とっておき”のチートで人生を再起動。
剣も魔法も、知識も商才も、全てを武器に少年は静かに準備を進めていく。
そして12歳。ついに彼は“新たなステージ”へと歩み出す。
これは、理想を形にするために動き出した少年の、
少し不思議で、ちょっとだけチートな異世界物語――その始まり。
【なろう掲載】
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。
その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
鬼の兵法伝承者、異世界に転世せしむる
書仙凡人
ファンタジー
俺の名は桜木小次郎。
鬼一法眼を祖とする鬼一兵法の令和の伝承者。
だがある時、なぜか突然死してしまったのだ。
その時、自称神様の変なペンギンが現れて、ファンタジー世界の転生を持ちかけられた。
俺はヤケになって転生受け入れたら、とんでもない素性の奴にログインする事になったのである。
ログイン先は滅亡した国の王子で、従者に毒盛られて殺されたばかり。
なにこれ? クーリングオフねぇのかよ!
英雄の孫は今日も最強
まーびん
ファンタジー
前世では社会人だったが、死んで異世界に転生し、貧乏貴族ターセル男爵家の3男となった主人公ロイ。
前世のギスギスした家庭と違い、家族の皆から愛され、ロイはすくすくと3歳まで育った。
中でも、毎日一緒に遊んでくれるじいじは爺馬鹿全開で、ロイもそんなじいじが大好き。
元将軍で「英雄」と呼ばれる最強のじいじの血を引いたロイは、じいじ達に見守られながら、今日も楽しく最強な日々を過ごす。
疲れきった退職前女教師がある日突然、異世界のどうしようもない貴族令嬢に転生。こっちの世界でも子供たちの幸せは第一優先です!
ミミリン
恋愛
小学校教師として長年勤めた独身の皐月(さつき)。
退職間近で突然異世界に転生してしまった。転生先では醜いどうしようもない貴族令嬢リリア・アルバになっていた!
私を陥れようとする兄から逃れ、
不器用な大人たちに助けられ、少しずつ現世とのギャップを埋め合わせる。
逃れた先で出会った訳ありの美青年は何かとからかってくるけど、気がついたら成長して私を支えてくれる大切な男性になっていた。こ、これは恋?
異世界で繰り広げられるそれぞれの奮闘ストーリー。
この世界で新たに自分の人生を切り開けるか!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる