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第九章 光と闇を抱いて
第170話 二人の賢者
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賢者の住居の一室は、今や、闇の儀式の場と化していた。
エルドレアは眠る二人の若者を背に揺らぐことなくひざまずいている。
彼は自らの掌を黒曜石の短剣で深く傷つけ、流れ落ちる命の赤を、床に広がり始めた魔法陣へと捧げた。
「深淵に座し、闇を統べる御霊よ。我が古き魂の呼びかけに応えよ」
彼の詠唱はエルンのそれとは異なっていた。それは懇願ではない。自らの命と魂を等価の代償として差し出す、揺るぎない覚悟を告げる宣言だった。
闇が、応える。
室内の影が意思を持ったかのように蠢めき、蝋燭の炎が音もなく消え、代わりに冷たい燐光が空中に漂い始める。その中心に闇の大精霊ノクスの幻影が、以前よりも確かな輪郭を持ってゆっくりと姿を現した。
『……時を重ねた熟れた魂。若き娘の代わりに自らが贄となることを望むか』
ノクスの声はエルドレアの魂の価値を確かめるように静かに部屋を満たした。
「そうだ」
エルドレアは顔を上げた。その瞳には一点の曇りもなかった。
「この老いさらばえた命と魂で、若き賢者の契約を解くことができるのなら喜んで捧げよう。さあ受け取るがいい。そして、賢者カインを、あの者を縛る契約から解放しろ」
『良かろう。その気高き意志、代償として不足はない』
ノクスの幻影がゆっくりとエルドレアに手を差し伸べる。影でできた指先が彼の額に触れ、その魂を根こそぎ引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。
「――待て」
声がした。
それはエルドレアのものでも、ノクスのものでもない。彼の背後、眠っていたはずのカインの身体から発せられていた。
ノクスの動きが、ぴたりと止まる。エルドレアもまた、信じられないというようにゆっくりと振り返った。
そこにいたのは糸に引かれる人形のように、音もなく、すっと起き上がったカインの姿だった。
その伏せられたまぶたが静かに持ち上がり、現れた瞳はカイン本来の温かみのあるものではなかった。深く、静かで、計り知れないほどの叡智をたたえた蒼い光が宿っていた。
カインの口がゆっくりと開く。だが、そこから発せられた声はカインのものではなかった。より低く、落ち着き払い、永い時を生きた者だけが持つ独特の響きがあった。
「久しいな、エルドレア。随分と覚悟の決まった顔をするようになった」
「……カイラン、様……」
エルドレアは膝をついたまま、呆然とその名を呼んだ。
ノクスは差し伸べた手を静かに下ろした。その空虚だった瞳に初めて興味という名の光が浮かぶ。
『……面白い。器の中に眠っていた本来の魂か。ネフィラの契約はお前をも引きずり出したか』
カイランはノクスを一瞥すると、再びエルドレアへと視線を戻した。
「エルドレア、そなたの覚悟、見事だ。この森を、そしてカインという新たな希望を守らんとするその意志、確かに賢者のもの。だが、その命、そのまま散らすにはあまりに惜しい」
「しかし、カイラン様! このままではカイン殿の魂が……!」
「わかっている。だからこそ、私がここに来た」
カイラン――カインの身体に宿る彼はゆっくりとノクスに向き直った。その蒼い瞳が深淵の闇を真っ直ぐに見据える。
「闇の御霊ノクスよ。その契約、少しばかり見直す必要がある。お前が真に契約すべき相手は、この器に宿る異界の魂ではない」
カイランは自らの胸を指し示した。
「――この私、カイラン・フェルシスだ」
部屋の中、魂を賭すエルドレア。そして、カイランと闇の大精霊。
誰もが予想しえなかった交渉の幕が、今、静かに上がろうとしていた。
エルドレアは眠る二人の若者を背に揺らぐことなくひざまずいている。
彼は自らの掌を黒曜石の短剣で深く傷つけ、流れ落ちる命の赤を、床に広がり始めた魔法陣へと捧げた。
「深淵に座し、闇を統べる御霊よ。我が古き魂の呼びかけに応えよ」
彼の詠唱はエルンのそれとは異なっていた。それは懇願ではない。自らの命と魂を等価の代償として差し出す、揺るぎない覚悟を告げる宣言だった。
闇が、応える。
室内の影が意思を持ったかのように蠢めき、蝋燭の炎が音もなく消え、代わりに冷たい燐光が空中に漂い始める。その中心に闇の大精霊ノクスの幻影が、以前よりも確かな輪郭を持ってゆっくりと姿を現した。
『……時を重ねた熟れた魂。若き娘の代わりに自らが贄となることを望むか』
ノクスの声はエルドレアの魂の価値を確かめるように静かに部屋を満たした。
「そうだ」
エルドレアは顔を上げた。その瞳には一点の曇りもなかった。
「この老いさらばえた命と魂で、若き賢者の契約を解くことができるのなら喜んで捧げよう。さあ受け取るがいい。そして、賢者カインを、あの者を縛る契約から解放しろ」
『良かろう。その気高き意志、代償として不足はない』
ノクスの幻影がゆっくりとエルドレアに手を差し伸べる。影でできた指先が彼の額に触れ、その魂を根こそぎ引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。
「――待て」
声がした。
それはエルドレアのものでも、ノクスのものでもない。彼の背後、眠っていたはずのカインの身体から発せられていた。
ノクスの動きが、ぴたりと止まる。エルドレアもまた、信じられないというようにゆっくりと振り返った。
そこにいたのは糸に引かれる人形のように、音もなく、すっと起き上がったカインの姿だった。
その伏せられたまぶたが静かに持ち上がり、現れた瞳はカイン本来の温かみのあるものではなかった。深く、静かで、計り知れないほどの叡智をたたえた蒼い光が宿っていた。
カインの口がゆっくりと開く。だが、そこから発せられた声はカインのものではなかった。より低く、落ち着き払い、永い時を生きた者だけが持つ独特の響きがあった。
「久しいな、エルドレア。随分と覚悟の決まった顔をするようになった」
「……カイラン、様……」
エルドレアは膝をついたまま、呆然とその名を呼んだ。
ノクスは差し伸べた手を静かに下ろした。その空虚だった瞳に初めて興味という名の光が浮かぶ。
『……面白い。器の中に眠っていた本来の魂か。ネフィラの契約はお前をも引きずり出したか』
カイランはノクスを一瞥すると、再びエルドレアへと視線を戻した。
「エルドレア、そなたの覚悟、見事だ。この森を、そしてカインという新たな希望を守らんとするその意志、確かに賢者のもの。だが、その命、そのまま散らすにはあまりに惜しい」
「しかし、カイラン様! このままではカイン殿の魂が……!」
「わかっている。だからこそ、私がここに来た」
カイラン――カインの身体に宿る彼はゆっくりとノクスに向き直った。その蒼い瞳が深淵の闇を真っ直ぐに見据える。
「闇の御霊ノクスよ。その契約、少しばかり見直す必要がある。お前が真に契約すべき相手は、この器に宿る異界の魂ではない」
カイランは自らの胸を指し示した。
「――この私、カイラン・フェルシスだ」
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誰もが予想しえなかった交渉の幕が、今、静かに上がろうとしていた。
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