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第九章 光と闇を抱いて
第169話 長老の覚悟
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賢者の住居の書斎は夜の静寂に沈んでいた。
エルンは鍵をかけた扉を背に、眠るカインの側で床に膝をついていた。
蝋燭の炎が不気味に揺らめき、彼女の決意に満ちた横顔に深い影を落とす。
彼女は黒曜石の短剣で自らの掌を浅く傷つけ、流れ落ちる血を触媒として、禁断の詠唱を静かに紡ぎ始めた。
「深淵に座し、闇を統べる御霊よ……我が魂の呼びかけに応え、今ここに……」
詠唱が進むにつれて、室内の影が意思を持ったかのように蠢めき始める。空気が重く、冷たく淀み、闇の到来の予兆が肌で感じられた。
闇の大精霊ノクスが彼女の魂の呼びかけに応え、そのおぞましい気配をこの部屋に向け始めている。
契約が成立すればカインは救われる。その代償に自分の魂は永遠に闇に囚われる。それで、いい。
彼女が儀式の最後の言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。鍵をかけていたはずの扉が開錠の魔法によって開かれた。
「――そこまでだ、エルンスト殿」
静かだが、有無を言わさぬ威厳に満ちた声が部屋に響く。
エルンが驚いて振り返ると、そこに立っていたのは長老エルドレアだった。
「エルドレア様……!? なぜ、ここに……」
「そなたの気配があまりに悲痛に満ちておったのでな」
エルドレアはエルンが見つめる前で、ゆっくりと歩みを進める。その目は彼女の覚悟を咎めるのではなく、ただ深く、慈しむように見つめていた。
「カイン殿が絶望に沈んだあの日から、そなたの瞳には自己犠牲の影が宿っていた。わしはそなたに気を配り、闇の精霊の兆候を警戒していたのだ」
「これは私が決めたことです! カインを救うにはこれしか……!」
「若者の犠牲の上に成り立つ未来など、未来とは呼ばん」
エルドレアはエルンの言葉を静かに遮った。
「そなたの想い、そしてカイン殿を救いたいという気高い意志はよくわかる。だが、そなたのような未来ある者が自ら命を絶つことなど、このわしが許すわけにはいかぬ」
「ですが!」
「カイン殿はこの森の停滞を打ち破る新しい風だ。そして、そなたもまた、その風と共に未来を築くべき存在。この森の明日を担うのは我ら老いぼれではない。そなたたち若者なのだ」
エルドレアは持っていた杖を軽く床に突いた。
「わしのような老いぼれが、最後に森の未来のためにこの命を使えるのなら、それ以上の誉れはない。……そなたの役目はここで終わりだ」
「何を……やめてください!」
エルンが立ち上がろうとするが、もう遅かった。
エルドレアの杖の先から、穏やかだが抗いがたい魔力が放たれる。
「眠るがよい、エルンスト殿。そして、目覚めた時には……どうか、カイン殿と共に新しい朝を見てほしい」
「いや……待って……」
抗う間もなく、エルンの意識は柔らかな眠りの底へと静かに沈んでいった。彼女の体が崩れ落ちる寸前、エルドレアはそっとその肩を支え、眠るカインの隣に優しく横たえた。
静寂が戻る。
エルドレアは床に落ちていた黒曜石の短剣を静かに拾い上げた。その年老いた手は震えてはいなかった。
彼はエルンがいた場所にゆっくりと膝をつき、闇が渦巻き始めた部屋の中心を真っ直ぐに見据えた。
「さて……待たせたな、闇の御霊よ」
彼の顔には恐怖も後悔もなかった。ただ、自らの長い人生の最後に果たすべき役目を見つけた者の、静かで、揺るぎない覚悟だけがそこにあった。
「カイン殿……森の未来、そなたに託したぞ」
そう小さくつぶやくと、エルドレアは自らの手のひらに短剣の冷たい刃を当てた。
長老の命を代償とする最後の儀式が、眠る二人の若者の側で静かに始まろうとしていた。
エルンは鍵をかけた扉を背に、眠るカインの側で床に膝をついていた。
蝋燭の炎が不気味に揺らめき、彼女の決意に満ちた横顔に深い影を落とす。
彼女は黒曜石の短剣で自らの掌を浅く傷つけ、流れ落ちる血を触媒として、禁断の詠唱を静かに紡ぎ始めた。
「深淵に座し、闇を統べる御霊よ……我が魂の呼びかけに応え、今ここに……」
詠唱が進むにつれて、室内の影が意思を持ったかのように蠢めき始める。空気が重く、冷たく淀み、闇の到来の予兆が肌で感じられた。
闇の大精霊ノクスが彼女の魂の呼びかけに応え、そのおぞましい気配をこの部屋に向け始めている。
契約が成立すればカインは救われる。その代償に自分の魂は永遠に闇に囚われる。それで、いい。
彼女が儀式の最後の言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。鍵をかけていたはずの扉が開錠の魔法によって開かれた。
「――そこまでだ、エルンスト殿」
静かだが、有無を言わさぬ威厳に満ちた声が部屋に響く。
エルンが驚いて振り返ると、そこに立っていたのは長老エルドレアだった。
「エルドレア様……!? なぜ、ここに……」
「そなたの気配があまりに悲痛に満ちておったのでな」
エルドレアはエルンが見つめる前で、ゆっくりと歩みを進める。その目は彼女の覚悟を咎めるのではなく、ただ深く、慈しむように見つめていた。
「カイン殿が絶望に沈んだあの日から、そなたの瞳には自己犠牲の影が宿っていた。わしはそなたに気を配り、闇の精霊の兆候を警戒していたのだ」
「これは私が決めたことです! カインを救うにはこれしか……!」
「若者の犠牲の上に成り立つ未来など、未来とは呼ばん」
エルドレアはエルンの言葉を静かに遮った。
「そなたの想い、そしてカイン殿を救いたいという気高い意志はよくわかる。だが、そなたのような未来ある者が自ら命を絶つことなど、このわしが許すわけにはいかぬ」
「ですが!」
「カイン殿はこの森の停滞を打ち破る新しい風だ。そして、そなたもまた、その風と共に未来を築くべき存在。この森の明日を担うのは我ら老いぼれではない。そなたたち若者なのだ」
エルドレアは持っていた杖を軽く床に突いた。
「わしのような老いぼれが、最後に森の未来のためにこの命を使えるのなら、それ以上の誉れはない。……そなたの役目はここで終わりだ」
「何を……やめてください!」
エルンが立ち上がろうとするが、もう遅かった。
エルドレアの杖の先から、穏やかだが抗いがたい魔力が放たれる。
「眠るがよい、エルンスト殿。そして、目覚めた時には……どうか、カイン殿と共に新しい朝を見てほしい」
「いや……待って……」
抗う間もなく、エルンの意識は柔らかな眠りの底へと静かに沈んでいった。彼女の体が崩れ落ちる寸前、エルドレアはそっとその肩を支え、眠るカインの隣に優しく横たえた。
静寂が戻る。
エルドレアは床に落ちていた黒曜石の短剣を静かに拾い上げた。その年老いた手は震えてはいなかった。
彼はエルンがいた場所にゆっくりと膝をつき、闇が渦巻き始めた部屋の中心を真っ直ぐに見据えた。
「さて……待たせたな、闇の御霊よ」
彼の顔には恐怖も後悔もなかった。ただ、自らの長い人生の最後に果たすべき役目を見つけた者の、静かで、揺るぎない覚悟だけがそこにあった。
「カイン殿……森の未来、そなたに託したぞ」
そう小さくつぶやくと、エルドレアは自らの手のひらに短剣の冷たい刃を当てた。
長老の命を代償とする最後の儀式が、眠る二人の若者の側で静かに始まろうとしていた。
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