悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

文字の大きさ
49 / 70

50話

しおりを挟む
帝国の春は、風の香りとともに始まる。  
その年、いつにも増して柔らかい風が街を撫でていた。  
ルゥナ=フェリシェが最後に姿を見せたのは、小さな港町の丘の上だった。

白い日傘を肩に掛け、猫を腕に抱え、彼女はゆるやかな坂をのぼっていた。  
背にはどこまでも広がる青い空、前には遠くにかすむ大海。  
その姿に気づいた者は、ただ黙って帽子を取った。  
誰もが、もう彼女を止めようとしなかった。

かつては“家出令嬢”と呼ばれた存在。  
その名は今や、帝国中の人々のあいだで“風の祝福”とささやかれている。

小さな村では彼女が通った道を“聖なる散歩路”と呼び、  
街角の子どもは彼女に貰った飴を「お守り」として肌身離さず持ち歩く。  
宿屋の看板には“彼女が風を避けた屋根”と記され、  
詩人は歌を紡ぎ、職人は香りを模し、学者すら彼女の歩みを論じるようになった。

そんな中、王国から最後通告ともいえる帰還命令が届いた。

“ルゥナ=フェリシェ侯爵令嬢、即刻帰国せよ。  
帝国における身柄の保護は認められぬ”

その文面が彼女のもとに届いたのは、海風が一番よく通る丘の上。  
ルゥナは文を開き、内容に一度目を通すと、淡く微笑んだ。

「……そういえば、わたくし、まだ帰っていなかったのですわね」

そして、返答を求める使者に対して、何のためらいもなくこう答えた。

「結構ですわ」

その言葉は、拒絶ではなかった。  
ただ、穏やかな意思表示だった。  
王国の縛りも、帝国の称賛も、彼女にとっては等しく遠いものでしかなかった。

彼女が望んだのは、ただ“心地よい風の吹く場所”で、  
猫と共にお茶を楽しみ、道ばたの花に微笑む、そんな日々だった。

今ではそれが叶っていた。  
帝国の民は彼女を愛し、風は彼女に微笑み返す。  
どこへ行っても彼女は歓迎され、どこにいても誰かが笑顔になる。

それがどれほど特別なことかを、彼女は自覚していない。  
それでも、確かに彼女は――

“ここ”で生きていた。

「猫さん、今日の風はどちらへ向かうのでしょうね。  
……でも、たまにはここで立ち止まってもよろしい気がいたしますわ」

そう言って彼女は、丘の草の上に腰を下ろした。  
日傘を差し、紅茶の入った小瓶を取り出し、猫に小さく話しかける。

遠くで鐘の音が鳴り、街の人々が手を振っていた。  
誰も彼女を“帰れ”とは言わない。  
誰も彼女を“連れ戻そう”としない。

それはもう、必要なことではなかった。

帝国の空に、やさしい風が吹いた。

それは、ひとりの令嬢が“ここにいる”と決めた、その証だった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】旦那様、わたくし家出します。

さくらもち
恋愛
とある王国のとある上級貴族家の新妻は政略結婚をして早半年。 溜まりに溜まった不満がついに爆破し、家出を決行するお話です。 名前無し設定で書いて完結させましたが、続き希望を沢山頂きましたので名前を付けて文章を少し治してあります。 名前無しの時に読まれた方は良かったら最初から読んで見てください。 登場人物のサイドストーリー集を描きましたのでそちらも良かったら読んでみてください( ˊᵕˋ*) 第二王子が10年後王弟殿下になってからのストーリーも別で公開中

傷物令嬢シャルロットは辺境伯様の人質となってスローライフ

悠木真帆
恋愛
侯爵令嬢シャルロット・ラドフォルンは幼いとき王子を庇って右上半身に大やけどを負う。 残ったやけどの痕はシャルロットに暗い影を落とす。 そんなシャルロットにも他国の貴族との婚約が決まり幸せとなるはずだった。 だがーー 月あかりに照らされた婚約者との初めての夜。 やけどの痕を目にした婚約者は顔色を変えて、そのままベッドの上でシャルロットに婚約破棄を申し渡した。 それ以来、屋敷に閉じこもる生活を送っていたシャルロットに父から敵国の人質となることを命じられる。

拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様

オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。

皇子の婚約者になりたくないので天の声に従いました

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
幼い頃から天の声が聞こえるシラク公爵の娘であるミレーヌ。 この天の声にはいろいろと助けられていた。父親の命を救ってくれたのもこの天の声。 そして、進学に向けて騎士科か魔導科を選択しなければならなくなったとき、助言をしてくれたのも天の声。 ミレーヌはこの天の声に従い、騎士科を選ぶことにした。 なぜなら、魔導科を選ぶと、皇子の婚約者という立派な役割がもれなくついてきてしまうからだ。 ※完結しました。新年早々、クスっとしていただけたら幸いです。軽くお読みください。

助けた青年は私から全てを奪った隣国の王族でした

Karamimi
恋愛
15歳のフローラは、ドミスティナ王国で平和に暮らしていた。そんなフローラは元公爵令嬢。 約9年半前、フェザー公爵に嵌められ国家反逆罪で家族ともども捕まったフローラ。 必死に無実を訴えるフローラの父親だったが、国王はフローラの父親の言葉を一切聞き入れず、両親と兄を処刑。フローラと2歳年上の姉は、国外追放になった。身一つで放り出された幼い姉妹。特に体の弱かった姉は、寒さと飢えに耐えられず命を落とす。 そんな中1人生き残ったフローラは、運よく近くに住む女性の助けを受け、何とか平民として生活していた。 そんなある日、大けがを負った青年を森の中で見つけたフローラ。家に連れて帰りすぐに医者に診せたおかげで、青年は一命を取り留めたのだが… 「どうして俺を助けた!俺はあの場で死にたかったのに!」 そうフローラを怒鳴りつける青年。そんな青年にフローラは 「あなた様がどんな辛い目に合ったのかは分かりません。でも、せっかく助かったこの命、無駄にしてはいけません!」 そう伝え、大けがをしている青年を献身的に看護するのだった。一緒に生活する中で、いつしか2人の間に、恋心が芽生え始めるのだが… 甘く切ない異世界ラブストーリーです。

だってわたくし、悪女ですもの

さくたろう
恋愛
 妹に毒を盛ったとして王子との婚約を破棄された令嬢メイベルは、あっさりとその罪を認め、罰として城を追放、おまけにこれ以上罪を犯さないように叔父の使用人である平民ウィリアムと結婚させられてしまった。  しかしメイベルは少しも落ち込んでいなかった。敵対視してくる妹も、婚約破棄後の傷心に言い寄ってくる男も華麗に躱しながら、のびやかに幸せを掴み取っていく。 小説家になろう様にも投稿しています。

ある公爵令嬢の死に様

鈴木 桜
恋愛
彼女は生まれた時から死ぬことが決まっていた。 まもなく迎える18歳の誕生日、国を守るために神にささげられる生贄となる。 だが、彼女は言った。 「私は、死にたくないの。 ──悪いけど、付き合ってもらうわよ」 かくして始まった、強引で無茶な逃亡劇。 生真面目な騎士と、死にたくない令嬢が、少しずつ心を通わせながら 自分たちの運命と世界の秘密に向き合っていく──。

十年越しの幼馴染は今や冷徹な国王でした

柴田はつみ
恋愛
侯爵令嬢エラナは、父親の命令で突然、10歳年上の国王アレンと結婚することに。 幼馴染みだったものの、年の差と疎遠だった期間のせいですっかり他人行儀な二人の新婚生活は、どこかギクシャクしていました。エラナは国王の冷たい態度に心を閉ざし、離婚を決意します。 そんなある日、国王と聖女マリアが親密に話している姿を頻繁に目撃したエラナは、二人の関係を不審に思い始めます。 護衛騎士レオナルドの協力を得て真相を突き止めることにしますが、逆に国王からはレオナルドとの仲を疑われてしまい、事態は思わぬ方向に進んでいきます。

処理中です...