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50話
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帝国の春は、風の香りとともに始まる。
その年、いつにも増して柔らかい風が街を撫でていた。
ルゥナ=フェリシェが最後に姿を見せたのは、小さな港町の丘の上だった。
白い日傘を肩に掛け、猫を腕に抱え、彼女はゆるやかな坂をのぼっていた。
背にはどこまでも広がる青い空、前には遠くにかすむ大海。
その姿に気づいた者は、ただ黙って帽子を取った。
誰もが、もう彼女を止めようとしなかった。
かつては“家出令嬢”と呼ばれた存在。
その名は今や、帝国中の人々のあいだで“風の祝福”とささやかれている。
小さな村では彼女が通った道を“聖なる散歩路”と呼び、
街角の子どもは彼女に貰った飴を「お守り」として肌身離さず持ち歩く。
宿屋の看板には“彼女が風を避けた屋根”と記され、
詩人は歌を紡ぎ、職人は香りを模し、学者すら彼女の歩みを論じるようになった。
そんな中、王国から最後通告ともいえる帰還命令が届いた。
“ルゥナ=フェリシェ侯爵令嬢、即刻帰国せよ。
帝国における身柄の保護は認められぬ”
その文面が彼女のもとに届いたのは、海風が一番よく通る丘の上。
ルゥナは文を開き、内容に一度目を通すと、淡く微笑んだ。
「……そういえば、わたくし、まだ帰っていなかったのですわね」
そして、返答を求める使者に対して、何のためらいもなくこう答えた。
「結構ですわ」
その言葉は、拒絶ではなかった。
ただ、穏やかな意思表示だった。
王国の縛りも、帝国の称賛も、彼女にとっては等しく遠いものでしかなかった。
彼女が望んだのは、ただ“心地よい風の吹く場所”で、
猫と共にお茶を楽しみ、道ばたの花に微笑む、そんな日々だった。
今ではそれが叶っていた。
帝国の民は彼女を愛し、風は彼女に微笑み返す。
どこへ行っても彼女は歓迎され、どこにいても誰かが笑顔になる。
それがどれほど特別なことかを、彼女は自覚していない。
それでも、確かに彼女は――
“ここ”で生きていた。
「猫さん、今日の風はどちらへ向かうのでしょうね。
……でも、たまにはここで立ち止まってもよろしい気がいたしますわ」
そう言って彼女は、丘の草の上に腰を下ろした。
日傘を差し、紅茶の入った小瓶を取り出し、猫に小さく話しかける。
遠くで鐘の音が鳴り、街の人々が手を振っていた。
誰も彼女を“帰れ”とは言わない。
誰も彼女を“連れ戻そう”としない。
それはもう、必要なことではなかった。
帝国の空に、やさしい風が吹いた。
それは、ひとりの令嬢が“ここにいる”と決めた、その証だった。
その年、いつにも増して柔らかい風が街を撫でていた。
ルゥナ=フェリシェが最後に姿を見せたのは、小さな港町の丘の上だった。
白い日傘を肩に掛け、猫を腕に抱え、彼女はゆるやかな坂をのぼっていた。
背にはどこまでも広がる青い空、前には遠くにかすむ大海。
その姿に気づいた者は、ただ黙って帽子を取った。
誰もが、もう彼女を止めようとしなかった。
かつては“家出令嬢”と呼ばれた存在。
その名は今や、帝国中の人々のあいだで“風の祝福”とささやかれている。
小さな村では彼女が通った道を“聖なる散歩路”と呼び、
街角の子どもは彼女に貰った飴を「お守り」として肌身離さず持ち歩く。
宿屋の看板には“彼女が風を避けた屋根”と記され、
詩人は歌を紡ぎ、職人は香りを模し、学者すら彼女の歩みを論じるようになった。
そんな中、王国から最後通告ともいえる帰還命令が届いた。
“ルゥナ=フェリシェ侯爵令嬢、即刻帰国せよ。
帝国における身柄の保護は認められぬ”
その文面が彼女のもとに届いたのは、海風が一番よく通る丘の上。
ルゥナは文を開き、内容に一度目を通すと、淡く微笑んだ。
「……そういえば、わたくし、まだ帰っていなかったのですわね」
そして、返答を求める使者に対して、何のためらいもなくこう答えた。
「結構ですわ」
その言葉は、拒絶ではなかった。
ただ、穏やかな意思表示だった。
王国の縛りも、帝国の称賛も、彼女にとっては等しく遠いものでしかなかった。
彼女が望んだのは、ただ“心地よい風の吹く場所”で、
猫と共にお茶を楽しみ、道ばたの花に微笑む、そんな日々だった。
今ではそれが叶っていた。
帝国の民は彼女を愛し、風は彼女に微笑み返す。
どこへ行っても彼女は歓迎され、どこにいても誰かが笑顔になる。
それがどれほど特別なことかを、彼女は自覚していない。
それでも、確かに彼女は――
“ここ”で生きていた。
「猫さん、今日の風はどちらへ向かうのでしょうね。
……でも、たまにはここで立ち止まってもよろしい気がいたしますわ」
そう言って彼女は、丘の草の上に腰を下ろした。
日傘を差し、紅茶の入った小瓶を取り出し、猫に小さく話しかける。
遠くで鐘の音が鳴り、街の人々が手を振っていた。
誰も彼女を“帰れ”とは言わない。
誰も彼女を“連れ戻そう”としない。
それはもう、必要なことではなかった。
帝国の空に、やさしい風が吹いた。
それは、ひとりの令嬢が“ここにいる”と決めた、その証だった。
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