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婚約編
56話
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帝都の昼下がり、空は晴れわたり、広場には春の風が軽やかに吹いていた。
市の催しで賑わうその場に、ルゥナ=フェリシェの姿はあった。
彼女は今日も猫を抱き、ゆったりとした歩調で花屋の前を通り過ぎ、焼き菓子の香りに足を止め、何気ない日常の中に溶け込んでいた。
だが、その穏やかさを破ったのは、一陣の風だった。
「……あら」
軽く風が吹き抜けた刹那、ルゥナの帽子がその手をすり抜け、ふわりと宙へ舞い上がる。
白いリボンがほどけ、空中でくるりと一回転した。
そして、彼女は迷いなくその後を追った。
帽子が人混みの向こうに飛ばされるその軌跡を見定め、彼女はふわりと駆けだす。
その様子に広場の人々は驚いた。
日頃から“迷子の祝福”として知られる令嬢が走るなど、見た者すら珍しい。
けれど、足元は花崗岩の滑らかな石畳。
小さな溝にヒールの先が引っかかった瞬間、ルゥナの体が前のめりに傾いた。
「あら、これは……」
転倒を覚悟したその一瞬――
ごく自然な、けれど確かな力で、誰かの手が彼女の手を掴んだ。
「……!」
振り返ると、そこに立っていたのは騎士団長リヒャルト=ヴァイスベルク。
銀灰の騎士服に身を包み、冷静そのものの瞳。
だが、その手は確かに彼女の手を包み込み、支えていた。
帽子よりも、先に。
その仕草は、騎士としての“職務”ではなかった。
彼は、令嬢の転倒を防ぐという任務を超えて、
彼女自身を“守る”ことを選んだのだ。
「……ご無事で」
それだけを言って、彼は彼女の手をそっと離した。
ルゥナは、転ばなかった。
代わりに、ほっと息をつきながら、微笑んだ。
「まあ、転ばずに済みましたわね。お礼を申し上げなければ」
風に舞っていた帽子は、すでに彼のもう片方の手に納まっていた。
整えられたリボン、きれいに払われた布。
その扱いは、帽子ではなく“大切な何か”そのものだった。
広場の人々は息を呑んだ。
それは、明確な意思表示。
言葉を使わずして、“誰よりも先に彼女を支える”という誓いにも似た行為だった。
その場にいた貴族の息子たち、騎士団の青年将校、婚約候補として名乗りを上げていた者たちの顔に、微かな焦りが走った。
“無表情な騎士団長が、令嬢に手を伸ばした”
その意味を、彼らは痛いほど理解していた。
一方、肝心の本人はといえば――
「今日は、風の悪戯が少し過ぎましたのね」
と、猫を抱き直して何事もなかったように歩き出していた。
恋の重さも、視線の熱さも、彼女にはまだ届いていない。
けれど、その日帝都に吹いた風は、誰の目にも確かに――
ひとつの方向へ、変わりはじめていた。
市の催しで賑わうその場に、ルゥナ=フェリシェの姿はあった。
彼女は今日も猫を抱き、ゆったりとした歩調で花屋の前を通り過ぎ、焼き菓子の香りに足を止め、何気ない日常の中に溶け込んでいた。
だが、その穏やかさを破ったのは、一陣の風だった。
「……あら」
軽く風が吹き抜けた刹那、ルゥナの帽子がその手をすり抜け、ふわりと宙へ舞い上がる。
白いリボンがほどけ、空中でくるりと一回転した。
そして、彼女は迷いなくその後を追った。
帽子が人混みの向こうに飛ばされるその軌跡を見定め、彼女はふわりと駆けだす。
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日頃から“迷子の祝福”として知られる令嬢が走るなど、見た者すら珍しい。
けれど、足元は花崗岩の滑らかな石畳。
小さな溝にヒールの先が引っかかった瞬間、ルゥナの体が前のめりに傾いた。
「あら、これは……」
転倒を覚悟したその一瞬――
ごく自然な、けれど確かな力で、誰かの手が彼女の手を掴んだ。
「……!」
振り返ると、そこに立っていたのは騎士団長リヒャルト=ヴァイスベルク。
銀灰の騎士服に身を包み、冷静そのものの瞳。
だが、その手は確かに彼女の手を包み込み、支えていた。
帽子よりも、先に。
その仕草は、騎士としての“職務”ではなかった。
彼は、令嬢の転倒を防ぐという任務を超えて、
彼女自身を“守る”ことを選んだのだ。
「……ご無事で」
それだけを言って、彼は彼女の手をそっと離した。
ルゥナは、転ばなかった。
代わりに、ほっと息をつきながら、微笑んだ。
「まあ、転ばずに済みましたわね。お礼を申し上げなければ」
風に舞っていた帽子は、すでに彼のもう片方の手に納まっていた。
整えられたリボン、きれいに払われた布。
その扱いは、帽子ではなく“大切な何か”そのものだった。
広場の人々は息を呑んだ。
それは、明確な意思表示。
言葉を使わずして、“誰よりも先に彼女を支える”という誓いにも似た行為だった。
その場にいた貴族の息子たち、騎士団の青年将校、婚約候補として名乗りを上げていた者たちの顔に、微かな焦りが走った。
“無表情な騎士団長が、令嬢に手を伸ばした”
その意味を、彼らは痛いほど理解していた。
一方、肝心の本人はといえば――
「今日は、風の悪戯が少し過ぎましたのね」
と、猫を抱き直して何事もなかったように歩き出していた。
恋の重さも、視線の熱さも、彼女にはまだ届いていない。
けれど、その日帝都に吹いた風は、誰の目にも確かに――
ひとつの方向へ、変わりはじめていた。
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