悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

61話

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帝都の朝。  
少し強くなってきた春の光が、ルゥナ=フェリシェの私室をやさしく照らしていた。

彼女は、窓辺の椅子に腰を掛けたまま、胸元から一通の手紙をそっと取り出した。  
その手紙は、昨日リヒャルトから届いたもの。  
短く、けれど不思議な重みをもって、彼女の胸に残り続けている。

――貴女が望むなら、私は風になる。

「……風になってくださる、というのは……つまり、どういう意味なのでしょう?」

何度目かの読み返しのあと、ルゥナは紅茶を口に含み、思案顔を浮かべた。  
だが、いつものように香りや味は明確なのに、このざわめきだけは、はっきりしない。

「風の音ではありませんし、紅茶でもございませんわね……」

手紙を持つ指先に、ほんのりと熱が残っているような気がした。  
胸の奥がふわりと浮かぶようで、けれど落ち着かなくて、  
なぜか猫の毛並みを撫でる手が、少しだけ不器用になる。

「わたくし、どこか悪いのでしょうか……?」

深刻に問いかけられた猫は、ぱちりと瞬きを返しただけだった。

しかし、その姿を目撃していた侍女のひとりが、急ぎ足で外へ駆け出した。  
数刻後には「ルゥナ様が“胸を押さえて困惑しておられる”」「“風”の意味を考えておられる」との情報が帝都に流れ、  
瞬く間に「ついに祝福の姫が恋を知る」なる見出しが広まり始める。

広場では女学生たちが噴水の前に集まり、  
「もしや今、令嬢様が“風の名を呼ぶ瞬間”では?」と息を呑み、  
茶会では貴婦人たちが「この春の社交界は、すべてルゥナ様を中心に回りますわ」と既に準備を進めていた。

その頃、当の本人はまだ――  
ひとり静かに悩み続けていた。

「胸が高鳴るというより……これは、なんと申せばよろしいのかしら。  
胸の奥で風鈴が鳴っているような、そんな……」

紅茶の香りでもない。  
花の匂いでもない。  
猫のぬくもりでもない。  
けれど、確かに“誰か”を思った時にだけ、胸に波立つこの感覚。

それが“恋”だということに、あと少しだけ、彼女は気づかない。

けれど、リヒャルトの名を口に出そうとした瞬間、  
その手紙にそっと指を重ねた時――  
小さく微笑んだその表情が、何よりも雄弁だった。

「……おかしな風ですわね。でも、嫌いではございませんわ」

帝都中がその笑顔に恋しているとは、  
彼女自身がまだ、夢にも思っていなかった。
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