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一章
10.策略
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仕事に追われているうちに、あっという間に陽は傾いていく。
香澄の仕事がようやく落ち着いたのは夕陽が眩しく差し込みはじめた頃で、彼女は一息つくと休憩のため席を立った。
少し体を動かしたかったので、非常階段を下りて1つ下のフロアにあるレストルームに向かう。
トイレの個室に入ってスマホを開くと、香澄はさっそく永瀬宛にメッセージを打った。
『お疲れ様です。さっきはお菓子ありがとうございました。とても美味しかったです。おかげで今日もあと少し頑張れそうです。永瀬さんは今日も帰り遅くなりますか?夜、少しでも電話出来たら嬉しいです』
送信ボタンを押して、香澄が個室から出ようとしたとき――ぞろぞろと複数の足音と、賑やかな笑い声が耳に届いた。
「え~、それマジ?それで契約書隠したってわけ?」
「だってさー、なんかムカつかない?久遠さん。いつも余裕そうな顔してさあ。しかも永瀬さんとも親しげだし、馴れ馴れしいんだよね。意地悪してやりたくなっちゃって」
突然自分の名前が出てきて、トイレのドアノブにかかる香澄の手が止まった。
しかも、決して良い話題とは言えなさそうだ。
香澄は息を呑んで、その場に留まった。
「いや、気に入らないとしても、いくらなんでも契約書隠すのは酷くない?さすがにそれはヤバイわ」
それらの声に、香澄は聞き覚えがあった。営業事務の天沢と望田だ。
この二人は仲がよくて、いつも一緒に行動しているのを香澄は知っている。
そして終業近い時間になると、レストルームのミラー前を陣取って化粧直しをすることも。
どうやら今日はその時間に運悪く重なってしまったらしい。
この時間帯、上のレストルームは混むことが多いので、1フロア下のこちらへやって来たのだろう。
だが香澄の中で一番引っかかったのは、自分の悪口を言われていることよりも、契約書を隠したというその話題の方だった。
「それで、その後どうなったの?」
望田が訪ねると、それがさ~、と天沢は楽しそうな口調で続けた。
「久遠さん、すっごい慌ててた。机にあった資料知りませんかって私に聞いてきてさ。勿論知りませんって答えたよね。あの時の狼狽ぶり、思い出しても笑えるわあ」
天沢の楽しげな声を聞きながら、契約書を紛失したあの日のことが脳裏に蘇る。
永瀬から契約書を手渡された香澄は、自席に戻ったところで後輩から声をかけられた。
誤送信防止のため、社外にメール送信する前には第三者の宛先チェックが必須となっていて、それに呼ばれたのだ。
すぐ戻るだろうと契約書を自席の机上に裏返しにして置き、後輩の席で確認作業を行うこと暫し。戻ったら、契約書が消えていた。離席して戻ってくるまで、わずか数分の出来事である。
その時間帯、近くに座っていたのは天沢一人。
デスク周りを細かく探しても見つからなかったので、何か知っているかもしれないと彼女に資料の行方を尋ねたが、知らないと言い切られてしまった。
資料が独りでに歩くわけもないので誰かが意図的に持ち去ったか、何らかの事情で周辺に落ちたかしか考えられないのだが、断言した天沢に香澄はそれ以上何も聞くことができなかった。
「結局永瀬さんにお願いして再印刷してもらったみたい。永瀬さんに平謝りしててさ、マジでウケた。笑い堪えるの大変だったわ」
「最低~」
きゃははと響く笑い声に、香澄の胸の奥で黒いモヤモヤが広がっていく。
――なんとなく、そんな気はしていた。
だからこんなことでいちいち驚いたり傷ついたりしない。
決して小さくはない会社だ、気が合わない人がいるのも当然なら、そういう人と仕事しなければならないのも仕方のないこと。
だがそんな個人的な感情を仕事に持ち込むのは、絶対違うと思う。
「あ、そうだ。モッチー、今度の歓迎会で確か幹事だったよね?永瀬さんのすぐ近くに座れるように協力してくれない?そろそろ本気出して狙おうかなって」
天沢が甘えるような声で言うと、その意味を汲み取ったらしい望田が「え」と驚いた声をあげた。
「なに、伊藤さんはどうなったわけ?」
「え~それいつの話?とっくに終わったんだけど。体の相性悪くてさ~」
「あんなグイグイ押してたのに。ってか、金子さんのことも興味あるって言ってなかった?」
「あーごめんだけど、そっちもナシだわ。一回寝ただけで彼氏面してきて、めんどくさいったらない。ていうか役職なしのヒラになんか、私本気にならないから。そういうの分かってない時点でマジで結婚相手としてナシ。結婚するなら役職は主任以上必須、ルックスよくて将来有望な人がいいじゃん。その点、永瀬さんはかっこいいし、あの歳で課長だし、超有望株でしょ。ゆくゆくは部長だって夢じゃなさそう。それに永瀬さんが相手なら金子くんも流石に諦めてくれるだろうし」
「体の相性が悪かったらどうすんの?」
「相性悪いかなあ?どうだろ。見た感じ、経験豊富そうじゃない?でももし悪くても永瀬さんなら許せる、ていうか私が色々教えてあげたい」
「…ほんと、その自信が羨ましいわ。でもそんな上手くいくかな?課長かなり勘が鋭いし、明らかハイレベルじゃん。今までみたいに簡単には落とせないんじゃない?」
「男なんてどんなカッコつけたって、最後は結局下半身で考える単細胞だから。甘えたフリして押し倒しちゃえば大体何とかなるよ、経験上ね。だから永瀬さんも一回寝てしまえばこっちのもん。そんで妊娠したとか言えば責任取らざるをえないでしょ」
「でもそれじゃいずれ嘘がバレるんじゃないの?」
「そんなの、後でなんとでもなるじゃん。とりあえず妊娠を理由に入籍、そのあとで流産したってことにすればいいんだし」
「あんた、ほんっと悪女だわ」
やだそんな褒めないでよ~と天沢の甲高い笑い声が響く。
香澄はトイレの個室でじっと唇を噛みしめながら、こみ上げる怒りのやり場を必死で探した。
(最低…)
自分の欲望と打算のために、永瀬を利用しようとするなんて。
それも、女性として到底許せない、卑怯な手をつかって。
自分への嫌がらせならまだいい。耐えられるし、対策のしようだってある。
けれど彼のことを軽率に扱うのは――それだけは、許せない。
だが一つ懸念しているのは、それを永瀬に言ったところで、何の証拠もない自分の話を彼は信じてくれるのだろうか、ということだ。
むしろ告げ口したことを良く思わないかもしれない。それで愛想を尽かされたりしたら…。
でも例えそうなったとしても、永瀬が彼女の罠にかかって落ちてしまう方が嫌だ。それだけは、絶対に阻止しなくては。
やがて香澄は意を決してスマホを開くと、永瀬に追加のメッセージを送った。
――『やっぱり、どうしてもお話したいことがあります。どれだけ遅くなってもいいので、お電話待っています』
香澄の仕事がようやく落ち着いたのは夕陽が眩しく差し込みはじめた頃で、彼女は一息つくと休憩のため席を立った。
少し体を動かしたかったので、非常階段を下りて1つ下のフロアにあるレストルームに向かう。
トイレの個室に入ってスマホを開くと、香澄はさっそく永瀬宛にメッセージを打った。
『お疲れ様です。さっきはお菓子ありがとうございました。とても美味しかったです。おかげで今日もあと少し頑張れそうです。永瀬さんは今日も帰り遅くなりますか?夜、少しでも電話出来たら嬉しいです』
送信ボタンを押して、香澄が個室から出ようとしたとき――ぞろぞろと複数の足音と、賑やかな笑い声が耳に届いた。
「え~、それマジ?それで契約書隠したってわけ?」
「だってさー、なんかムカつかない?久遠さん。いつも余裕そうな顔してさあ。しかも永瀬さんとも親しげだし、馴れ馴れしいんだよね。意地悪してやりたくなっちゃって」
突然自分の名前が出てきて、トイレのドアノブにかかる香澄の手が止まった。
しかも、決して良い話題とは言えなさそうだ。
香澄は息を呑んで、その場に留まった。
「いや、気に入らないとしても、いくらなんでも契約書隠すのは酷くない?さすがにそれはヤバイわ」
それらの声に、香澄は聞き覚えがあった。営業事務の天沢と望田だ。
この二人は仲がよくて、いつも一緒に行動しているのを香澄は知っている。
そして終業近い時間になると、レストルームのミラー前を陣取って化粧直しをすることも。
どうやら今日はその時間に運悪く重なってしまったらしい。
この時間帯、上のレストルームは混むことが多いので、1フロア下のこちらへやって来たのだろう。
だが香澄の中で一番引っかかったのは、自分の悪口を言われていることよりも、契約書を隠したというその話題の方だった。
「それで、その後どうなったの?」
望田が訪ねると、それがさ~、と天沢は楽しそうな口調で続けた。
「久遠さん、すっごい慌ててた。机にあった資料知りませんかって私に聞いてきてさ。勿論知りませんって答えたよね。あの時の狼狽ぶり、思い出しても笑えるわあ」
天沢の楽しげな声を聞きながら、契約書を紛失したあの日のことが脳裏に蘇る。
永瀬から契約書を手渡された香澄は、自席に戻ったところで後輩から声をかけられた。
誤送信防止のため、社外にメール送信する前には第三者の宛先チェックが必須となっていて、それに呼ばれたのだ。
すぐ戻るだろうと契約書を自席の机上に裏返しにして置き、後輩の席で確認作業を行うこと暫し。戻ったら、契約書が消えていた。離席して戻ってくるまで、わずか数分の出来事である。
その時間帯、近くに座っていたのは天沢一人。
デスク周りを細かく探しても見つからなかったので、何か知っているかもしれないと彼女に資料の行方を尋ねたが、知らないと言い切られてしまった。
資料が独りでに歩くわけもないので誰かが意図的に持ち去ったか、何らかの事情で周辺に落ちたかしか考えられないのだが、断言した天沢に香澄はそれ以上何も聞くことができなかった。
「結局永瀬さんにお願いして再印刷してもらったみたい。永瀬さんに平謝りしててさ、マジでウケた。笑い堪えるの大変だったわ」
「最低~」
きゃははと響く笑い声に、香澄の胸の奥で黒いモヤモヤが広がっていく。
――なんとなく、そんな気はしていた。
だからこんなことでいちいち驚いたり傷ついたりしない。
決して小さくはない会社だ、気が合わない人がいるのも当然なら、そういう人と仕事しなければならないのも仕方のないこと。
だがそんな個人的な感情を仕事に持ち込むのは、絶対違うと思う。
「あ、そうだ。モッチー、今度の歓迎会で確か幹事だったよね?永瀬さんのすぐ近くに座れるように協力してくれない?そろそろ本気出して狙おうかなって」
天沢が甘えるような声で言うと、その意味を汲み取ったらしい望田が「え」と驚いた声をあげた。
「なに、伊藤さんはどうなったわけ?」
「え~それいつの話?とっくに終わったんだけど。体の相性悪くてさ~」
「あんなグイグイ押してたのに。ってか、金子さんのことも興味あるって言ってなかった?」
「あーごめんだけど、そっちもナシだわ。一回寝ただけで彼氏面してきて、めんどくさいったらない。ていうか役職なしのヒラになんか、私本気にならないから。そういうの分かってない時点でマジで結婚相手としてナシ。結婚するなら役職は主任以上必須、ルックスよくて将来有望な人がいいじゃん。その点、永瀬さんはかっこいいし、あの歳で課長だし、超有望株でしょ。ゆくゆくは部長だって夢じゃなさそう。それに永瀬さんが相手なら金子くんも流石に諦めてくれるだろうし」
「体の相性が悪かったらどうすんの?」
「相性悪いかなあ?どうだろ。見た感じ、経験豊富そうじゃない?でももし悪くても永瀬さんなら許せる、ていうか私が色々教えてあげたい」
「…ほんと、その自信が羨ましいわ。でもそんな上手くいくかな?課長かなり勘が鋭いし、明らかハイレベルじゃん。今までみたいに簡単には落とせないんじゃない?」
「男なんてどんなカッコつけたって、最後は結局下半身で考える単細胞だから。甘えたフリして押し倒しちゃえば大体何とかなるよ、経験上ね。だから永瀬さんも一回寝てしまえばこっちのもん。そんで妊娠したとか言えば責任取らざるをえないでしょ」
「でもそれじゃいずれ嘘がバレるんじゃないの?」
「そんなの、後でなんとでもなるじゃん。とりあえず妊娠を理由に入籍、そのあとで流産したってことにすればいいんだし」
「あんた、ほんっと悪女だわ」
やだそんな褒めないでよ~と天沢の甲高い笑い声が響く。
香澄はトイレの個室でじっと唇を噛みしめながら、こみ上げる怒りのやり場を必死で探した。
(最低…)
自分の欲望と打算のために、永瀬を利用しようとするなんて。
それも、女性として到底許せない、卑怯な手をつかって。
自分への嫌がらせならまだいい。耐えられるし、対策のしようだってある。
けれど彼のことを軽率に扱うのは――それだけは、許せない。
だが一つ懸念しているのは、それを永瀬に言ったところで、何の証拠もない自分の話を彼は信じてくれるのだろうか、ということだ。
むしろ告げ口したことを良く思わないかもしれない。それで愛想を尽かされたりしたら…。
でも例えそうなったとしても、永瀬が彼女の罠にかかって落ちてしまう方が嫌だ。それだけは、絶対に阻止しなくては。
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