11 / 33
一章
11.飲み会
しおりを挟む
「では皆さんグラスを持って!え~、今日は営業と総務の新人歓迎会兼親睦会です。営業と総務は色んな意味で切っても切れない仲、楽しくやっていきましょう!新人も先輩も部署も関係なく、各々是非親睦を深めてください。特に俺を含めた独身彼女ナシの男子諸君、いくら総務の女性陣が美人揃いだからって調子に乗らず、くれぐれも節度を守って飲むように!では、乾杯!」
冗談めいた幹事の言葉に会場が一斉に沸いて、その直後、グラスのぶつかる音があちこちで響いた。
5月下旬のとある月曜日、営業部と総務部で合同の新人歓迎会が開催された。
もともとは各部署でやる予定だったが、親睦会兼ねて合同開催することになったのだという。
ところが押しの強い営業部の賑やかさに、総務部の社員らは早くも戸惑い気味だ。
そもそも総務部自体、女性率が高く、性格も物静かな人が多いから、こういうのに場慣れしていないところがある。
だからなのか、飲み会が始まってだいぶ時間が経っても、総務の女性陣は誰も席を動こうとしなかった。
親睦会も兼ねているというのに、端のほうに固まってしまっているのはさすがにまずい。
こんな時、いつもなら町谷が皆を上手く誘導してくれる。
しかし残念ながら今日は仕事で遅れて来るため――終業間際に運悪くサービス部のトラブル対応に捕まってしまった――、この中で総務の在籍歴が次に長い自分が上手く対応しなければ…と香澄が思っていたところで、営業メンバー数人がこちらの席へ割り込んできた。
「どうもどうも、お邪魔しますー!」
営業の若手数人の男性達はそう言いながら空いていた席に腰を下ろすと、驚く総務女性陣に輝かんばかりの笑顔で話し始めた。
そして、さすが営業職、持ち前のトークスキルをさっそく発揮して、瞬く間に彼女達の警戒を解いていく。
酒も入っているせいだろうか、ただでさえ饒舌なトークが更に勢いづいて、後輩達の表情も次第に綻び始めた。
「――お疲れ様です!隣いいですか?」
香澄の隣に座ったのは爽やかそうな男性で、歳は香澄と同じくらいの二十代後半だろうか。人懐っこい笑顔で、ビールを片手に香澄を覗き込んだ。
こちらからアクションを起こす必要がなくて助かったと思う一方で、男慣れしていない香澄は思わず身構えてしまう。
しかしこうして親睦を深めるのも仕事のうち、と言い聞かせて、「もちろんです」と精一杯の愛想を浮かべて答えた。
「ありがとうございます。いやあ、それにしても…」
彼は一度周囲を見回してから、少し声を落とした。
「噂には聞いてたけど、ほんと美人揃いですね~。営業の男達は大喜びですよ、総務の皆さんが来てくれて」
軽い調子だが、嫌味のな言い方だった。下心を隠そうともしないのに、どこか憎めないなんて不思議だ。
何よりその笑顔は好印象だったので、香澄の緊張が少しだけ解れた。
「本当ですか?ありがとうございます。私達も、営業の皆さんの近くで仕事できて嬉しいです」
とってつけたような無難な返しだったが、安達は満足そうに頷いた。
「それはよかった。あ、俺、安達っていいます。営業一課の」
その名前には覚えがあったので、香澄はあっと声を上げた。
「安達さん…よくご連絡させていただいてますよね?確か最近だとU社の委任案件で…」
「あ、そうです!嬉しい、知っててくれた」
どこか幼い子供のようにくしゃりと笑うその人は、安達伸吾――確か、営業一課のリーダーだ。
契約の確認で時々メールすることがあるのだが、いつも返事が早く、要点を簡潔に伝えてくれるので、香澄の中では「レスポンスの良い人」として記憶されている。
あの『安達』さんはこの人だったのかと顔が一致したら、なんだか一気に親近感が湧いた。
「私は…」
名乗ろうとしたところで、安達が先に口を開く。
「久遠香澄さんですよね。勿論存じ上げてます。稟議でもお名前見かけますから」
「あ…なるほど」
言われて納得した。
稟議は社内システムで回付されるが、その際に担当者の名前が記録として残るのだ。
現在では稟議の半数近くを香澄が処理しているので、営業担当に知られているのは当然のことだった。
「とはいえ、今日はせっかくのこういう場ですから、堅い話はナシにしましょう」
安達はそう笑いながらビールジョッキを香澄の前に軽く掲げた。
「もしよかったら、仕事以外の話も色々聞いていいですか?あ、嫌だったらすぐ引っ込みますんで正直に言ってくれていいんですけど」
逃げ道を用意してくれたその配慮が、香澄の警戒心をさらに緩めた。
香澄は小さく頷くと、グラスを軽くぶつけて乾杯した。
「もちろんです」
「やった。じゃあ定番から。休みの日とか、何してますか?」
「えーと、基本的には家ですね。のんびりしてることが多いです。あとは買い物したり家事したり…あ、日帰り温泉とか好きです」
関東圏内にある温泉を訪れて一日のんびり過ごすことは、彼女の趣味の一つだった。
永瀬と付き合い始めてからは二人で買い物や映画などに出かけたりすることが多くなったが、以前は月に1~2回の頻度で電車に乗って温泉巡りをしていた。
「温泉!いいですねえ。もう何年行ってないかなあ」
「いいですよ、手軽にリフレッシュできるので」
「宿泊じゃなくて、敢えて日帰りってところが通だよなあ。最近だと岩盤浴とか併設されてるところも多いって」
「そうですね。一か所でご飯も食べられるし、漫画もあるので退屈しないですよ。昔ながらの温泉旅館の日帰りも楽しいですけど。ついでに観光したりして、旅行気分で。いずれにしても、時間を忘れてのんびりするのが好きで」
「分かるなあ。『頭を空っぽにする時間』って最高の贅沢ですもんね」
「そう…!そうなんです」
安達が共感してくれたことが嬉しくて、香澄は大きく頷いた。
「温泉には一人で?友達や家族と?」
「基本、一人です。でもだからこそ、時間を気にせずにいられます」
「例えば露天で一時間ねばってみたり?」
「うーん一時間は…さすがにのぼせるかも」
苦笑すると、安達も楽しそうに目を細めた。
「はは、さすがにそれはないか」
「でも似たようなものです。お風呂とリラクシングコーナーを何度も行ったり来たり。安達さんはそういうの苦手ですか?」
「いや全然好き。でも休日は結構家で寝てることが多いですね。平日動き回ってるからその反動で」
「なるほど。いいと思います、私も昼寝大好きですし。睡眠大事」
「そうそう。昼間寝過ぎて夜眠れなくなることも多々あるけど」
「それは…本末転倒ですね」
「でもやめられないんだよな~。てなわけで、月曜の朝とか俺がやけに眠そうにしてたら察してください。しょぼくれた目でブラックガム噛んでるから多分すぐ分かると思う」
安達はどちらかといえば元気溌剌な印象なので、その様子を想像したらなんだか可笑しかった。
香澄が思わず声をあげて笑うと、その自然な笑顔に安達が目を見張った。
「…久遠さん、やっぱ笑うとめちゃめちゃ可愛いですね。いやいつも可愛いんですけど、倍増っていうか」
「えっ?あ…ありがとうございます。さすが、上手いんですね」
営業得意のお世辞と思って笑い返すと、安達が苦笑した。
「あれ、冗談と思ってます?俺けっこう本気なんですけど」
予想外の返事に彼を見上げると、さっきまでとは少し違う表情があった。
だが彼は香澄の戸惑いにすぐ気付くと、慌てて謝った。
「すみません。可愛いとか、完全にセクハラですね」
「あ、いえ…その、びっくりして」
「ごめんなさい調子にのりました。どうかコンプラ通報だけは勘弁してください」
安達が深々と頭を下げたものだから、香澄は慌てて顔を上げるように促した。
「勿論、まさかそんなことはしませんので――」
気にしないでください、と言いかけてふと視線をずらした先、少し離れた奥の席で飲んでいる永瀬が目に入った。
彼は営業事務の女性を含む課内の部下や営業部内のメンバーに囲まれ、楽しそうに談笑している。こちらの方は気にもしていないようだ。
しかも彼の目の前に座っているのは天沢だった。幹事の望田がうまく采配したのだろう。
永瀬は彼女のお酌にも快く応えていて――複雑な想いが香澄の胸をよぎった。
天沢の件については、あの夜、電話で永瀬に打ち明けた。
といっても、一部の内容については口にするのも憚られたので、全てを話したわけではない。
話したのは天沢が実力行使も辞さない覚悟で永瀬を狙っていること、歓迎会で近づこうとしているようなので注意してほしいと、それだけだ。
永瀬はその話に「分かった」と答えただけだったが、拒まずにお酌を受け入れている様子を見ると、本当に分かっているのか怪しいものだ。
加えて、よく見てみれば、彼を狙っているのは何も天沢だけではないらしい。
天沢に遠慮して積極的に行動を起こしたりはしないが、永瀬の近くに座る何人もの女性が、明らかな憧れや好意を持って永瀬を見つめている。
実際、総務部の中にも永瀬に好印象を持つ後輩は多いし、自分だって少し前まではその一人だった。
他部署である総務部でもそうなのだから、営業部内の女性達は尚更彼を放っておかないだろう。
だからといってあそこに割り込む度胸など、香澄にあるはずもないが…。
「えっと話を戻して。あの、もしよかったらお勧めの温泉とか教えて…って久遠さん?何見て――あ。ひょっとして課長見てました?ほんと、課長ってずるいよな。ルックスも頭もよくて、その上仕事もできるんじゃあ、勝ち目ないよ。やっぱり久遠さんも課長狙いかあ」
香澄の視線の先を追って、安達が残念そうに溜息をついた。
香澄は慌てて安達に視線を戻すと、大きく首を横に振った。
永瀬の立場を考えると、社内恋愛していることがバレると何かとまずい立場のはずだ。
だから、少しでも疑われるような言動は慎まなければならない。
僅かな綻びが露呈のきっかけになりうるのだから。
「いえ、そうではなく…まだご挨拶できてないので、あそこにいらっしゃるんだなと思っただけです。あとで伺わないとって」
「あ、そっち?さすがだなぁ。仕事ぶり見ててもきっちりしてますし、俺も見習わないとな」
なんとか永瀬から話題を逸らすことに成功したようで、香澄は内心ほっと安堵の息を漏らした。
「よくそう見られがちですけど…プライベートでは全然ですよ。適当ですし、忘れっぽいし」
「本当に?全然想像できない。俺の想像では、例えば本棚とかは背表紙が一巻から漏れなくピシッと綺麗に揃えられてる感じ。倒れてるのは絶対許せない!みたいな」
その例えに香澄は思わず笑ってしまった。
そんな風に見られていたのか、自分は。その欠片すらないので却って申し訳なく思ってしまう。
「残念ながらハズレです。順番がバラバラになってることもありますし、平積みされてても全然構いません。ちなみに、巻が飛んでてもあらすじで何となくわかればOKと思って気にせず読み進めるタイプです」
「やべー、まさかの俺と同じタイプだった」
悔しい全然見抜けなかった、と安達が冗談ぽく笑う。
「でも共通点がいろいろあってめちゃめちゃ嬉しい」
言いながら香澄に向けられた眼差し。
どこか期待を含んでいるようで受け止められなくて、香澄は苦笑いで誤魔化しながら手元のグラスに視線を移した。
「安達さんは…お昼寝以外だと、どんなことをされてますか?」
雰囲気を変える為、今度は香澄の方から話題を振ってみた。
まさか休日の度に一日寝ているわけではないだろうし、他にも趣味があるはずだ。
そんな風に、とにかく今は彼の気を逸らしたかった。
「あとは草野球とかかな。毎回行けるわけじゃないから助っ人だけど」
「ということは学生時代は野球を?」
「そう、高校まではね。久遠さんは野球見たりします?」
「しますよ。父が野球好きで。小さい頃は球場に行って応援したりしてました」
そう答えると、「そうなんだ!」と安達の表情がぱっと明るくなった。
「もしかして、今も観戦しに行ったり?」
「いえ、大人になってからは全く。特段、これといって応援しているチームもありませんし…テレビつけたときにやってたら見るくらいですかね」
「なるほど。――つまり、見るのは嫌いじゃないってことですよね」
はい、と答えた香澄に、それなら、と安達が続けた。
「今度、見に来ません?草野球」
「…え?」
「ちょうど来週末、練習試合があるんですよ。もし、都合がよかったらなんだけど」
「応援要員が足りない感じですか?」
「いや、そういうんじゃないんだけど…その、感想とか聞かせてもらえたら嬉しいなって」
安達は視線を少し泳がせ、どこか言いにくそうに言った。
その曖昧な態度が、香澄の胸をざわつかせた。
(――もしかして…?)
さっきから会話のところどころで感じる違和感。
それはあの日、永瀬に告白される前のものに似ている気がした。
そもそも、仕事でもなく、必要に追われているわけでもないのに、大して親しくもない異性の同僚を、そんなプライベートの場に誘うものだろうか。
そこに何か個人的な理由が隠れている気がするのは…ただの考えすぎだろうか。
「…それは…えっと」
言葉に詰まる香澄を見て、安達はほんの少しだけその距離を詰めると、後押しするように彼女を覗き込んだ。
「久遠さんが来てくれたら、俺、めっちゃ頑張れる気がするんですよね。応援って、単純だけど結構効くんで」
冗談めいているのに、その視線は断ることを許さない。
そのプレッシャーに飲み込まれまいと、香澄は必死に断る理由を探した。
自分の勘違いだと思いたい。
けれどもし万が一にも――自分の予感が当たっていたら。
気持ちは嬉しいしありがたいが、その想いに応えることはできない。
「…すみません。来週はもう予定が」
ありきたりな言い訳だが、一番角が立たない。
安達は「…そっか、残念」と素直に引いてくれたものの、その後再び香澄を見つめて――。
「じゃあ、来月は?」
「え?」
「試合がもう一本あるんだけど、まだ日程は決まってなくて」
どうやら断られたからといって諦めるつもりはないらしい。
次の選択肢をすかさず提案する切り替えの早さは、まさに営業だ。
「決まったら、また誘ってもいいですか?」
「え?えーっと…」
今度こそ、香澄は完全に答えに窮した。
イエスと言ったら観戦する意思があるように聞こえてしまうし、ノーと言ったらその理由を聞かれてしまう。
最後の希望でさりげなく視線を周囲に向けてみたが、後輩達は滅多にない男性との会話に華を咲かせている。つまり、自力でこのピンチを切り抜けねばならない。
香澄は色々な言い訳を考えた結果――覚悟を決めて、最適解と思われる言葉を口にした。
「あの…実は私、好きな人がいるので、仕事以外であまりそういうのは…ごめんなさい」
できれば言いたくなかったが、こうなってはやむを得ない。
思い切って好きな人の存在を認めてしまえば、さすがの安達も引き下がってくれるだろう。
永瀬の立場を考えれば、あまり社内恋愛していることを知られるわけにはいかないと思うが、要はその相手が自分だと気付かれなければいいわけで、そこさえ注意すれば何も問題ないはずだ。
「あー…そうか…」
落胆の表情を見せた安達に、仕方がないと分かっていても胸が痛む。
「ごめんなさい、言うタイミング逃して…」
「いえいえ、俺こそなんかすみません。…ちなみに聞くんですけど、その人って俺が知ってる人だったりします?」
「えっ?」
脳裏に一瞬永瀬が思い浮かんでしまって、思わずドキリと心臓が鳴る。
迷ってはいけない、すぐに否定しなければ、と香澄が後悔したその瞬間の僅かな動揺を、安達は見逃さなかった。
「あれ、その反応…もしかして社内の人?」
どこまでも相手の心情を読み取るのが上手い人だ。こちらの揺れを、確実に拾ってくる。
だからこそ、このまま此処にいたら、いずれ本当に相手が永瀬だと知られてしまうかもしれない。
「ま、まさか。違いますよ?」
曖昧に笑って否定したが、おそらく上手く隠しきれていなかったのだろう。
安達は射貫くような視線で香澄をじっと見つめている。
そのまま彼の視線を受け止め続ける自信が持てなくて、香澄は「すみません、私お手洗いに…」とスマホを持つと席を立った。
「あ…ごめん俺――」
安達が引き留めるように何か言いかけたが、聞こえないふりをして足早に部屋を出た。
その直前に永瀬が視界に入ったが、彼と視線が合うことはなかった。
冗談めいた幹事の言葉に会場が一斉に沸いて、その直後、グラスのぶつかる音があちこちで響いた。
5月下旬のとある月曜日、営業部と総務部で合同の新人歓迎会が開催された。
もともとは各部署でやる予定だったが、親睦会兼ねて合同開催することになったのだという。
ところが押しの強い営業部の賑やかさに、総務部の社員らは早くも戸惑い気味だ。
そもそも総務部自体、女性率が高く、性格も物静かな人が多いから、こういうのに場慣れしていないところがある。
だからなのか、飲み会が始まってだいぶ時間が経っても、総務の女性陣は誰も席を動こうとしなかった。
親睦会も兼ねているというのに、端のほうに固まってしまっているのはさすがにまずい。
こんな時、いつもなら町谷が皆を上手く誘導してくれる。
しかし残念ながら今日は仕事で遅れて来るため――終業間際に運悪くサービス部のトラブル対応に捕まってしまった――、この中で総務の在籍歴が次に長い自分が上手く対応しなければ…と香澄が思っていたところで、営業メンバー数人がこちらの席へ割り込んできた。
「どうもどうも、お邪魔しますー!」
営業の若手数人の男性達はそう言いながら空いていた席に腰を下ろすと、驚く総務女性陣に輝かんばかりの笑顔で話し始めた。
そして、さすが営業職、持ち前のトークスキルをさっそく発揮して、瞬く間に彼女達の警戒を解いていく。
酒も入っているせいだろうか、ただでさえ饒舌なトークが更に勢いづいて、後輩達の表情も次第に綻び始めた。
「――お疲れ様です!隣いいですか?」
香澄の隣に座ったのは爽やかそうな男性で、歳は香澄と同じくらいの二十代後半だろうか。人懐っこい笑顔で、ビールを片手に香澄を覗き込んだ。
こちらからアクションを起こす必要がなくて助かったと思う一方で、男慣れしていない香澄は思わず身構えてしまう。
しかしこうして親睦を深めるのも仕事のうち、と言い聞かせて、「もちろんです」と精一杯の愛想を浮かべて答えた。
「ありがとうございます。いやあ、それにしても…」
彼は一度周囲を見回してから、少し声を落とした。
「噂には聞いてたけど、ほんと美人揃いですね~。営業の男達は大喜びですよ、総務の皆さんが来てくれて」
軽い調子だが、嫌味のな言い方だった。下心を隠そうともしないのに、どこか憎めないなんて不思議だ。
何よりその笑顔は好印象だったので、香澄の緊張が少しだけ解れた。
「本当ですか?ありがとうございます。私達も、営業の皆さんの近くで仕事できて嬉しいです」
とってつけたような無難な返しだったが、安達は満足そうに頷いた。
「それはよかった。あ、俺、安達っていいます。営業一課の」
その名前には覚えがあったので、香澄はあっと声を上げた。
「安達さん…よくご連絡させていただいてますよね?確か最近だとU社の委任案件で…」
「あ、そうです!嬉しい、知っててくれた」
どこか幼い子供のようにくしゃりと笑うその人は、安達伸吾――確か、営業一課のリーダーだ。
契約の確認で時々メールすることがあるのだが、いつも返事が早く、要点を簡潔に伝えてくれるので、香澄の中では「レスポンスの良い人」として記憶されている。
あの『安達』さんはこの人だったのかと顔が一致したら、なんだか一気に親近感が湧いた。
「私は…」
名乗ろうとしたところで、安達が先に口を開く。
「久遠香澄さんですよね。勿論存じ上げてます。稟議でもお名前見かけますから」
「あ…なるほど」
言われて納得した。
稟議は社内システムで回付されるが、その際に担当者の名前が記録として残るのだ。
現在では稟議の半数近くを香澄が処理しているので、営業担当に知られているのは当然のことだった。
「とはいえ、今日はせっかくのこういう場ですから、堅い話はナシにしましょう」
安達はそう笑いながらビールジョッキを香澄の前に軽く掲げた。
「もしよかったら、仕事以外の話も色々聞いていいですか?あ、嫌だったらすぐ引っ込みますんで正直に言ってくれていいんですけど」
逃げ道を用意してくれたその配慮が、香澄の警戒心をさらに緩めた。
香澄は小さく頷くと、グラスを軽くぶつけて乾杯した。
「もちろんです」
「やった。じゃあ定番から。休みの日とか、何してますか?」
「えーと、基本的には家ですね。のんびりしてることが多いです。あとは買い物したり家事したり…あ、日帰り温泉とか好きです」
関東圏内にある温泉を訪れて一日のんびり過ごすことは、彼女の趣味の一つだった。
永瀬と付き合い始めてからは二人で買い物や映画などに出かけたりすることが多くなったが、以前は月に1~2回の頻度で電車に乗って温泉巡りをしていた。
「温泉!いいですねえ。もう何年行ってないかなあ」
「いいですよ、手軽にリフレッシュできるので」
「宿泊じゃなくて、敢えて日帰りってところが通だよなあ。最近だと岩盤浴とか併設されてるところも多いって」
「そうですね。一か所でご飯も食べられるし、漫画もあるので退屈しないですよ。昔ながらの温泉旅館の日帰りも楽しいですけど。ついでに観光したりして、旅行気分で。いずれにしても、時間を忘れてのんびりするのが好きで」
「分かるなあ。『頭を空っぽにする時間』って最高の贅沢ですもんね」
「そう…!そうなんです」
安達が共感してくれたことが嬉しくて、香澄は大きく頷いた。
「温泉には一人で?友達や家族と?」
「基本、一人です。でもだからこそ、時間を気にせずにいられます」
「例えば露天で一時間ねばってみたり?」
「うーん一時間は…さすがにのぼせるかも」
苦笑すると、安達も楽しそうに目を細めた。
「はは、さすがにそれはないか」
「でも似たようなものです。お風呂とリラクシングコーナーを何度も行ったり来たり。安達さんはそういうの苦手ですか?」
「いや全然好き。でも休日は結構家で寝てることが多いですね。平日動き回ってるからその反動で」
「なるほど。いいと思います、私も昼寝大好きですし。睡眠大事」
「そうそう。昼間寝過ぎて夜眠れなくなることも多々あるけど」
「それは…本末転倒ですね」
「でもやめられないんだよな~。てなわけで、月曜の朝とか俺がやけに眠そうにしてたら察してください。しょぼくれた目でブラックガム噛んでるから多分すぐ分かると思う」
安達はどちらかといえば元気溌剌な印象なので、その様子を想像したらなんだか可笑しかった。
香澄が思わず声をあげて笑うと、その自然な笑顔に安達が目を見張った。
「…久遠さん、やっぱ笑うとめちゃめちゃ可愛いですね。いやいつも可愛いんですけど、倍増っていうか」
「えっ?あ…ありがとうございます。さすが、上手いんですね」
営業得意のお世辞と思って笑い返すと、安達が苦笑した。
「あれ、冗談と思ってます?俺けっこう本気なんですけど」
予想外の返事に彼を見上げると、さっきまでとは少し違う表情があった。
だが彼は香澄の戸惑いにすぐ気付くと、慌てて謝った。
「すみません。可愛いとか、完全にセクハラですね」
「あ、いえ…その、びっくりして」
「ごめんなさい調子にのりました。どうかコンプラ通報だけは勘弁してください」
安達が深々と頭を下げたものだから、香澄は慌てて顔を上げるように促した。
「勿論、まさかそんなことはしませんので――」
気にしないでください、と言いかけてふと視線をずらした先、少し離れた奥の席で飲んでいる永瀬が目に入った。
彼は営業事務の女性を含む課内の部下や営業部内のメンバーに囲まれ、楽しそうに談笑している。こちらの方は気にもしていないようだ。
しかも彼の目の前に座っているのは天沢だった。幹事の望田がうまく采配したのだろう。
永瀬は彼女のお酌にも快く応えていて――複雑な想いが香澄の胸をよぎった。
天沢の件については、あの夜、電話で永瀬に打ち明けた。
といっても、一部の内容については口にするのも憚られたので、全てを話したわけではない。
話したのは天沢が実力行使も辞さない覚悟で永瀬を狙っていること、歓迎会で近づこうとしているようなので注意してほしいと、それだけだ。
永瀬はその話に「分かった」と答えただけだったが、拒まずにお酌を受け入れている様子を見ると、本当に分かっているのか怪しいものだ。
加えて、よく見てみれば、彼を狙っているのは何も天沢だけではないらしい。
天沢に遠慮して積極的に行動を起こしたりはしないが、永瀬の近くに座る何人もの女性が、明らかな憧れや好意を持って永瀬を見つめている。
実際、総務部の中にも永瀬に好印象を持つ後輩は多いし、自分だって少し前まではその一人だった。
他部署である総務部でもそうなのだから、営業部内の女性達は尚更彼を放っておかないだろう。
だからといってあそこに割り込む度胸など、香澄にあるはずもないが…。
「えっと話を戻して。あの、もしよかったらお勧めの温泉とか教えて…って久遠さん?何見て――あ。ひょっとして課長見てました?ほんと、課長ってずるいよな。ルックスも頭もよくて、その上仕事もできるんじゃあ、勝ち目ないよ。やっぱり久遠さんも課長狙いかあ」
香澄の視線の先を追って、安達が残念そうに溜息をついた。
香澄は慌てて安達に視線を戻すと、大きく首を横に振った。
永瀬の立場を考えると、社内恋愛していることがバレると何かとまずい立場のはずだ。
だから、少しでも疑われるような言動は慎まなければならない。
僅かな綻びが露呈のきっかけになりうるのだから。
「いえ、そうではなく…まだご挨拶できてないので、あそこにいらっしゃるんだなと思っただけです。あとで伺わないとって」
「あ、そっち?さすがだなぁ。仕事ぶり見ててもきっちりしてますし、俺も見習わないとな」
なんとか永瀬から話題を逸らすことに成功したようで、香澄は内心ほっと安堵の息を漏らした。
「よくそう見られがちですけど…プライベートでは全然ですよ。適当ですし、忘れっぽいし」
「本当に?全然想像できない。俺の想像では、例えば本棚とかは背表紙が一巻から漏れなくピシッと綺麗に揃えられてる感じ。倒れてるのは絶対許せない!みたいな」
その例えに香澄は思わず笑ってしまった。
そんな風に見られていたのか、自分は。その欠片すらないので却って申し訳なく思ってしまう。
「残念ながらハズレです。順番がバラバラになってることもありますし、平積みされてても全然構いません。ちなみに、巻が飛んでてもあらすじで何となくわかればOKと思って気にせず読み進めるタイプです」
「やべー、まさかの俺と同じタイプだった」
悔しい全然見抜けなかった、と安達が冗談ぽく笑う。
「でも共通点がいろいろあってめちゃめちゃ嬉しい」
言いながら香澄に向けられた眼差し。
どこか期待を含んでいるようで受け止められなくて、香澄は苦笑いで誤魔化しながら手元のグラスに視線を移した。
「安達さんは…お昼寝以外だと、どんなことをされてますか?」
雰囲気を変える為、今度は香澄の方から話題を振ってみた。
まさか休日の度に一日寝ているわけではないだろうし、他にも趣味があるはずだ。
そんな風に、とにかく今は彼の気を逸らしたかった。
「あとは草野球とかかな。毎回行けるわけじゃないから助っ人だけど」
「ということは学生時代は野球を?」
「そう、高校まではね。久遠さんは野球見たりします?」
「しますよ。父が野球好きで。小さい頃は球場に行って応援したりしてました」
そう答えると、「そうなんだ!」と安達の表情がぱっと明るくなった。
「もしかして、今も観戦しに行ったり?」
「いえ、大人になってからは全く。特段、これといって応援しているチームもありませんし…テレビつけたときにやってたら見るくらいですかね」
「なるほど。――つまり、見るのは嫌いじゃないってことですよね」
はい、と答えた香澄に、それなら、と安達が続けた。
「今度、見に来ません?草野球」
「…え?」
「ちょうど来週末、練習試合があるんですよ。もし、都合がよかったらなんだけど」
「応援要員が足りない感じですか?」
「いや、そういうんじゃないんだけど…その、感想とか聞かせてもらえたら嬉しいなって」
安達は視線を少し泳がせ、どこか言いにくそうに言った。
その曖昧な態度が、香澄の胸をざわつかせた。
(――もしかして…?)
さっきから会話のところどころで感じる違和感。
それはあの日、永瀬に告白される前のものに似ている気がした。
そもそも、仕事でもなく、必要に追われているわけでもないのに、大して親しくもない異性の同僚を、そんなプライベートの場に誘うものだろうか。
そこに何か個人的な理由が隠れている気がするのは…ただの考えすぎだろうか。
「…それは…えっと」
言葉に詰まる香澄を見て、安達はほんの少しだけその距離を詰めると、後押しするように彼女を覗き込んだ。
「久遠さんが来てくれたら、俺、めっちゃ頑張れる気がするんですよね。応援って、単純だけど結構効くんで」
冗談めいているのに、その視線は断ることを許さない。
そのプレッシャーに飲み込まれまいと、香澄は必死に断る理由を探した。
自分の勘違いだと思いたい。
けれどもし万が一にも――自分の予感が当たっていたら。
気持ちは嬉しいしありがたいが、その想いに応えることはできない。
「…すみません。来週はもう予定が」
ありきたりな言い訳だが、一番角が立たない。
安達は「…そっか、残念」と素直に引いてくれたものの、その後再び香澄を見つめて――。
「じゃあ、来月は?」
「え?」
「試合がもう一本あるんだけど、まだ日程は決まってなくて」
どうやら断られたからといって諦めるつもりはないらしい。
次の選択肢をすかさず提案する切り替えの早さは、まさに営業だ。
「決まったら、また誘ってもいいですか?」
「え?えーっと…」
今度こそ、香澄は完全に答えに窮した。
イエスと言ったら観戦する意思があるように聞こえてしまうし、ノーと言ったらその理由を聞かれてしまう。
最後の希望でさりげなく視線を周囲に向けてみたが、後輩達は滅多にない男性との会話に華を咲かせている。つまり、自力でこのピンチを切り抜けねばならない。
香澄は色々な言い訳を考えた結果――覚悟を決めて、最適解と思われる言葉を口にした。
「あの…実は私、好きな人がいるので、仕事以外であまりそういうのは…ごめんなさい」
できれば言いたくなかったが、こうなってはやむを得ない。
思い切って好きな人の存在を認めてしまえば、さすがの安達も引き下がってくれるだろう。
永瀬の立場を考えれば、あまり社内恋愛していることを知られるわけにはいかないと思うが、要はその相手が自分だと気付かれなければいいわけで、そこさえ注意すれば何も問題ないはずだ。
「あー…そうか…」
落胆の表情を見せた安達に、仕方がないと分かっていても胸が痛む。
「ごめんなさい、言うタイミング逃して…」
「いえいえ、俺こそなんかすみません。…ちなみに聞くんですけど、その人って俺が知ってる人だったりします?」
「えっ?」
脳裏に一瞬永瀬が思い浮かんでしまって、思わずドキリと心臓が鳴る。
迷ってはいけない、すぐに否定しなければ、と香澄が後悔したその瞬間の僅かな動揺を、安達は見逃さなかった。
「あれ、その反応…もしかして社内の人?」
どこまでも相手の心情を読み取るのが上手い人だ。こちらの揺れを、確実に拾ってくる。
だからこそ、このまま此処にいたら、いずれ本当に相手が永瀬だと知られてしまうかもしれない。
「ま、まさか。違いますよ?」
曖昧に笑って否定したが、おそらく上手く隠しきれていなかったのだろう。
安達は射貫くような視線で香澄をじっと見つめている。
そのまま彼の視線を受け止め続ける自信が持てなくて、香澄は「すみません、私お手洗いに…」とスマホを持つと席を立った。
「あ…ごめん俺――」
安達が引き留めるように何か言いかけたが、聞こえないふりをして足早に部屋を出た。
その直前に永瀬が視界に入ったが、彼と視線が合うことはなかった。
0
あなたにおすすめの小説
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
上司が猫を脱いだなら。
yuzu
恋愛
「推しの上司がメロすぎて困る。」が口癖の主人公、多部由香子26歳。
大手食品会社社長 御園正太郎の長男である事を隠して企画営業部の係長を務める 黒木連 29歳。
由香子は連を「リアル王子様」「純粋でかわいいわんこ系」だとおもいこんでいた。けれど、ふたりきりになった瞬間、メロいはずの蓮はオレ様キャラに豹変して……ちょっと過激なラブコメディ。
※読んでくださる読者の皆様に感謝申し上げます。感想、ハート、応援。とても励みになっています(*´꒳`*)毎日更新予定です。よろしくお願いいたします✳︎
ホストと女医は診察室で
星野しずく
恋愛
町田慶子は開業したばかりのクリニックで忙しい毎日を送っていた。ある日クリニックに招かれざる客、歌舞伎町のホスト、聖夜が後輩の真也に連れられてやってきた。聖夜の強引な誘いを断れず、慶子は初めてホストクラブを訪れる。しかし、その日の夜、慶子が目覚めたのは…、なぜか聖夜と二人きりのホテルの一室だった…。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
生贄巫女はあやかし旦那様を溺愛します
桜桃-サクランボ-
恋愛
人身御供(ひとみごくう)は、人間を神への生贄とすること。
天魔神社の跡取り巫女の私、天魔華鈴(てんまかりん)は、今年の人身御供の生贄に選ばれた。
昔から続く儀式を、どうせ、いない神に対して行う。
私で最後、そうなるだろう。
親戚達も信じていない、神のために、私は命をささげる。
人身御供と言う口実で、厄介払いをされる。そのために。
親に捨てられ、親戚に捨てられて。
もう、誰も私を求めてはいない。
そう思っていたのに――……
『ぬし、一つ、我の願いを叶えてはくれぬか?』
『え、九尾の狐の、願い?』
『そうだ。ぬし、我の嫁となれ』
もう、全てを諦めた私目の前に現れたのは、顔を黒く、四角い布で顔を隠した、一人の九尾の狐でした。
※カクヨム・なろうでも公開中!
※表紙、挿絵:あニキさん
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる