憧れの彼は一途で優しくて時々イジワル

RIKA

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一章

9.秘密のチョコレート

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月末が近づくにつれて、香澄の仕事は慌ただしくなる。
今月分の提出締めを控えて、稟議や契約書の精査量が増加するからだ。
契約更新月ほどではないものの、今月も例に漏れず、香澄は朝からせわしなくバタバタしていた。
それは提出元である営業も同じようで、同じフロアの少し離れたところから永瀬の厳しい声が聞こえてくる。

「この派遣の契約書、超過控除の適用条件が間違ってる。この契約書でお前は請求額を計算できるのか?もう一度ロジック見直せ」

はい、すみません、と気落ちした言葉を残して部下が自席へ戻っていく。
香澄にはいつも柔らかい口調で話してくれる印象の永瀬だが、さすがに直属の部下相手では違うらしい。

多忙であっても、彼は部下が持つ案件の内容や進捗を把握していた。
問題があればその都度指導しているため、総務からの差戻件数や回収遅延等のトラブル件数は、彼が課長になって以来激減している。

後進育成にも熱心らしく、新人は最初にあらゆる顧客ターゲット、あらゆる要求ニーズを想定した営業研修で言葉遣いから営業手法まで徹底的に叩き込まれる。
それは及第点に到達するまで繰り返され、永瀬自らの最終検査で合格をもらってようやく営業活動が許されるのだという。
そのことが功を奏しているのか、会社の売上額はここのところ順調に伸びているらしい。そのため課長になってまだ一年あまりであるにも関わらず、管理職として経営層から早くも一目置かれていると社内でも評判だった。

そして今、ようやく一つの指導が終わったと思ったら、また別の部下が呼ばれたようだ。

「さっきの提案書、ちゃんと予算確認したんだろうな?あそこの担当者はコストにシビアだから、金額ではねられんぞ。先方に渡す前にもう一度確認しとけ」

承知しました、と部下の言葉を聞き届けると、永瀬は立ち上がって席を離れた。
あろうことかその足音がこちらに向かってきたものだから、香澄の鼓動が思わずドクンと跳ね上がった。
なんとか平然を装ってキーボードを叩き続ける香澄のすぐ後ろで、その足音が止まる。
香澄の緊張がピークに達した時、永瀬は香澄の真後ろに座っている天沢に声をかけた。

「天沢、この納品書日付が間違ってた。明日には顧客に送付しないとだから修正して今日中に再提出」
「…申し訳ありません。承知しました」
「あとこっちの見積書なんだけど――」

話しかけた相手が自分ではなかったことに対して、香澄の中で安堵と残念が複雑に入り混じる。
だが安堵の方が大きいのは否めない。
一体どんな顔をして彼の顔を見ればいいのか、会話したときに不自然な態度になってしまわないか、実を言うと心配しているからだ。

付き合い始めてまだ半月ほど、プライベートでは毎日連絡を取り合い、時間が合えば仕事帰りに食事したりするものの、実を言うと職場ではまだ一度も会話していない。
同じフロアとはいえ部署が違うので当然なのだが、繁忙期になると契約関連のことで関わる機会が多くなる。
これまでも、永瀬がこの時期に総務を訪れることはよくあった。
町谷がいれば基本的には彼女と会話することが多いのだが、生憎、今は会議で離席中だ。
こんな時何か聞かれるとしたら間違いなく香澄なので、永瀬の足音が近づいてきた時、もしかしてと一瞬緊張してしまったのだった。

(私、意識しすぎ…)

香澄は一人、静かに憂鬱なため息を吐いた。
偶然出くわした元カレを永瀬が撃退してくれたあの時から、香澄の中で永瀬に対する想いは確実に変わってしまった。
それまではどちらかと言えば半信半疑、戸惑いが大きかったのに、今はもうその欠片すら残っていない。
とにかく何をしていても、ふとした瞬間に永瀬のことを思い出し、彼からの連絡を待っている。
スマホが震える度に飛びついて、電話が来たら舞い上がって。
会社でだって、気付けば視線の先に永瀬を探してしまうし、廊下を歩いている時、ドアを開ける時、エレベーターに乗る時…いつどこにいても、彼との遭遇を密かに期待する自分がいる。
会えたら嬉しくて、でもぎこちない挨拶しかできなくて。
それなのに会えなかったら勝手にがっかりして――もう完全に溺れている。
恋愛などもう二度としないとあれほど固く誓っていたのに、こうもあっさり変わってしまうとは。
今だって、振り返らずとも足音だけで彼だということを香澄は確信していた。
そんな自分を、自分でもかなりヤバいと思う。

(もう、仕事中なのに雑念に捕らわれすぎ。ちゃんと集中しないと定時までに終わらない)

香澄は目を瞑り、脳内で自分を強く叱咤した。
今香澄が見ているのは再来月から業務開始予定の契約書で、複合案件のため確認しなければならない添付資料が多い。
内容も複雑なので、油断すると大事なところを見落としかねない。気を引き締めねば。
すぐ背後にある永瀬の気配から何とか意識を切り替え、香澄はひとつずつ資料を精査していく。
期間6ヶ月の請負案件、期限付きのライセンス使用あり、最終月に一括検収…ということは仕掛案件だから、仕入側の処理が正しいかも併せて確認しないと…。
そう注意深く考えながら進めていると、突然背後から声をかけられた。

「――久遠さん、ちょっといいかな」

その瞬間、香澄は反射的にびくっと肩を震わせた。
てっきり天沢にだけ用があると思っていたので、不意を突かれて驚いたのだ。
声をかけた永瀬は、驚いて振り返った香澄に苦笑した。

「邪魔して悪い、集中してるところ」
「あ、いえ…!すみません、大変失礼しました」

僅かに声が震えたのが自分でも分かった。
思った以上に自分でも緊張してしまって、無意識に視線を逸らしてしまう。
直後に永瀬を嫌な気持ちにさせてしまったかもしれないと不安になったが、彼は構うことなく1通の契約書を香澄に差し出した。

「ちょっと聞きたい。子会社への業務移管で来月から取引先が変更になる派遣契約がある。子で契約書を締結しなおすんだけど、これまで親で適用していた覚書の旅費請求規程を子の方でもそのまま適用したい。この場合、特例は必要?」

特例とは特別稟議の通称で、通常フローから外れる場合に申請されるものだ。
理由によっては特例がなければ処理を進められないものもあるので、その要否を確認したいらしい。
差し出された契約書を受け取って素早く確認しながら、香澄は判断するための確認事項をいくつか口にした。

「旅費の請求先はどちらに?」
「子の方」
「子会社について取引審査は終わっていますか?」
「終わってる。取引可」
「受注稟議の変更申請は」
「そっちも最終承認まで終わってる」
「その覚書自体に変更はないということでよろしいでしょうか」
「うん、親の規程をそのまま適用する」
「であれば、新契約書の備考欄に親会社名と覚書の管理番号、但し回収先は子会社になる旨記載いただければ結構です。念のため、請求にあたっては経理に申し送りしておいた方が確実かと思います」
「了解、ありがとう」

迷いない回答に永瀬は満足気に頷き、契約書を取り戻すと同時に何か小さなものを彼女の掌に落とした。
ふと見ると、それは個包装されたチョコレート菓子だった。
驚いて永瀬に視線を戻すと、彼はほんの一瞬だけ意味深に笑った。
その笑顔は明らかに仕事中のそれとは違っていて、香澄はそこにプライベートの意味があることに気付く。
永瀬は何も言わないまますぐに視線を逸らすと、足早に自席へと戻っていった。

もらったお菓子を抽斗ひきだしの中にしまいながら、香澄は数日前の電話を思い出していた。

――『忙しいと、甘い物が食べたくなるんですよね』

もうすぐ繁忙期が始まるという話題になった際に、香澄が言った言葉だ。
おそらく彼はそれを覚えていて、朝からバタバタしている香澄にタイミングを図って渡してくれたのだろう。

一見、付き合う前と何一つ変わらないように見えるけれど、確実に変わっている。意識しているのは、何も自分ばかりじゃない。
さりげない言動がやけにくすぐったくなって、仕事中だというのに思わず顔が緩みそうになった。
香澄は慌てて表情を引き締めると、自分を戒めるように息を吐いて、再び仕事に集中した。
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