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第2部 - 第3章 勤労令嬢と王子様
第24話 月を動かした英雄
しおりを挟む「午後8時ちょうど、天空に魔法陣が完成します」
結論を口にしたのは、天文博士だった。
王立図書館には、首都中の学者たちが集まっている。アレンが方方に連絡をとって集めてくれたのだ。王立魔法学院からも教授たちが来ている。ジリアンは彼らと共に文献を紐解いていた。
そして、ようやく何が起ころうとしているのかが分かった。だがそれは、あまりにも絶望的な事実だった。
「あと、1時間もない……」
誰かがつぶやいた。
「住民の避難と『魔石炭』の回収は?」
アレンの問いには、騎士の一人が首を横に振った。
「とても、間に合いません」
ジリアンは、目の前の文献を睨むように見た。『黒い魔法石』を使った儀式には、呪文以外に魔法陣を用いる方法があると記されている。そして、その魔法陣は数十年に一度来る星の巡りによって天空に描かれる。それによって広範囲を対象とした儀式を行うことができる、と。
(本来であれば、あの場所と地上を繋いで魔力を引き込むための儀式……)
「そもそも、広範囲を対象にした大魔法を実現するための儀式です。魔法を発動する準備ができていなければ、石から溢れた魔力は行き場を失って暴走します」
テオバルトが渋い顔で文献を指差した。
人の手では実現し得ない規模の魔法を可能にするための儀式だ。しかし、その膨大な魔力を消費するだけの魔法が行われなければ、魔力が暴走する。そして、爆発に似た現象が起こるのだ。
「今からその魔力を消費できるだけの大魔法を準備することは?」
「間に合いません。範囲が広すぎます。そもそも、人がその魔力を扱うことは不可能です」
全員が何か方法をと考え、口に出してみる。しかし、即座に誰かが不可能だと言う。それを繰り返している内に、時間だけが過ぎていった。
(星の、巡り……)
ジリアンは不思議な文字で書かれたその言葉を、人差し指でなぞった。
その瞬間のことだった。
──ふわり。
あの香りが、ジリアンの鼻をかすめた。神秘の扉の向こうから漂ってきた、甘い花の香りだ。
同時に、ジリアンの頭の中に不可能を可能にするための考えが浮かんできた。
(……ありがとう)
心の中で呟いて、ジリアンは顔を上げた。顔を青くしながら、それでも首都を救うために必死で考えを巡らせる人達がいた。
街では、騎士や官僚たちが『魔石炭《コール》』の回収と住民の避難に駆けずり回っているはずだ。……人を救うために。
(あとのことは、私たち生きている者が……!)
応えるように花の香りが濃くなって、そして消えていった。
「……博士」
ジリアンが呼びかけると、天文博士が顔を上げた。
「魔法陣を描く星の一つが欠ければどうなりますか?」
「星が欠ける? そうなれば、もちろん魔法陣は完成しません」
「……魔法陣を構成する星の中で、最も近い星はどれですか?」
「近い星、ですか? それならば、もちろん月です。魔法陣の中心となる要の星ですな」
「わかりました」
今度は、テオバルトに向き直った。
「それ、貸してもらえる?」
ジリアンが指差したのは、テオバルトの胸元だ。そこには、彼が魔除けとして持っている『黒い魔法石』がある。
「ジリアン、それは……」
「必要なの。お願い」
私たちの話を、周囲の人達が固唾を飲んで見守っている。
「何の話をしているんだ?」
割り込んだのは、やはりアレンだった。
「彼が持っている『黒い魔法石』を使うのよ」
「っ……!」
アレンが言葉を失う。
人が『黒い魔法石』を使えば、その人が本来持っている以上の魔力を扱うことができる。かつてモニカ嬢が、そうやって実力を水増しして王立魔法学院に入学していた。
だが、それを止めるようにアレンがジリアンの肩を握った。
「ダメだ」
その端正な顔に悲痛な表情を浮かべて、ジリアンの肩を握る手に力がこもる。
「モニカ嬢がどんな死に方をしたのか、忘れたのか?」
彼女の死に様については、侯爵から聞かされただけだった。遺体に対面することは許されなかった。それほど、悲惨な姿で死んでいたということだ。
「私は大丈夫なのよ、アレン」
ジリアンは、その手を撫でた。できるだけ、安心させるように。
「私、どうやら魔族の血を引いているらしいの」
アレンだけに聞こえる声で言えば、またしても彼は言葉を失って驚いた。
「大丈夫だから」
「大丈夫ではありません」
今度はテオバルトが二人の話に割り込んできた。アレンと同じようにジリアンの肩を握るので、ジリアンは二人の友人に両方の肩を掴まれるという妙な格好になってしまった。
「この石は諸刃の剣です。これを多用すれば、人も魔族も、その存在を曖昧にしてしまう。……魔力と溶け合ってしまう時が、いずれ来ます」
(魔力と、溶け合う……)
その感覚なら、ジリアンはすでに体験している。
あの場所へ至った時、ジリアンという存在は正に魔力と溶け合って曖昧になっていた。生きたままあの場所へ至ることは、人である自分を捨てるということだ。
(モニカ嬢も、あそこにいるのかしら……)
彼女の死に思いを馳せたのは一瞬のことだった。相変わらず固い声でテオバルトが言葉を続けている。
「人と魔族の違いは、その時が来るのが早いか遅いかの違いでしかありません」
「だから、あなたの一族はその石を使うことを禁じているのね?」
ジリアンが確認するように言えば、テオバルトが頷いた。
「お気づきでしたか」
「ええ。どう考えても、便利な石だもの。その石の鉱山を持っている一族のあなたが石を使わないことには、意味があるはずだと思っていたわ」
ジリアンは、チラリと時計を見た。こんな話をしている内に、刻限が迫ってきている。
「とにかく、時間がないの。貸してくれるわよね、テオバルト」
再び手を差し出したジリアンに、テオバルトが息を吐いた。そして顔を上げる。
「……半分は、私が引き受けます」
彼の顔にも覚悟が見えた。
けれど、それに頷くわけにはいかない。彼は外国の要人なのだ。
「何を言っているの。あなたは首都の外に逃げて」
「それこそ論外です。これは、我が国の問題でもある」
テオバルトがさらに声を低めた。
「誰が何を言おうと、この事件は魔族の仕業です。すぐさま開戦とはならなくとも、結果は同じでしょう。これを防げなければ、そもそも私がこの国へ来た意味がない」
その言葉に、ジリアンはようやく頷いた。
「そうね。二人でやりましょう」
応えるようにテオバルトが握っていた肩を優しく叩く。
「それで? 『黒い魔法石』で魔力を底上げしてまで、何をするんだ?」
反対の肩を握るアレンが、思わずその肩を引いた。
あっちへこっちへ身体を揺することになってジリアンは目を白黒させたが、そのお陰で緊張も和らいできた。
握っていた手を開けば、汗が滲んでいる。
「……月を動かすのよ」
ジリアンの言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。
* * *
王宮で最も高い棟の屋上に来た。空を見上げれば、静かに光る月が見える。
ジリアンの手には、鋼鉄製の弓と矢。テオバルトが『金属労働者と職人の精霊』の魔法で生み出したものだ。そこにジリアンが魔力をこめた。
月を射るために。
「ジリアン」
額に滲む汗を拭くジリアンに声をかけたのはアレンだ。
「手伝う」
アレンはジリアンの後ろに立った。汗の滲む手で弓を握るジリアンの左手に、アレンが同じように手を添える。
右手で矢をつがえた。その矢筈には、光る鋼線が繋がっている。弓矢と同じくテオバルトが生み出した鋼線に、ジリアンが魔力を込めたものだ。『黒い魔法石』で増幅した魔力を使って。
「大丈夫なのか?」
「正直、大丈夫じゃないけど」
既に自らの魔力は限界まで使い切った。『黒い魔法石』を使って魔力を引き出しているが、身体への影響が大きい。ジリアンは、立っているのもやっとという有様だ。
「それでも、やらなきゃ」
多くの人と、この街が犠牲になってしまう。
「そうだな」
アレンは一つ頷いてから、ジリアンの黒髪に頬を寄せた。一瞬のことだったが、僅かに触れた温もりにジリアンの肩から余分な力が抜ける。
「引くぞ」
「うん」
アレンに支えられて、二人で弓を引く。
鏃の向かう先は、天宙に輝く満月。
──ギリギリ。
ジリアンが魔力を込めると、二人の腕に力がみなぎった。弦が唸りを上げ、弓がしなる。
「まだまだ!」
アレンの声に、ジリアンはさらに魔力を込めた。
(足りない……!)
月まで矢を届けようというのだ。もとより無茶な話だった。
(それでも!)
ジリアンはさらに両腕に力を込めた。
(お願い、誰か! 力を貸して!)
思わず呼びかけた。
応える者のいない、無意味な叫びだ。
(お願い! 助けて……!)
それでもジリアンは叫び続けた。
助けてくれる誰かがそこにいることを、ジリアンは無意識の内に感じ取っていたのかもしれない。
──ふわり。
何かがジリアンの右手に触れる。これは──人の手のひらだ。
一人ではない。たくさんの人の、温かい手のひらが順々にジリアンの手に触れていく。そして、熱を伝えてくれる。
(ありがとう! ありがとう!)
心の中で何度も言った。
最後にジリアンの手に触れたのは、女性と赤ん坊、二人の手だったような気がした。
──ギリギリ!
ついに、弓を引ききった。
「放て!」
──パンッ!
テオバルトの声を合図に、右手を放す。乾いた音を立てて放たれた矢は、あっという間に見えなくなった。光る鋼線を尾のように引きながら、月へ向かって真っ直ぐに飛んでいく。
「届け!」
ジリアンとテオバルトは鋼線を伝って、さらに魔力を送り続けた。
「届け!!!」
──ピンッ!
月に向かって伸び続けていた鋼線が、ついに止まった。
矢が月に届いたのだ。
「引いて!」
三人で鋼線を引く。力の限り。その間も、ジリアンとテオバルトは魔力を送り続けた。
──ズズズズズズ。
大きなものが動く気配が、地上にも伝わってきた。
「動いた……」
月が、動いた。
「じ、時間です!」
天文博士が叫ぶ。
しかし、何も起こらなかった。
「助かった……」
アレンが小さな声で呟いた。その瞬間、ジリアンの身体がガクリと膝から崩れ落ちた。
「ジリアン!」
テオバルトとアレンが、二人してジリアンを抱きとめた。
「よくやった」
「うん」
「本当に……!」
三人で抱き合っている内に、ジリアンは強烈な眠気に襲われた。あの時と同じだ。自分の魔力を使い切って、霜の巨人族の男を倒した時と。
「二人とも、ありがとう。助けてくれて」
ウトウトとまぶたを揺らしながら言ったジリアンに、アレンもテオバルトも苦笑いを浮かべた。
「こちらのセリフだ」
二人の声が重なって、それが可笑しくてジリアンは笑ったのだった。
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