【完結】偽りのα、真実の恋 ー僕が僕として生きるためにー

天音蝶子(あまねちょうこ)

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8.仮面の舞踏会

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 雪の舞う夜、学園の大広間は光の海に包まれていた。
 天井から垂れ下がるシャンデリアが、無数の灯を金糸のように散らす。
 その輝きが、クリスタルの杯や装飾の銀糸に反射して、まるで冬の星座を閉じ込めたような幻想をつくり出していた。

 弦楽が静かに始まり、空気の粒までが音楽に震える。
 リオンは扉の影でひとつ息を整えた。
 胸の奥がきゅうと締めつけられる。
 ――今夜だけは、完璧な“アレン”でいなければならない。

 兄の代わりに出席する、学園恒例のクリスマス舞踏会。
 αたちが互いの力量と品位を競う、社交の夜。
 ほんの僅かな乱れさえも、致命的なほころびになる。

 姿見の中には、白の燕尾服に身を包んだ青年が映っていた。
 肩のラインはわずかに余り、袖は兄にはぴたりだった長さ。
 だが、仮面をつけるとその不均衡は誰の目にも届かない。
 ――この仮面さえあれば、僕はαでいられる。

「……大丈夫。僕は兄さんだから」

 小さく呟いて、扉を押した。

 光と香の奔流が押し寄せた。
 暖かな空気の中には、幾層にも重なる香水とαたちのフェロモンの波。
 その中を歩くたび、肌の奥がざわりと反応する。
 喉が渇く。指先が冷たくなる。
 世界が華やかなほど、自分の存在が危うくなる。

「……無理するなよ」

 背後で低い声がした。
 振り向くと、黒のマスクをつけたノアが立っていた。
 アメジスト色の瞳が、揺れる光を掬うように細められている。

「ノア……」

「君を見つけるのは簡単だ。仮面なんて、君の仕草には敵わない」

 胸の奥が、わずかに震えた。
 仮面の奥を見透かされるようで怖いのに、彼にだけは見つけられたかった。

「ありがとう。でも、今夜は……完璧でいたいんだ」

「そうか。じゃあ、俺が隣にいよう。完璧を守るには、理由がいるだろ?」

 差し出された手が、白い手袋越しに触れる。
 指先に宿る熱が、心の奥に小さな灯をともした。

 ――この瞬間だけ、僕は“弟”でも“Ω”でもない。

 音楽が高まる。舞踏の輪が広がる。
 ノアが軽く手を引き、囁くように言った。

「今夜だけ、俺にリードさせて」

「ノア……僕、踊りなんて——」

「大丈夫。俺を見て」

 腰を引き寄せられた瞬間、リオンの体がわずかに硬直する。

 だが次の瞬間には、音楽の波に乗るように二人の足が滑らかに動き出していた。
 彼の掌が背に添い、呼吸のリズムが重なる。
 仮面の下で視線がぶつかるたび、世界の音が遠ざかる。

 ――もし、この夜が永遠に続くなら。

 そんな淡い願いが浮かんだ瞬間、ざわめきが広がった。

「……アレン様? なんだか、香りが……」

「αのフェロモンにしては、少し柔らかい……?」

 空気が微かに歪む。
 リオンの背に冷たい汗が走った。
 心臓の鼓動が早まる。

  ――まさか。

 自分の中の“Ωの香り”が、仮面の奥から滲み出している。

「……っ」

 ノアがすぐに察した。
 彼の腕が、力強くリオンを抱き寄せる。

「落ち着け。俺がどうにかする」

「ノア、でも——!」

「大丈夫。俺を信じて」

 ノアの体温が、盾のようにリオンを包み込む。
 その瞬間、彼の中で何かが弾けた。

 ――守られている。

 誰にも気づかれたくないのに、ノアの胸の中は、不思議なほど安らかだった。

 次の瞬間、空気の密度が変わった。
 ノアのフェロモンが放たれたのだ。
 それは強く、しかし驚くほど優しい香りだった。
 冬の夜に灯る焚き火のように、柔らかくリオンを包み込み、その香が彼自身の匂いを上書きしていく。

(……ノアの匂いで、僕が消えていく……)

 怖いのに、心地よかった。

「……やめて、そんなことしたら、あなたまで……」

「黙って。今は、俺を感じていろ」

 世界が静止した。
 色も音も、灯りの粒までも止まったように見えた。
 互いの呼吸だけが、この夜の唯一の現実。

 ノアの瞳が、深い夜の光を帯びる。
 リオンの頬に触れる指先が震え、仮面がずれる。
 雪の照り返しのように淡い肌が露わになる。

「……やっぱり、君だな」

 囁く声が、指先よりも熱かった。

「どうして……どうして、そこまでしてくれるの」

「理由なんていらない。俺は、お前を守りたい。それだけだ」

 その言葉に、胸の奥で何かが解ける音がした。
 ノアの額がリオンの額に触れる。
 光が滲み、香が重なる。
 世界が溶け、ただ彼の体温だけが残る。

 やがて周囲のざわめきが戻り始めた。

「どうやら気のせいだったようだな」

「α同士の共鳴か、珍しい」

 誰も真実に気づかない。

 ノアはリオンの手を握ったまま、静かに会場を後にした。

 外に出ると、雪が音もなく降っていた。
 息を吐くたび、白が夜気に溶ける。
 ノアの掌が離れない。
 その温もりが、心の奥でまだ脈打っていた。

「……ありがとう。でも、もうこんなこと——」

「いいや」

 ノアの声が、雪の音よりも低く響く。

「もう誰にも触れさせない。お前の香りを隠せるのは、俺だけだ」

 その言葉に、リオンの心臓が大きく鳴った。
 夜空の深い蒼の中に映るノアの瞳が、確かに自分を見つめている。
 偽りの“アレン”ではなく、仮面の下の“リオン”を。

(あぁ……もう、隠しきれない)

 胸の奥で、何かが静かにほどけた。

  ――もう、ひとりじゃない。

 鐘の音が遠くの教会から響く。
 聖夜の雪が降りしきる中、ふたりの影は寄り添うように重なっていった。
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