【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第一章 春の御殿にて、風は微笑む

桜散る日に、香を託して

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 宮中の桜が散り始めたころ、春風に乗って、妙な噂がひとつ、またひとつと花びらのように舞い広がった。

「田舎上がりの女房が帝に見初められたらしい」

「宴の席で、裾をつかんだのだとか」

「まこと、無作法な娘よ」

 言葉の尾に笑いが混じるたび、梓乃は心の中でそっと息を吐いた。

(あらまあ。裾ひとつでこんなに花が咲くとは、宮中というところは風の通りが良いのですね)

 香を焚く手を止めることもなく、彼女はいつもの調子で作業を続けた。
 しかし、笑いを浮かべぬ目だけは、ほんの少し寂しげに伏せられていた。
 その日の夕刻、廊下を歩いていた千鳥が駆け込んできた。

「姉さま! 綾女様が、上の方に訴えを……っ」

「まあまあ、そんなに慌てて。どうかなさいました?」

 梓乃は湯をかけていた香炉の蓋を静かに閉じ、振り返る。

「“帝に媚びた”とか、“わざと転んだ”とか……そんな、そんなことをっ!」

 千鳥の目には涙がにじんでいた。

「なるほど、そう来ましたか」

 梓乃はふっと笑い、袖を整えた。

「では、私も立派に“宮中の一員”になれたということですね」

「姉さま、冗談を言っている場合では!」

「冗談ではありませんのよ。噂も策略も、都では季節の花のようなもの。咲いては散るのです」

 それでも千鳥は納得しきれぬ顔で、唇を噛んだ。

 翌朝、上官の女房が梓乃の部屋に現れた。

「……藤原梓乃。帝のお側に近づいた不穏な振る舞いがあったとのこと。しばらく下がってもらう」

 言葉は淡々としていたが、その背後に綾女の影を感じ取るのは容易だった。

「下がる、とは……?」

「都を離れ、風花の離宮へ行ってもらう。離宮の香を管理する役を、そなたに任ずる、と」

 そんな役職が以前からあったわけではない。これは、梓乃を都から遠ざけるために、急遽設けられた名ばかりの役職だった。

「身の潔白が証明されれば、再び都へ戻れるだろう」

 千鳥が泣きそうな顔で袖をつかんだ。

「姉さま、行かないで! そんなの、ひどすぎます!」

「千鳥……」

 梓乃はゆっくりと手を重ねた。
 その指先は、不思議なほどあたたかかった。

「泣いても春は巡りますもの。今度は、もう少し風の静かな場所で香を焚くだけです」

 そう言って、にこりと笑う。
 その笑顔に、千鳥の涙がぽろりとこぼれ落ちた。

 出立の日。
 桜吹雪がまだ残る都の朝は、淡い霞に包まれていた。
 牛車の前で、千鳥が必死に袖を握る。

「姉さま、いつか必ず戻ってきてくださいね」

「ええ。その頃には、あなたが立派な女房になって、私の代わりに香を焚いていてくださるでしょう」

「そんなのいやです!」

「まあまあ、駄々をこねると綾女様に叱られますよ」

 梓乃はふわりと笑い、髪を直した。

(あの方がどう言おうとも、心までは誰にも汚せませんもの)

 ふと、遠くから足音が近づく。
 振り返ると、そこには帝の側近の姿があった。

「藤原殿。帝より伝言を預かっております。“香を絶やすな”とのことです」

 その一言に、梓乃の胸が静かに熱を帯びた。

(……帝は、覚えていてくださったのですね)

「承りました。香は、風に乗せて必ずお届けいたします」

 牛車がゆっくりと動き出す。
 千鳥の姿が小さくなっていく。
 その向こうで、宮中の桜がはらはらと散っていた。
 その花びらは、まるで誰かの未練を包み込むように、梓乃の肩に静かに降り積もる。

「人の噂も、七十五日……でしょうか」

 誰にともなくつぶやいたその声は、風に溶け、春の空へと昇っていった。
 そして――梓乃の旅は、静かに新しい場所へと続いていく。
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