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第三章 孤高の貴公子、ほころぶ
闇の影、忍び寄る夜
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その夜の月は、薄雲の奥で息をひそめていた。
風のない夜。花の香も、鳥の声も、すべてが不自然なほどに静まり返っている。
宗雅は、帳の内で筆を置き、細く息をついた。
――気配が、ある。
都からの密命を受け、彼はここ数日、離宮の周囲に潜む者たちを密かに探っていた。
帝の命を狙う逆徒たちが、この離宮を経由して証拠を焼き払うという――。
今宵こそ、その動きがあるはずだ。
宗雅は腰の刀に手を添え、音もなく戸を開けた。
月が、雲間からかすかに顔を出す。
白銀の光が庭を照らし、露に濡れた草葉がわずかに揺れた。
(……妙だ。静かすぎる)
そんなときだった。
廊の向こうに、淡い色の小袖がちらりと見えた。
「梓乃殿……?」
声をかけようとした瞬間、草むらの影が動いた。
黒い影がふたつ、三つ――闇を裂くように走る。
鈍い金属の音。月明かりが刃を照り返す。
宗雅は瞬時に剣を抜いた。
「下がれ!」
梓乃が何が起きたのかわからぬまま立ち尽くしている。
敵の刃が振り上げられ、宗雅は身を翻し、その細い体を抱き寄せた。
刃が風を裂き、袖を掠める音がした。
「宗雅様……!」
「いいから、動くな!」
宗雅の剣が夜気を裂いた。
火花のような音が弾け、金属の冷たい衝撃が腕を痺れさせる。
敵の一人が倒れ、もう一人が逃げようとした刹那――。
「逃すか……!」
宗雅の肩を、鋭い痛みが走った。
刃がかすめ、熱いものが流れ落ちる。
だが、そのまま敵を押し倒し、剣を叩きつけるように奪い取る。
その間に、梓乃は膝をつき、袖で宗雅の流れ出る血を押さえた。
白い小袖に、真紅の染みがじわりと広がっていく。
「……香炉の火のほうが、怖くありませんね」
ぽつりとつぶやくその声に、宗雅の動きが止まった。
彼女は怯えていない。
月明かりに照らされた瞳は、静かに燃えているようだった。
「馬鹿なことを……怖くないはずがないだろう」
「怖いものより、悲しいことのほうが苦手です。誰かが傷つくのは、見ていられませんから」
その言葉に、宗雅の胸の奥が、音もなく揺れた。
氷のように冷たかった心の底に、かすかな痛みが走る。
(この女は……なぜ、こんな時に微笑めるのだ)
風が吹き抜け、夜の花が散った。
月光に舞う花弁が、血の色に混ざる。
その光景は、恐ろしくも、美しかった。
宗雅は剣を納め、ゆっくりと息をついた。
肩の傷から血が伝い、梓乃の指先に落ちる。
その温もりに、彼女が小さく息をのむ。
「宗雅様……」
「取るに足らぬ傷だ」
「そんなこと……! お血が……」
「この程度で取り乱すな。……君の方こそ無事か」
「はい。……宗雅様が、庇ってくださいましたから」
梓乃はそう言って、そっと宗雅の肩に布を巻きつけた。
震える手で、それでも丁寧に。
その仕草が妙に幼く、いとおしく思えた。
宗雅は痛みをこらえながら、思わず笑みをこぼす。
「ふ……まったく。君という人は、敵の刃より落ち着きがある」
「そうですか? わたくし、心臓がどきどきして……今にも飛び出しそうですのに」
「……顔に出ておらぬ」
「出すと、千鳥が心配しますから」
そのやりとりに、緊迫の夜が少しだけやわらぐ。
遠くで犬の吠える声が聞こえ、夜明けの気配が忍び寄ってきていた。
宗雅はふと、梓乃の袖に目を落とす。
血で染まった白布が、月の光に透けて淡く輝いていた。
その色は、命の熱を帯びて――なぜか、心を温める。
「……血など、早く洗えば落ちよう」
「はい。でも……この赤を見ていると、生きているのだと実感いたします」
「妙なことを言う」
「だって、宗雅様がここにいらっしゃるのですから」
その穏やかな笑顔に、宗雅は息を飲んだ。
夜風が香を運び、血の匂いと混ざりあって、奇妙に甘い香りを漂わせる。
彼は目をそらし、唇の端でつぶやいた。
「……まったく、恐ろしい女だ」
「え?」
「何でもない」
宗雅はふと夜空を仰いだ。
薄雲の間から月が覗き、まるで彼らを見守るように光を注いでいる。
その光に照らされる梓乃の横顔が、どこか現実のものではないほどに美しかった。
そのとき、屋敷の奥から小さな声が響いた。
「……姉さまー? 寝ぼけて転びました……!」
千鳥の声だ。
ふたりは思わず顔を見合わせ、同時に吹き出した。
梓乃がくすくすと笑い、宗雅は痛む肩を押さえながら、ため息まじりに微笑んだ。
夜は、ようやく静けさを取り戻した。
しかしその静けさの中で、宗雅の胸の内では確かなものが芽吹きつつあった。
――この人を、守りたい。
その想いが何であるか、宗雅自身はまだ名を知らない。
けれど、闇を裂く月光のように、その感情は確かに彼の心を照らしはじめていた。
風のない夜。花の香も、鳥の声も、すべてが不自然なほどに静まり返っている。
宗雅は、帳の内で筆を置き、細く息をついた。
――気配が、ある。
都からの密命を受け、彼はここ数日、離宮の周囲に潜む者たちを密かに探っていた。
帝の命を狙う逆徒たちが、この離宮を経由して証拠を焼き払うという――。
今宵こそ、その動きがあるはずだ。
宗雅は腰の刀に手を添え、音もなく戸を開けた。
月が、雲間からかすかに顔を出す。
白銀の光が庭を照らし、露に濡れた草葉がわずかに揺れた。
(……妙だ。静かすぎる)
そんなときだった。
廊の向こうに、淡い色の小袖がちらりと見えた。
「梓乃殿……?」
声をかけようとした瞬間、草むらの影が動いた。
黒い影がふたつ、三つ――闇を裂くように走る。
鈍い金属の音。月明かりが刃を照り返す。
宗雅は瞬時に剣を抜いた。
「下がれ!」
梓乃が何が起きたのかわからぬまま立ち尽くしている。
敵の刃が振り上げられ、宗雅は身を翻し、その細い体を抱き寄せた。
刃が風を裂き、袖を掠める音がした。
「宗雅様……!」
「いいから、動くな!」
宗雅の剣が夜気を裂いた。
火花のような音が弾け、金属の冷たい衝撃が腕を痺れさせる。
敵の一人が倒れ、もう一人が逃げようとした刹那――。
「逃すか……!」
宗雅の肩を、鋭い痛みが走った。
刃がかすめ、熱いものが流れ落ちる。
だが、そのまま敵を押し倒し、剣を叩きつけるように奪い取る。
その間に、梓乃は膝をつき、袖で宗雅の流れ出る血を押さえた。
白い小袖に、真紅の染みがじわりと広がっていく。
「……香炉の火のほうが、怖くありませんね」
ぽつりとつぶやくその声に、宗雅の動きが止まった。
彼女は怯えていない。
月明かりに照らされた瞳は、静かに燃えているようだった。
「馬鹿なことを……怖くないはずがないだろう」
「怖いものより、悲しいことのほうが苦手です。誰かが傷つくのは、見ていられませんから」
その言葉に、宗雅の胸の奥が、音もなく揺れた。
氷のように冷たかった心の底に、かすかな痛みが走る。
(この女は……なぜ、こんな時に微笑めるのだ)
風が吹き抜け、夜の花が散った。
月光に舞う花弁が、血の色に混ざる。
その光景は、恐ろしくも、美しかった。
宗雅は剣を納め、ゆっくりと息をついた。
肩の傷から血が伝い、梓乃の指先に落ちる。
その温もりに、彼女が小さく息をのむ。
「宗雅様……」
「取るに足らぬ傷だ」
「そんなこと……! お血が……」
「この程度で取り乱すな。……君の方こそ無事か」
「はい。……宗雅様が、庇ってくださいましたから」
梓乃はそう言って、そっと宗雅の肩に布を巻きつけた。
震える手で、それでも丁寧に。
その仕草が妙に幼く、いとおしく思えた。
宗雅は痛みをこらえながら、思わず笑みをこぼす。
「ふ……まったく。君という人は、敵の刃より落ち着きがある」
「そうですか? わたくし、心臓がどきどきして……今にも飛び出しそうですのに」
「……顔に出ておらぬ」
「出すと、千鳥が心配しますから」
そのやりとりに、緊迫の夜が少しだけやわらぐ。
遠くで犬の吠える声が聞こえ、夜明けの気配が忍び寄ってきていた。
宗雅はふと、梓乃の袖に目を落とす。
血で染まった白布が、月の光に透けて淡く輝いていた。
その色は、命の熱を帯びて――なぜか、心を温める。
「……血など、早く洗えば落ちよう」
「はい。でも……この赤を見ていると、生きているのだと実感いたします」
「妙なことを言う」
「だって、宗雅様がここにいらっしゃるのですから」
その穏やかな笑顔に、宗雅は息を飲んだ。
夜風が香を運び、血の匂いと混ざりあって、奇妙に甘い香りを漂わせる。
彼は目をそらし、唇の端でつぶやいた。
「……まったく、恐ろしい女だ」
「え?」
「何でもない」
宗雅はふと夜空を仰いだ。
薄雲の間から月が覗き、まるで彼らを見守るように光を注いでいる。
その光に照らされる梓乃の横顔が、どこか現実のものではないほどに美しかった。
そのとき、屋敷の奥から小さな声が響いた。
「……姉さまー? 寝ぼけて転びました……!」
千鳥の声だ。
ふたりは思わず顔を見合わせ、同時に吹き出した。
梓乃がくすくすと笑い、宗雅は痛む肩を押さえながら、ため息まじりに微笑んだ。
夜は、ようやく静けさを取り戻した。
しかしその静けさの中で、宗雅の胸の内では確かなものが芽吹きつつあった。
――この人を、守りたい。
その想いが何であるか、宗雅自身はまだ名を知らない。
けれど、闇を裂く月光のように、その感情は確かに彼の心を照らしはじめていた。
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