【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第三章 孤高の貴公子、ほころぶ

熱に溶ける夜

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「……動かないでくださいませ」

 淡い灯の下、梓乃の声が静かに響いた。
 宗雅は肩に走る鈍痛をこらえながら、じっと座していた。
 傷の処置など慣れていないであろう梓乃が、薬箱を手に必死に絹布を裂いている。
 
 外では、夜の虫がかすかに鳴く。
 緊迫が去ったあとの離宮は、まるで何事もなかったかのように穏やかで、
 ただ香炉の煙がゆるやかに天へ昇っていた。

「もう少し……痛みますが、がまんを」

「がまんは得意だ」

 宗雅の言葉に、梓乃がふっと笑う。
 その笑みはあまりに柔らかく、傷の痛みがほんの少し遠のくようだった。

「痛みに強い方は、心にも傷をためてしまわれます。ですから、たまには“いたい”と仰ってもよいのですよ」

「……説法か?」

「いいえ。わたくしの、勝手なおまじないです」

 そう言って、梓乃は小袖の袖を折り、香草をすり潰した薬を宗雅の肩口に塗る。
 冷たさとともに、草いきれと花の香がふわりと漂う。

 宗雅は視線をそらした。
 指先がわずかに触れるたび、胸の奥が不思議に熱くなる。

(これは、ただの痛みではない……)

 梓乃は何も言わず、そっと血の滲む部分を布で押さえた。
 白布が朱に染まる。
 それでも、彼女の手はわずかも震えない。

「慣れているな」

「いえ、慣れたいと思って練習したことはございます。誰かが怪我をしたとき、役に立てたら嬉しいと思って」

「……そんな機会、そう多くはなかろう」

「でも、“あの人は不器用だから”と、笑われるよりはよろしいかと」

 宗雅は思わず、喉の奥で笑った。
 不器用――その言葉が、なぜか自分に向けられたようで。

「君は……妙な人だな。恐ろしい夜のあとでも、平然としている」

「平然ではございません。ただ、泣くより動いた方が、少しだけ気が楽になるのです」

「ふむ。強いのか、鈍いのか」

「両方かもしれません」

 梓乃は、ほのかに肩をすくめて笑った。
 その穏やかさに、宗雅は何も言えなくなった。

 灯の揺らぎが、二人の間を金色に染める。
 香の煙がゆるやかに流れ、外の夜風とまじり合う。
 やがて、沈黙を破ったのは宗雅だった。

「……あのとき、怖くなかったか」

「怖いというより、悲しかったです」

「悲しい?」

「はい。誰かが誰かを傷つけようとすることが、です。世の中には仕方のないこともございますけれど……悲しいことに慣れたくはございません」

 その言葉に、宗雅は息をのんだ。
 彼女の声は、夜風に紛れるように静かだったが、胸の奥深くに響いた。

「慣れたくは、ない……か」

「宗雅様は、慣れてしまわれましたか?」

「……どうだろうな」

 宗雅は目を閉じ、遠い都の闇を思い出した。
 政の裏で、何人もの者が消えていった。
 情けを口にすれば、“甘い”と嘲られ、正しさを語れば、“青い”と笑われた。
 いつしか、痛みを感じるよりも、何も思わぬことに慣れていたのかもしれない。

「……忘れていた」

「何を、ですか?」

「人の手が、こんなにも温かいということを」

 梓乃の動きが止まる。
 灯に照らされた頬が、ほんのりと紅くなった。

「……まあ。そんな大げさな」

「事実だ」

 短い沈黙。
 それを破ったのは、外の風。
 夜風が障子の隙間から入り、香の煙をやさしく揺らした。

 宗雅は目を細め、その香に満たされる空気を深く吸い込む。
 血の匂いも、恐れも、もうどこにもない。
 ただ、安らぎだけが残っていた。

「宗雅様」

「なんだ」

「人の心は、風のようだと思うのです。荒れれば嵐にもなりますけれど、静まれば花を運びます」

「……君は、いつもそんなことを考えているのか」

「はい。わたくし、退屈な人間ですので」

「退屈、ね」

 宗雅は思わず微笑した。
  “退屈”どころか、これほど心を波立たせる存在があるだろうか。
 彼女の言葉一つ一つが、氷に亀裂を入れるように、自分の中の冷たさを崩していく。

(どうして、この女は――)

 宗雅はその先を、言葉にできなかった。

 梓乃は、そっと薬箱を閉じた。
 そして、灯を見上げて微笑む。

「もう大丈夫です。あとは休まれるだけ。……おやすみなさいませ、宗雅様」

「……おやすみ、梓乃殿」

 その名を呼ぶ声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
 梓乃はわずかに振り返り、にこりと笑った。
 その笑みが、宗雅の胸に残る。

 やがて、灯が消える。
 外では虫の声が、ふたたび静かに響き始めた。

 宗雅は寝台に身を横たえたが、眠れなかった。
 肩の痛みではない。胸のあたりが妙に熱を帯びていた。
 彼は、今夜初めて知ったのだ。
 人の心は、冷たくもなれるが――
 同じだけ、温もりにも慣れるのだということを。

 窓の外、風花の離宮に夜風が吹き抜ける。
 香の残り香が、かすかに漂った。
 その香を吸い込みながら、宗雅はそっと目を閉じた。

(ああ……この風が、もう少しだけ続けばいい)

 そう思った瞬間、遠くの部屋から聞こえたのは、
 千鳥の寝言まじりの叫びであった。

「姉さまー! 夢の中で殿方にお茶をこぼしましたー!」

 宗雅は小さく息を漏らし、肩を震わせた。
 笑いがこぼれる。痛みが、少しだけ和らぐ。
 夜は静かに更けてゆく。
 けれどその静けさの底で、確かに何かが芽生えていた。
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