【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

文字の大きさ
12 / 25
第三章 孤高の貴公子、ほころぶ

離宮の夜明け、淡き恋の香

しおりを挟む
 夜は、まだ明けきらなかった。
 鳥の声も、風の音も、まだ眠っている。
 離宮の一角では、灯明の小さな炎が、ゆらゆらと壁に影を描いていた。

 宗雅の様子を見にきた梓乃はゆっくりと寝台に近付いた。
 寝台に伏した宗雅は額に汗を滲ませ、荒い呼吸をしている。

 梓乃は宗雅を起こさないようにそっと手を伸ばし、手巾で額の汗を拭う。
 指先に伝わる熱の重さに、胸が痛んだ。

 宗雅は、薄く目を開けた。
 肩に重い痛みがあり、意識が霞のように遠のいては戻る。
 寝台のそばで、淡い色の袖が静かに動く。
 梓乃が、黙々と布を濡らし、傷口を拭っていた。

「……起こしてしまいましかたか?」

 声は驚くほど穏やかだった。
 梓乃は、こちらを見ずに言葉を続ける。

「お加減はいかがですか。熱が……少しございます」

 宗雅は体を起こそうとしたが、すぐに眉をしかめた。

「……無理はせぬ方がいいな」

「はい。無理をなさると、痛い思いをするのは宗雅様ですもの」

 梓乃は、まるで子どもに言い聞かせるような口調で言い、そっと薬を塗った。
 彼の肌に触れる指先は驚くほど冷たく、それでいて優しい。
 香草と蜜蝋の香りが、ほのかに漂う。

「手当ては、慣れませんけれど……。村で弟たちがよく怪我をしておりまして、いつかちゃんと手助けできたらと、見よう見まねで練習していました。お役に立てるかどうかは分かりませんが……」 

「弟、か。なるほど、誰かのために尽くすのが、君の常なのだな」

「え?」

「都にいた時も、そうであったのだろう。誰かのために笑い、誰かのために怒る。……ゆえに、あのような噂も立ったのだ」

 一瞬、梓乃の手が止まった。
 けれどすぐに、彼女は微笑を浮かべた。

「ええ、そうかもしれませんね。人の噂は、春の風のようなもの。吹いたら、すぐ散ります」

「……君は、どうしてそんなに強い」

「強くなんてありません。弱いままでも、笑えるようにしているだけです」

 その一言に、宗雅の胸が静かに波打った。
 ――強さとは、声を張ることではないのだ。
 静かに笑うこと。それが、どれほど難しいか。

 梓乃は薬を塗り終えると、白い布を丁寧に巻いた。
 その指先が宗雅の鎖骨のあたりに触れる。
 宗雅は思わず息を止める。
 ふと、梓乃が顔を上げた。
 目が合う。

 一瞬、世界が止まったようだった。
 灯の光が、彼女の黒髪を透かして金色に縁どる。
 その瞳は、月夜に似た柔らかい光を宿している。

「……痛みますか?」

「いや。……もう、平気だ」

「よかった。では、これを少し召し上がってくださいませ」

 梓乃は、小さな器を差し出した。
 中には、湯気の立つ粥。生姜と香草の香りが、静かに漂う。

「夜明けまでに体を温めませんと、熱が悪さをいたします」

 宗雅は匙を受け取り、ひと口すすった。
 思っていたよりも、ずっと優しい味がした。
 どこか懐かしい。
 冷たい風の中に、ふと灯る火のような温かさ。

「……これは」

「干した梨を煮てみました。薬草の匂いをごまかすには甘みが必要でして」

「医でもないのに、よく心得ているな」

「なんでも試してみるのが好きなんです。……たいてい失敗しますけれど」

 くすり、と梓乃が笑う。
 宗雅の唇にも、思わず笑みがこぼれた。

「君の失敗なら、悪くはない」

「まあ、そんなお言葉。宗雅様に褒められるとは」

「褒めてなどいない」

「ふふ、でも、少し笑っていらっしゃいました」

 宗雅は目を逸らした。
 火照るのは熱のせいだと、自分に言い訳をする。
 けれど胸の奥に広がる温度は、明らかに別のものだった。

 梓乃は器を片付けると、窓の外に視線をやった。
 夜風が障子の隙間を抜け、香の煙を揺らしていく。

「もうすぐ夜が明けますね」

「そうだな」

「夜って、不思議です。怖いことがあっても、こうして話しているうちに、少しだけ穏やかになれる。……まるで、闇の中にも風が通るように」

 宗雅はしばし言葉を失った。
 彼女の言葉は、どこまでも静かに、心の奥へ染みこんでくる。
 気づけば、呼吸の仕方さえ変わっていた。

「梓乃殿」

「はい?」

「君は、都を離れて……後悔していないのか」

「いいえ。わたくし、今、とても自由です。草の匂いを嗅いで、お茶を淹れて、誰も見ていないところで笑っても怒ってもいい。……それだけで、幸せです」

 宗雅は目を閉じた。
  “自由”――その言葉が、どれほど遠いものに思えたことか。
 幼い頃から、中臣家の嫡子として、常に義務の中で生きてきた。
 笑うにも理由が要った。
 怒るにも、筋が要った。

 それを、彼女はこんなにも軽やかに言う。
 まるで、風のように。

「……君に会ってから、妙に息がしやすくなった気がする」

「まあ、そうでしたか。風花の離宮の風は、よい風ですもの」

「風ではなく、君のせいだ」

 梓乃が目を瞬かせた。
 宗雅は我ながら思いがけないことを口にして、少し照れくさそうに視線をそらした。

「い、いや。……言葉の綾だ」

「はい、綾にいたしましょう。綾の糸は、やがて模様になりますから」

 にっこりと微笑む梓乃に、宗雅は思わず苦笑した。
 言葉の端々が、どうにも彼女には敵わない。

 そのとき、障子の向こうで――
「……姉さま? あの、薬草を煎じたら煙が……!」という慌てた声が上がった。

 次の瞬間、ほの暗い室内に、もくもくと白い煙が流れ込んでくる。

「ち、千鳥! 火を……!」

「大丈夫です、宗雅様、香炉をひっくり返しただけですの!」

 宗雅が咳き込みながら顔をしかめると、梓乃が慌てて袖で扇いだ。

「まあ、夜風とお香の合作ですね……!」

「笑いごとではない……!」

「でも、煙の香り、少し甘くて素敵でしょう?」

「……君という人は、どうしてそう能天気なのだ」

 宗雅が苦笑すると、梓乃もつられて笑い、
 やがてふたりの笑い声が、夜明け前の空気に静かに溶けていった。

 夜の終わり――。
 東の空が薄桃に染まり始めるころ、宗雅は再び寝台に身を預けた。
 痛む肩を押さえながら、窓辺に立つ梓乃の背を見つめる。
 彼女の髪が朝の光を受けて金に輝き、ゆるやかに揺れている。
 その姿を見ているうちに、宗雅の胸の奥に、ひとつの言葉が浮かんだ。

 ――この人を、失いたくない。

 ただそれだけの想いが、静かに根を下ろした。
 夜風が吹き抜け、香の煙を運ぶ。
 その香りの向こうに、淡い恋のはじまりが、確かに息づいていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結/番外追加】サリシャの光 〜憧れの先へ〜

ねるねわかば
恋愛
彼女は進む。過去に囚われた者たちを残して── 大商会の娘サーシャ。 子どもの頃から家業に関わる彼女は、従妹のメリンダと共に商会の看板娘として注目を集めていた。 華々しい活躍の裏で、着実に努力を重ねて夢へと向かうサーシャ。しかし時には心ないことを言う者もいた。 そんな彼女が初めて抱いた淡い恋。 けれどその想いは、メリンダの涙と少年の軽率な一言であっさり踏みにじられてしまう。 サーシャはメリンダたちとは距離をおき、商会の仕事からも離れる。 新たな場所で任される仕事、そして新たな出会い。どこにあっても、彼女が夢を諦めることはない。 一方、光に囚われた者たちは後悔と執着を募らせていき── 夢を諦めない少女が、もがきながら光を紡いでいく軌跡。 ※前作「ルースの祈り」と同じ世界観で登場人物も一部かぶりますが、単体でお読みいただけます。 ※作中の仕事や制作物、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。

余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした

ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。 しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義! そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。 「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

「わざわざ始まるまでまたないで、今のうちに手を打ったってよくない?」

イチイ アキラ
恋愛
アスター公爵令嬢エステルは、夢をみる。それは先を映す夢。 ある日、夢をみた。 この国の未来を。 それをアルフレッド王太子に相談する。彼女を愛して止まない婚約者に。 彼は言う。 愛する君とぼくの国のためなら、未来を変えるのも仕方なくない?

下っ端宮女のひたむき後宮恋譚 ~前世の夢を追いかけていたらいつのまにか寵愛されていました~

紀本明
キャラ文芸
妃嬪から嫌がらせを受けつつも耐え忍んでいた下っ端宮女の鈴風(りんふぁ)はある日突然前世の記憶を取り戻す。料理人になるのが夢だった彼女は、今世でもその夢を叶えようと決意した矢先、ぼさぼさ頭の宦官・雲嵐(うんらん)と出会い、毎晩夕飯をつくることになる。料理人になるべく奮闘するも、妃嬪からの嫌がらせはひどくなる一方だった。そんなある日、事件が起こり、鈴風は窮地に立たされるが……――?

処理中です...