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第三章 孤高の貴公子、ほころぶ
離宮の夜明け、淡き恋の香
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夜は、まだ明けきらなかった。
鳥の声も、風の音も、まだ眠っている。
離宮の一角では、灯明の小さな炎が、ゆらゆらと壁に影を描いていた。
宗雅の様子を見にきた梓乃はゆっくりと寝台に近付いた。
寝台に伏した宗雅は額に汗を滲ませ、荒い呼吸をしている。
梓乃は宗雅を起こさないようにそっと手を伸ばし、手巾で額の汗を拭う。
指先に伝わる熱の重さに、胸が痛んだ。
宗雅は、薄く目を開けた。
肩に重い痛みがあり、意識が霞のように遠のいては戻る。
寝台のそばで、淡い色の袖が静かに動く。
梓乃が、黙々と布を濡らし、傷口を拭っていた。
「……起こしてしまいましかたか?」
声は驚くほど穏やかだった。
梓乃は、こちらを見ずに言葉を続ける。
「お加減はいかがですか。熱が……少しございます」
宗雅は体を起こそうとしたが、すぐに眉をしかめた。
「……無理はせぬ方がいいな」
「はい。無理をなさると、痛い思いをするのは宗雅様ですもの」
梓乃は、まるで子どもに言い聞かせるような口調で言い、そっと薬を塗った。
彼の肌に触れる指先は驚くほど冷たく、それでいて優しい。
香草と蜜蝋の香りが、ほのかに漂う。
「手当ては、慣れませんけれど……。村で弟たちがよく怪我をしておりまして、いつかちゃんと手助けできたらと、見よう見まねで練習していました。お役に立てるかどうかは分かりませんが……」
「弟、か。なるほど、誰かのために尽くすのが、君の常なのだな」
「え?」
「都にいた時も、そうであったのだろう。誰かのために笑い、誰かのために怒る。……ゆえに、あのような噂も立ったのだ」
一瞬、梓乃の手が止まった。
けれどすぐに、彼女は微笑を浮かべた。
「ええ、そうかもしれませんね。人の噂は、春の風のようなもの。吹いたら、すぐ散ります」
「……君は、どうしてそんなに強い」
「強くなんてありません。弱いままでも、笑えるようにしているだけです」
その一言に、宗雅の胸が静かに波打った。
――強さとは、声を張ることではないのだ。
静かに笑うこと。それが、どれほど難しいか。
梓乃は薬を塗り終えると、白い布を丁寧に巻いた。
その指先が宗雅の鎖骨のあたりに触れる。
宗雅は思わず息を止める。
ふと、梓乃が顔を上げた。
目が合う。
一瞬、世界が止まったようだった。
灯の光が、彼女の黒髪を透かして金色に縁どる。
その瞳は、月夜に似た柔らかい光を宿している。
「……痛みますか?」
「いや。……もう、平気だ」
「よかった。では、これを少し召し上がってくださいませ」
梓乃は、小さな器を差し出した。
中には、湯気の立つ粥。生姜と香草の香りが、静かに漂う。
「夜明けまでに体を温めませんと、熱が悪さをいたします」
宗雅は匙を受け取り、ひと口すすった。
思っていたよりも、ずっと優しい味がした。
どこか懐かしい。
冷たい風の中に、ふと灯る火のような温かさ。
「……これは」
「干した梨を煮てみました。薬草の匂いをごまかすには甘みが必要でして」
「医でもないのに、よく心得ているな」
「なんでも試してみるのが好きなんです。……たいてい失敗しますけれど」
くすり、と梓乃が笑う。
宗雅の唇にも、思わず笑みがこぼれた。
「君の失敗なら、悪くはない」
「まあ、そんなお言葉。宗雅様に褒められるとは」
「褒めてなどいない」
「ふふ、でも、少し笑っていらっしゃいました」
宗雅は目を逸らした。
火照るのは熱のせいだと、自分に言い訳をする。
けれど胸の奥に広がる温度は、明らかに別のものだった。
梓乃は器を片付けると、窓の外に視線をやった。
夜風が障子の隙間を抜け、香の煙を揺らしていく。
「もうすぐ夜が明けますね」
「そうだな」
「夜って、不思議です。怖いことがあっても、こうして話しているうちに、少しだけ穏やかになれる。……まるで、闇の中にも風が通るように」
宗雅はしばし言葉を失った。
彼女の言葉は、どこまでも静かに、心の奥へ染みこんでくる。
気づけば、呼吸の仕方さえ変わっていた。
「梓乃殿」
「はい?」
「君は、都を離れて……後悔していないのか」
「いいえ。わたくし、今、とても自由です。草の匂いを嗅いで、お茶を淹れて、誰も見ていないところで笑っても怒ってもいい。……それだけで、幸せです」
宗雅は目を閉じた。
“自由”――その言葉が、どれほど遠いものに思えたことか。
幼い頃から、中臣家の嫡子として、常に義務の中で生きてきた。
笑うにも理由が要った。
怒るにも、筋が要った。
それを、彼女はこんなにも軽やかに言う。
まるで、風のように。
「……君に会ってから、妙に息がしやすくなった気がする」
「まあ、そうでしたか。風花の離宮の風は、よい風ですもの」
「風ではなく、君のせいだ」
梓乃が目を瞬かせた。
宗雅は我ながら思いがけないことを口にして、少し照れくさそうに視線をそらした。
「い、いや。……言葉の綾だ」
「はい、綾にいたしましょう。綾の糸は、やがて模様になりますから」
にっこりと微笑む梓乃に、宗雅は思わず苦笑した。
言葉の端々が、どうにも彼女には敵わない。
そのとき、障子の向こうで――
「……姉さま? あの、薬草を煎じたら煙が……!」という慌てた声が上がった。
次の瞬間、ほの暗い室内に、もくもくと白い煙が流れ込んでくる。
「ち、千鳥! 火を……!」
「大丈夫です、宗雅様、香炉をひっくり返しただけですの!」
宗雅が咳き込みながら顔をしかめると、梓乃が慌てて袖で扇いだ。
「まあ、夜風とお香の合作ですね……!」
「笑いごとではない……!」
「でも、煙の香り、少し甘くて素敵でしょう?」
「……君という人は、どうしてそう能天気なのだ」
宗雅が苦笑すると、梓乃もつられて笑い、
やがてふたりの笑い声が、夜明け前の空気に静かに溶けていった。
夜の終わり――。
東の空が薄桃に染まり始めるころ、宗雅は再び寝台に身を預けた。
痛む肩を押さえながら、窓辺に立つ梓乃の背を見つめる。
彼女の髪が朝の光を受けて金に輝き、ゆるやかに揺れている。
その姿を見ているうちに、宗雅の胸の奥に、ひとつの言葉が浮かんだ。
――この人を、失いたくない。
ただそれだけの想いが、静かに根を下ろした。
夜風が吹き抜け、香の煙を運ぶ。
その香りの向こうに、淡い恋のはじまりが、確かに息づいていた。
鳥の声も、風の音も、まだ眠っている。
離宮の一角では、灯明の小さな炎が、ゆらゆらと壁に影を描いていた。
宗雅の様子を見にきた梓乃はゆっくりと寝台に近付いた。
寝台に伏した宗雅は額に汗を滲ませ、荒い呼吸をしている。
梓乃は宗雅を起こさないようにそっと手を伸ばし、手巾で額の汗を拭う。
指先に伝わる熱の重さに、胸が痛んだ。
宗雅は、薄く目を開けた。
肩に重い痛みがあり、意識が霞のように遠のいては戻る。
寝台のそばで、淡い色の袖が静かに動く。
梓乃が、黙々と布を濡らし、傷口を拭っていた。
「……起こしてしまいましかたか?」
声は驚くほど穏やかだった。
梓乃は、こちらを見ずに言葉を続ける。
「お加減はいかがですか。熱が……少しございます」
宗雅は体を起こそうとしたが、すぐに眉をしかめた。
「……無理はせぬ方がいいな」
「はい。無理をなさると、痛い思いをするのは宗雅様ですもの」
梓乃は、まるで子どもに言い聞かせるような口調で言い、そっと薬を塗った。
彼の肌に触れる指先は驚くほど冷たく、それでいて優しい。
香草と蜜蝋の香りが、ほのかに漂う。
「手当ては、慣れませんけれど……。村で弟たちがよく怪我をしておりまして、いつかちゃんと手助けできたらと、見よう見まねで練習していました。お役に立てるかどうかは分かりませんが……」
「弟、か。なるほど、誰かのために尽くすのが、君の常なのだな」
「え?」
「都にいた時も、そうであったのだろう。誰かのために笑い、誰かのために怒る。……ゆえに、あのような噂も立ったのだ」
一瞬、梓乃の手が止まった。
けれどすぐに、彼女は微笑を浮かべた。
「ええ、そうかもしれませんね。人の噂は、春の風のようなもの。吹いたら、すぐ散ります」
「……君は、どうしてそんなに強い」
「強くなんてありません。弱いままでも、笑えるようにしているだけです」
その一言に、宗雅の胸が静かに波打った。
――強さとは、声を張ることではないのだ。
静かに笑うこと。それが、どれほど難しいか。
梓乃は薬を塗り終えると、白い布を丁寧に巻いた。
その指先が宗雅の鎖骨のあたりに触れる。
宗雅は思わず息を止める。
ふと、梓乃が顔を上げた。
目が合う。
一瞬、世界が止まったようだった。
灯の光が、彼女の黒髪を透かして金色に縁どる。
その瞳は、月夜に似た柔らかい光を宿している。
「……痛みますか?」
「いや。……もう、平気だ」
「よかった。では、これを少し召し上がってくださいませ」
梓乃は、小さな器を差し出した。
中には、湯気の立つ粥。生姜と香草の香りが、静かに漂う。
「夜明けまでに体を温めませんと、熱が悪さをいたします」
宗雅は匙を受け取り、ひと口すすった。
思っていたよりも、ずっと優しい味がした。
どこか懐かしい。
冷たい風の中に、ふと灯る火のような温かさ。
「……これは」
「干した梨を煮てみました。薬草の匂いをごまかすには甘みが必要でして」
「医でもないのに、よく心得ているな」
「なんでも試してみるのが好きなんです。……たいてい失敗しますけれど」
くすり、と梓乃が笑う。
宗雅の唇にも、思わず笑みがこぼれた。
「君の失敗なら、悪くはない」
「まあ、そんなお言葉。宗雅様に褒められるとは」
「褒めてなどいない」
「ふふ、でも、少し笑っていらっしゃいました」
宗雅は目を逸らした。
火照るのは熱のせいだと、自分に言い訳をする。
けれど胸の奥に広がる温度は、明らかに別のものだった。
梓乃は器を片付けると、窓の外に視線をやった。
夜風が障子の隙間を抜け、香の煙を揺らしていく。
「もうすぐ夜が明けますね」
「そうだな」
「夜って、不思議です。怖いことがあっても、こうして話しているうちに、少しだけ穏やかになれる。……まるで、闇の中にも風が通るように」
宗雅はしばし言葉を失った。
彼女の言葉は、どこまでも静かに、心の奥へ染みこんでくる。
気づけば、呼吸の仕方さえ変わっていた。
「梓乃殿」
「はい?」
「君は、都を離れて……後悔していないのか」
「いいえ。わたくし、今、とても自由です。草の匂いを嗅いで、お茶を淹れて、誰も見ていないところで笑っても怒ってもいい。……それだけで、幸せです」
宗雅は目を閉じた。
“自由”――その言葉が、どれほど遠いものに思えたことか。
幼い頃から、中臣家の嫡子として、常に義務の中で生きてきた。
笑うにも理由が要った。
怒るにも、筋が要った。
それを、彼女はこんなにも軽やかに言う。
まるで、風のように。
「……君に会ってから、妙に息がしやすくなった気がする」
「まあ、そうでしたか。風花の離宮の風は、よい風ですもの」
「風ではなく、君のせいだ」
梓乃が目を瞬かせた。
宗雅は我ながら思いがけないことを口にして、少し照れくさそうに視線をそらした。
「い、いや。……言葉の綾だ」
「はい、綾にいたしましょう。綾の糸は、やがて模様になりますから」
にっこりと微笑む梓乃に、宗雅は思わず苦笑した。
言葉の端々が、どうにも彼女には敵わない。
そのとき、障子の向こうで――
「……姉さま? あの、薬草を煎じたら煙が……!」という慌てた声が上がった。
次の瞬間、ほの暗い室内に、もくもくと白い煙が流れ込んでくる。
「ち、千鳥! 火を……!」
「大丈夫です、宗雅様、香炉をひっくり返しただけですの!」
宗雅が咳き込みながら顔をしかめると、梓乃が慌てて袖で扇いだ。
「まあ、夜風とお香の合作ですね……!」
「笑いごとではない……!」
「でも、煙の香り、少し甘くて素敵でしょう?」
「……君という人は、どうしてそう能天気なのだ」
宗雅が苦笑すると、梓乃もつられて笑い、
やがてふたりの笑い声が、夜明け前の空気に静かに溶けていった。
夜の終わり――。
東の空が薄桃に染まり始めるころ、宗雅は再び寝台に身を預けた。
痛む肩を押さえながら、窓辺に立つ梓乃の背を見つめる。
彼女の髪が朝の光を受けて金に輝き、ゆるやかに揺れている。
その姿を見ているうちに、宗雅の胸の奥に、ひとつの言葉が浮かんだ。
――この人を、失いたくない。
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夜風が吹き抜け、香の煙を運ぶ。
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