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第三章 孤高の貴公子、ほころぶ
通い詰める貴公子
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宗雅は、己でも少々不思議に思っていた。
なぜ、これほど頻繁に離宮へ足が向くのか、と。
朝餉を済ませると、筆を執って報告書を書き――ふと顔を上げれば、気づけば心はあの静かな離宮にある。
理由を問われれば、帝の命による「監察任務」と答えるのが筋だ。
だが実際のところ、報告に値する事件などほとんど起きていない。
起きているのはただ、梓乃が新しい香を焚いたとか、千鳥が茶碗を割ったとか、その程度のささやかな出来事ばかりである。
今日も宗雅は馬上でため息をついた。
「……これではまるで、通い妻のようではないか」
つぶやきを風がさらい、柔らかな春の香を運んできた。
この道を行けば、あの人が笑顔で迎える。
そう思うと、胸の内にほんのりとした温もりが広がるのを感じる。
冷徹をもって鳴らす自分が、まさかそんな感情を抱くとは――信じがたいことだった。
「まあ、宗雅様。今日もおいでくださったのですね」
離宮の庭先に、梓乃の明るい声が響く。
花の香をまとったようなその声に、宗雅の眉がわずかに緩む。
その変化を見逃すまいと、千鳥がすかさず近づいてくる。
「宗雅様、今日もお茶を三杯召し上がる賭けを姉さまとしておりまして」
「しておりません!」
慌てて梓乃がたしなめるが、宗雅は苦笑をこぼす。
「ほう、三杯か。……では今日は四杯にしてやろう」
「ええっ、増やされてどうするんですか!」
千鳥が目を丸くし、梓乃は困ったように笑う。
離宮に来てからというもの、宗雅がこうして笑うようになったのは、もはや日常の一部である。
梓乃が立てるお茶の香は、いつも穏やかで、まるで心の皺をなだめるようだった。
宗雅は湯呑を手に取りながら、ふと問う。
「……貴女は、いつもそんなに穏やかでいられるのか」
「ええ。波立っても仕方ないことですもの」
梓乃は柔らかく笑い、塩漬けの桜をひとつ摘んで湯呑の縁に浮かべた。
「せっかく咲いた花も、人が眉をひそめて見れば、それだけでしおれてしまいます」
宗雅はその言葉に、思わず目を細めた。
氷のように張り詰めていた心に、ひとすじの温もりが溶けこんでいくようだった。
その日の午後、宗雅は報告の筆を執っていた。
帳面を閉じようとしたとき、ふと筆を落とす。
反射的に梓乃が手を伸ばし――二人の指先が触れた。
一瞬の沈黙。
梓乃が小さく笑って言う。
「まあ、冷たい手ですね」
宗雅は顔をそらし、短く返す。
「……もともとだ」
それ以上、言葉はなかった。
けれど、梓乃の指先の温かさが、いつまでも掌に残っていた。
それが不思議に心地よく、そして少しばかり、こそばゆかった。
夕刻、庭では千鳥が花に水をやっていた。
宗雅は縁側に腰をおろし、静かな時間を過ごしていた。
離宮の空気は、いつの間にか柔らかく、温かなものに変わっていた。
風が梓乃の袖を揺らし、花がこぼれるように笑う。
「宗雅様、姉さまに笑わせてもらいました?」
「……そんな覚えはない」
「えっ、でもさっき笑ってましたよね? ほんの少し、にこーって」
千鳥が無邪気に首をかしげる。
宗雅は面をそむけたまま、眉をひそめる。
「気のせいだ」
しかし、その耳朶がうっすらと紅を差しているのを、梓乃も千鳥も見逃さなかった。
ふたりはこっそり顔を見合わせ、笑いを噛み殺す。
そんな光景を眺めながら、宗雅の胸の奥では静かな変化が起きていた。
この離宮に漂う柔らかな空気――
それはいつしか、彼にとって“報告の義務”ではなく、“心の安らぎ”となっていたのだ。
日が傾き、鳥の声が遠ざかるころ。
宗雅はそっと筆を置き、障子越しに梓乃の姿を見やった。
灯明の明かりが揺れ、彼女の横顔を包んでいる。
穏やかで、優しく、けれどどこか儚い。
(なぜだろう……この人を見ていると、胸が静かになる)
その思いを、彼自身がまだ恋と呼ぶには早い。
けれど確かに、冷たい氷が音を立てて溶けはじめていた。
そしてその音を聞くのは、宗雅自身よりも、梓乃の方が早かったのかもしれない。
「宗雅様、また明日もお見えになりますか?」
「……どうだろうな。報告の進み次第だ」
言いながら、宗雅は視線をそらす。
だがその口元は、わずかに笑んでいた。
梓乃は何も言わず、ただ穏やかに一礼する。
――その笑顔に、宗雅の足がまた、離宮へと向かう理由をひとつ増やした。
その夜、千鳥が布団の中でぼそりと呟いた。
「宗雅様って、姉さまのこと、たぶん好きですね」
「まあ千鳥、何を言っているのです。……そんなこと、あるはずありませんわ」
そう言いつつ、梓乃の頬がほんのりと染まる。
夜風が障子を鳴らし、月の光が二人を包み込む。
軒先では蛍が淡く瞬き、静かに、恋の気配だけがふたりの間を漂っていた。
なぜ、これほど頻繁に離宮へ足が向くのか、と。
朝餉を済ませると、筆を執って報告書を書き――ふと顔を上げれば、気づけば心はあの静かな離宮にある。
理由を問われれば、帝の命による「監察任務」と答えるのが筋だ。
だが実際のところ、報告に値する事件などほとんど起きていない。
起きているのはただ、梓乃が新しい香を焚いたとか、千鳥が茶碗を割ったとか、その程度のささやかな出来事ばかりである。
今日も宗雅は馬上でため息をついた。
「……これではまるで、通い妻のようではないか」
つぶやきを風がさらい、柔らかな春の香を運んできた。
この道を行けば、あの人が笑顔で迎える。
そう思うと、胸の内にほんのりとした温もりが広がるのを感じる。
冷徹をもって鳴らす自分が、まさかそんな感情を抱くとは――信じがたいことだった。
「まあ、宗雅様。今日もおいでくださったのですね」
離宮の庭先に、梓乃の明るい声が響く。
花の香をまとったようなその声に、宗雅の眉がわずかに緩む。
その変化を見逃すまいと、千鳥がすかさず近づいてくる。
「宗雅様、今日もお茶を三杯召し上がる賭けを姉さまとしておりまして」
「しておりません!」
慌てて梓乃がたしなめるが、宗雅は苦笑をこぼす。
「ほう、三杯か。……では今日は四杯にしてやろう」
「ええっ、増やされてどうするんですか!」
千鳥が目を丸くし、梓乃は困ったように笑う。
離宮に来てからというもの、宗雅がこうして笑うようになったのは、もはや日常の一部である。
梓乃が立てるお茶の香は、いつも穏やかで、まるで心の皺をなだめるようだった。
宗雅は湯呑を手に取りながら、ふと問う。
「……貴女は、いつもそんなに穏やかでいられるのか」
「ええ。波立っても仕方ないことですもの」
梓乃は柔らかく笑い、塩漬けの桜をひとつ摘んで湯呑の縁に浮かべた。
「せっかく咲いた花も、人が眉をひそめて見れば、それだけでしおれてしまいます」
宗雅はその言葉に、思わず目を細めた。
氷のように張り詰めていた心に、ひとすじの温もりが溶けこんでいくようだった。
その日の午後、宗雅は報告の筆を執っていた。
帳面を閉じようとしたとき、ふと筆を落とす。
反射的に梓乃が手を伸ばし――二人の指先が触れた。
一瞬の沈黙。
梓乃が小さく笑って言う。
「まあ、冷たい手ですね」
宗雅は顔をそらし、短く返す。
「……もともとだ」
それ以上、言葉はなかった。
けれど、梓乃の指先の温かさが、いつまでも掌に残っていた。
それが不思議に心地よく、そして少しばかり、こそばゆかった。
夕刻、庭では千鳥が花に水をやっていた。
宗雅は縁側に腰をおろし、静かな時間を過ごしていた。
離宮の空気は、いつの間にか柔らかく、温かなものに変わっていた。
風が梓乃の袖を揺らし、花がこぼれるように笑う。
「宗雅様、姉さまに笑わせてもらいました?」
「……そんな覚えはない」
「えっ、でもさっき笑ってましたよね? ほんの少し、にこーって」
千鳥が無邪気に首をかしげる。
宗雅は面をそむけたまま、眉をひそめる。
「気のせいだ」
しかし、その耳朶がうっすらと紅を差しているのを、梓乃も千鳥も見逃さなかった。
ふたりはこっそり顔を見合わせ、笑いを噛み殺す。
そんな光景を眺めながら、宗雅の胸の奥では静かな変化が起きていた。
この離宮に漂う柔らかな空気――
それはいつしか、彼にとって“報告の義務”ではなく、“心の安らぎ”となっていたのだ。
日が傾き、鳥の声が遠ざかるころ。
宗雅はそっと筆を置き、障子越しに梓乃の姿を見やった。
灯明の明かりが揺れ、彼女の横顔を包んでいる。
穏やかで、優しく、けれどどこか儚い。
(なぜだろう……この人を見ていると、胸が静かになる)
その思いを、彼自身がまだ恋と呼ぶには早い。
けれど確かに、冷たい氷が音を立てて溶けはじめていた。
そしてその音を聞くのは、宗雅自身よりも、梓乃の方が早かったのかもしれない。
「宗雅様、また明日もお見えになりますか?」
「……どうだろうな。報告の進み次第だ」
言いながら、宗雅は視線をそらす。
だがその口元は、わずかに笑んでいた。
梓乃は何も言わず、ただ穏やかに一礼する。
――その笑顔に、宗雅の足がまた、離宮へと向かう理由をひとつ増やした。
その夜、千鳥が布団の中でぼそりと呟いた。
「宗雅様って、姉さまのこと、たぶん好きですね」
「まあ千鳥、何を言っているのです。……そんなこと、あるはずありませんわ」
そう言いつつ、梓乃の頬がほんのりと染まる。
夜風が障子を鳴らし、月の光が二人を包み込む。
軒先では蛍が淡く瞬き、静かに、恋の気配だけがふたりの間を漂っていた。
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