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第三章 孤高の貴公子、ほころぶ
朝の光、二人の距離
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鳥の声が、離宮の庭を満たしていた。
夜の嵐の名残りも、露のように消え、木々の葉の一枚一枚が陽を受けて輝いている。
宗雅は寝台の上で目を覚ました。薄く白絹を張った天井の向こうから、光がやわらかく滲んでいる。
肩の痛みが、昨夜の出来事をまざまざと思い出させた。
暗闇の中、梓乃を庇い、剣を振るった瞬間——彼女の袖に飛び散った血の色。
あのときの彼女の瞳は、不思議なほどに穏やかで、恐れよりもむしろ誰かを案じていた。
……あのような目を、わたしに向けるとは。
宗雅は眉を寄せた。
胸の奥が、静かに疼いている。痛みのせいではないと、彼自身がいちばんよく分かっていた。
障子の向こうで、かすかな衣擦れの音がした。
扉がすこし開き、香のように淡い声が流れ込んでくる。
「宗雅様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
梓乃の顔が、朝の光に縁取られてのぞいた。
薄桃の小袖に、髪をゆるく結い上げた姿。陽を受けるたび、黒髪が金の糸のように光る。
「動いてはなりません。薬湯をお持ちしました」
「……また、君が」
「はい。千鳥は手が荒いので」
くすりと笑う声に、宗雅の口元も思わずゆるむ。
いつも通りの柔らかな物言い——昨夜の恐ろしい出来事など、まるで夢であったかのよう。
梓乃は盆を膝に置き、宗雅の前でゆっくりと湯呑を差し出した。
薄荷と薬草の香りが立ちのぼり、部屋いっぱいに広がる。
「……苦いぞ」
「苦い方が、効きます」
小首を傾げて微笑むその仕草に、宗雅は言葉を失った。
どうして、この人はこうも平然としているのだろう。恐れを知らぬというより、恐れを受け入れて微笑んでいるような……。
「……君は、怖くなかったのか」
宗雅の声は、思わず低く漏れた。
「昨夜のことですか?」
「命を狙われたというのに。震えもしない」
「震えましたよ」
梓乃は湯呑を置き、ほほえんだ。
「でも、宗雅様が立っていてくださいましたから。風が吹いても、灯が消えないように思えたのです」
宗雅は息を呑んだ。
胸の奥で、何かが静かに溶けていく。
あの夜、守ったのは自分のはずだった。
けれど——もしかすると、救われたのは自分の方かもしれない。
梓乃が立ち上がり、障子を開ける。朝の光が、ぱっと流れ込んだ。
庭では千鳥が洗濯物を干しており、「お姉さま~、あの方が起きたら声かけてくださいね」と騒がしい。
梓乃は小さく笑って、宗雅に振り返った。
「千鳥が、朝ごはんを張り切って作っております。お粥が、ちょっと焦げた匂いがしますけれど」
「……あの侍女は、元気すぎる」
「ええ。けれど、あの子が笑っていると、空気まで明るくなります」
梓乃の声が柔らかく響いた。
宗雅は黙って彼女を見つめた。
光の中にいる梓乃は、まるで霞のように儚く、それでいてしっかりとそこに立っている。
離宮の静けさのなかで、彼女だけが、確かな“人の温もり”を持っていた。
——この穏やかさを、失いたくない。
宗雅はその思いに気づいて、はっとした。
まるで心の奥を覗かれたようで、動揺を隠すように顔を背ける。
「宗雅様?」
「……いや、なんでもない」
梓乃は小さく首を傾げたが、何も問わずに笑った。
その笑顔が、いっそう眩しかった。
やがて、千鳥が大騒ぎしながら粥を運んでくる。
「お姉さまー! 宗雅様、ちゃんと食べられます? 焦げは“香ばしい”のうちですから!」
「千鳥、静かにしなさい」
梓乃の声が少し慌てて響く。
宗雅はそのやりとりに、つい唇の端を緩めた。
「……香ばしい、とな」
「もう……」
梓乃があきれ顔をしながらも笑う。
部屋に満ちる、朝の光と笑い声。
逆賊の侵入を退けた夜からわずか一晩。離宮は、もうこんなにも穏やかだ。
宗雅は、湯呑の縁に指を添えたまま、ふとつぶやく。
「……不思議なものだ」
「何が、ですか?」
「君といると、時の流れがゆるやかになる。都では決して味わえぬ静けさだ」
「それは……ここが寂しい場所だからでしょうか」
「いや」
宗雅は小さく首を振った。
「君が、ここを安らぎの場にしているのだ」
その言葉に、梓乃の目が瞬いた。
頬に、淡い紅が差す。
静かな間が流れる。
どちらからともなく、目をそらした。
外では風が通り抜け、庭の花々を揺らしていく。
陽光が二人の間を照らし、その光が、互いの胸に、確かに芽生え始めていた微かな恋の熱を浮かび上がらせた。
宗雅はそっと息を吐き、心の奥で認める。
——この人が笑うたび、自分の世界が少しだけ温かくなる。
もう夜は明け、庭には朝の光がまぶしく降り注ぐ。
それはまるで、二人の新しい始まりを告げる祝福のようであった。
宗雅は、初めて自分から梓乃に向かって笑った。
「……粥を、いただこう」
梓乃はほっとして微笑み、千鳥は「焦げてますけど!」と得意げに胸を張る。
その賑やかな笑い声が、離宮の白壁に反響して、どこまでも澄んだ空に溶けていった。
新しい朝の光が、静かに二人の新たな関係を照らし始めていた。
夜の嵐の名残りも、露のように消え、木々の葉の一枚一枚が陽を受けて輝いている。
宗雅は寝台の上で目を覚ました。薄く白絹を張った天井の向こうから、光がやわらかく滲んでいる。
肩の痛みが、昨夜の出来事をまざまざと思い出させた。
暗闇の中、梓乃を庇い、剣を振るった瞬間——彼女の袖に飛び散った血の色。
あのときの彼女の瞳は、不思議なほどに穏やかで、恐れよりもむしろ誰かを案じていた。
……あのような目を、わたしに向けるとは。
宗雅は眉を寄せた。
胸の奥が、静かに疼いている。痛みのせいではないと、彼自身がいちばんよく分かっていた。
障子の向こうで、かすかな衣擦れの音がした。
扉がすこし開き、香のように淡い声が流れ込んでくる。
「宗雅様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
梓乃の顔が、朝の光に縁取られてのぞいた。
薄桃の小袖に、髪をゆるく結い上げた姿。陽を受けるたび、黒髪が金の糸のように光る。
「動いてはなりません。薬湯をお持ちしました」
「……また、君が」
「はい。千鳥は手が荒いので」
くすりと笑う声に、宗雅の口元も思わずゆるむ。
いつも通りの柔らかな物言い——昨夜の恐ろしい出来事など、まるで夢であったかのよう。
梓乃は盆を膝に置き、宗雅の前でゆっくりと湯呑を差し出した。
薄荷と薬草の香りが立ちのぼり、部屋いっぱいに広がる。
「……苦いぞ」
「苦い方が、効きます」
小首を傾げて微笑むその仕草に、宗雅は言葉を失った。
どうして、この人はこうも平然としているのだろう。恐れを知らぬというより、恐れを受け入れて微笑んでいるような……。
「……君は、怖くなかったのか」
宗雅の声は、思わず低く漏れた。
「昨夜のことですか?」
「命を狙われたというのに。震えもしない」
「震えましたよ」
梓乃は湯呑を置き、ほほえんだ。
「でも、宗雅様が立っていてくださいましたから。風が吹いても、灯が消えないように思えたのです」
宗雅は息を呑んだ。
胸の奥で、何かが静かに溶けていく。
あの夜、守ったのは自分のはずだった。
けれど——もしかすると、救われたのは自分の方かもしれない。
梓乃が立ち上がり、障子を開ける。朝の光が、ぱっと流れ込んだ。
庭では千鳥が洗濯物を干しており、「お姉さま~、あの方が起きたら声かけてくださいね」と騒がしい。
梓乃は小さく笑って、宗雅に振り返った。
「千鳥が、朝ごはんを張り切って作っております。お粥が、ちょっと焦げた匂いがしますけれど」
「……あの侍女は、元気すぎる」
「ええ。けれど、あの子が笑っていると、空気まで明るくなります」
梓乃の声が柔らかく響いた。
宗雅は黙って彼女を見つめた。
光の中にいる梓乃は、まるで霞のように儚く、それでいてしっかりとそこに立っている。
離宮の静けさのなかで、彼女だけが、確かな“人の温もり”を持っていた。
——この穏やかさを、失いたくない。
宗雅はその思いに気づいて、はっとした。
まるで心の奥を覗かれたようで、動揺を隠すように顔を背ける。
「宗雅様?」
「……いや、なんでもない」
梓乃は小さく首を傾げたが、何も問わずに笑った。
その笑顔が、いっそう眩しかった。
やがて、千鳥が大騒ぎしながら粥を運んでくる。
「お姉さまー! 宗雅様、ちゃんと食べられます? 焦げは“香ばしい”のうちですから!」
「千鳥、静かにしなさい」
梓乃の声が少し慌てて響く。
宗雅はそのやりとりに、つい唇の端を緩めた。
「……香ばしい、とな」
「もう……」
梓乃があきれ顔をしながらも笑う。
部屋に満ちる、朝の光と笑い声。
逆賊の侵入を退けた夜からわずか一晩。離宮は、もうこんなにも穏やかだ。
宗雅は、湯呑の縁に指を添えたまま、ふとつぶやく。
「……不思議なものだ」
「何が、ですか?」
「君といると、時の流れがゆるやかになる。都では決して味わえぬ静けさだ」
「それは……ここが寂しい場所だからでしょうか」
「いや」
宗雅は小さく首を振った。
「君が、ここを安らぎの場にしているのだ」
その言葉に、梓乃の目が瞬いた。
頬に、淡い紅が差す。
静かな間が流れる。
どちらからともなく、目をそらした。
外では風が通り抜け、庭の花々を揺らしていく。
陽光が二人の間を照らし、その光が、互いの胸に、確かに芽生え始めていた微かな恋の熱を浮かび上がらせた。
宗雅はそっと息を吐き、心の奥で認める。
——この人が笑うたび、自分の世界が少しだけ温かくなる。
もう夜は明け、庭には朝の光がまぶしく降り注ぐ。
それはまるで、二人の新しい始まりを告げる祝福のようであった。
宗雅は、初めて自分から梓乃に向かって笑った。
「……粥を、いただこう」
梓乃はほっとして微笑み、千鳥は「焦げてますけど!」と得意げに胸を張る。
その賑やかな笑い声が、離宮の白壁に反響して、どこまでも澄んだ空に溶けていった。
新しい朝の光が、静かに二人の新たな関係を照らし始めていた。
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