【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第四章 都からの手紙

決意と風の便り

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 夜風が障子の隙間から入り、灯火がほのかに揺れた。
 机の上には金泥の勅書、そしてその隣に新しい紙と筆。

 梓乃は膝を正し、静かに筆をとった。
 その動作には、ためらいも怯えもなかった。
 ただ、心の底から澄み渡ったような静けさがある。

 筆先が紙をすべる音が、離宮の夜に響く。

  ――さらり、さらり。

「帝のご命を頂きながら、なお日をいただくとは」

 背後からの声に、梓乃は微笑んだ。
 宗雅が、灯の影の中に立っていた。
 深い藍色の直衣姿。
 その佇まいには、どこか頼もしさと儚さが混じっている。

「宗雅様。……起こしてしまいましたか?」

「いや。筆の音が、風に混じって聞こえた」

  宗雅はゆるりと歩み寄り、机の上の紙に目を落とした。

「“少しお待ちを”か」

「はい。都に戻るのは、それからにいたします」

「理由を、問ってもいいか?」

 梓乃は筆を置き、静かに顔を上げた。

「離宮の周辺に、まだ動く気配があるのです。あの夜、宗雅様が退けられた賊――残党が潜んでいるようで」

 宗雅の眉がわずかに寄った。

「放っておけば、都から役人が来て処理する」

「けれど、都の人々は“宮中の外”に興味を持ちません。この離宮が再び血に染まることは、あってはならないのです」

 宗雅は一瞬、言葉を失った。
 そして、ため息をつくように笑う。

「……やはり、君という人は困りものだ」

 梓乃は、いたずらっぽく微笑んだ。

「困りものですか?」

「そうだ。いつも人のことばかり考えて、自分を顧みない」

「でも、それが私の“落ち着く場所”なのです。誰かのために手を動かしていれば、心が迷いません」

 宗雅は黙って梓乃を見つめた。
 灯の明かりが彼女の横顔を照らし、影が頬にやさしく揺れる。

 しばしの沈黙ののち、宗雅は羽織を脱ぎ、そっと彼女の肩にかけた。

「……危険なことをするな」

 その声には、叱責よりも祈りがこもっていた。
 梓乃は驚いて顔を上げ、宗雅の手を見つめた。

「温かい……」

「夜は冷える。君のような人が風邪でもひいたら、離宮中が困る」

「それは、宗雅様が困るという意味でしょう?」

 宗雅は少しだけ目を伏せて、微かに笑った。

「……さあ、どうだろうな」

 灯火が二人の影を重ねる。
 梓乃の頬がほんのり赤く染まり、香の煙がふわりと流れた。

「では、宗雅様」

 梓乃は再び筆を取り、返書をしたため始めた。
 “帝の御心に感謝申し上げ、事の安らぎ次第、都へ上がらせていただきます”――。

 筆の先が紙を滑るたび、宗雅の心にも波紋が広がっていく。

(この人は、命令よりも良心に従う……)

 その真っ直ぐな強さに、胸の奥が痛んだ。
 梓乃が筆を置き、文を丁寧に畳む。

「これで、少しだけ時間をいただけます」

「賊を探す間、君ひとりでは危険だ。私も同行しよう」

「ですが、宗雅様はまだ傷が癒えきっていないのでは……」

「心配するな。もう傷は塞がった。それに、役人としての務めだ」

「まあ……それでは、困りものは二人ですね」

 その言葉に宗雅は吹き出した。

「まったく、君という人は」

 二人の笑い声が重なり、部屋の空気がやわらかくなる。
 窓の外では風が音を立て、木々がざわめいた。
 千鳥が寝ぼけ眼で襖の向こうから顔をのぞかせる。

「姉さま……夜更かしですか? 宗雅様まで……恋文でも書かれるのかと」

「ち、千鳥!」

 梓乃が慌てて立ち上がると、宗雅が肩を震わせて笑った。

「恋文か……それも悪くないな」

「宗雅様!」

 千鳥は「あわわ」と声を上げ、逃げるように襖を閉めた。
 その背を見送りながら、梓乃は頬を押さえてうつむいた。
 宗雅はそんな彼女を見て、静かに言った。

「君の筆の音は、まるで風のようだ。都へ戻る前に、もう少しこの音を聞いていたい」

 梓乃は小さく息をのんだ。
 風が吹き、灯が揺れる。
 香の煙が二人の間を漂い、ふたりの影をゆらりと重ねていく。

「宗雅様」

「うん?」

「……この離宮に来られて、よかったです。あのまま都にいたら、たぶん私は心の安らぎを得られぬまま、日々を過ごしていたでしょう」

「君がここにいたことで、離宮が“生きた場所”になった」

 宗雅の言葉が、灯の明かりよりもやわらかく胸に届いた。

 外の風が少し強まり、障子の端がかすかに鳴った。
 夜の匂いが流れ込む。

 宗雅は空を見上げ、静かに言葉をこぼした。

「都に戻らずとも、私はもう君を見失えぬだろう」

 その声は、風に混じって遠くへ流れていく。
 梓乃は何も言わず、ただ香を焚いた。
 白梅の香がふわりと広がり、灯火が揺らめく。

 宗雅の羽織の下で、梓乃は小さく肩をすくめた。
 その横顔を見て、宗雅の胸の奥が温かくなる。

 風が通り抜け、障子の影を撫でた。
 二人の影が寄り添うように重なり、やがてゆっくりとひとつに溶けていった。

 ――風の便りは、静かに都へ向かう。
 金泥の文に返すように、香の匂いを乗せて。
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