【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第五章 恋の行方と雅な春

春告げの庭にて

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 春を告げる風が、離宮の屋根をやさしく撫でていった。
 長く張りつめていた緊張がほどけ、あの夜の騒ぎが嘘のように、庭には穏やかな日差しが満ちている。

 梓乃は廊の端に座り、硯に水を落としていた。
 墨の香がふわりと立ち上り、心まで静まっていく。
 庭では、千鳥が袖を広げて花びらを追いかけていた。

「姉さま、見てください! ほら、風に乗って、まるで雪みたいです!」

 声の弾みが嬉しくて、梓乃は思わず笑った。

「ええ、ほんとうに。春の雪ですね」

  花の白と淡紅が混ざり合い、空の青に溶けていく。
  その光景は、まるでひとつの夢のようだった。
 梓乃は筆をとり、和紙の上にそっと筆先を置く。

 ――帝への返書。

「この離宮こそ、わたくしの居場所にございます」

 その一文を書き終えたとき、胸の奥に小さな波が広がった。
 都への未練は、もうない。
 ただ、この地で芽吹いた風と花と、人のぬくもりがあれば、それでよかった。

「書き終えたのか」

 宗雅の声が、背後から静かに届いた。
 梓乃は振り向く。
 淡い陽光を受けて立つ宗雅の姿は、まるで春霞の中に溶け込むようだった。

「はい。……ようやく、心に迷いがなくなりました」

 そう言って手紙を差し出すと、宗雅はそれを両手で受け取り、封の金泥をじっと見つめた。

「この文は、私が都へ届けよう」

「よろしいのですか?」

「君の想いを、誰より確かに伝えられるのは私だ」

 淡々とした言葉に、梓乃は微笑んだ。
 宗雅の表情は相変わらず静かだったが、指先がわずかに震えているのを、梓乃は見逃さなかった。

「……本当に、ここに残るのだな」

 宗雅が低く問う。

「はい」

 梓乃はふわりと微笑み、ゆっくりと顔を上げた。

「あなたが、時々訪れてくださるなら」

 宗雅の目が、驚いたように見開かれる。
 次の瞬間、唇の端が静かにほころんだ。

「……約束しよう。季節の花が変わるたび、貴女を訪ねる」

 その言葉に、春の風がふたりの間をすり抜ける。
 庭の桜が、ぱらぱらと音もなく舞い落ちた。
 梓乃は笑って、筆を持ち上げた。

「では、花暦を作っておきますね」

「花暦?」

「ええ。あなたがいらっしゃる季節の花を、書き留めておくのです。たとえば――春は桜、夏は睡蓮、秋は紅葉、冬は椿。次にお越しのときに見せて差し上げます」

 宗雅はわずかに目を細め、どこか照れくさそうに笑った。

「では、私も約束を一つ。……その花暦を、毎年新しくしてもらおう」

「まあ、毎年?」

「そうでもしなければ、君が私を忘れてしまいそうでな」

 からかうような言い回しに、梓乃は思わず笑みをこぼした。

「忘れません。……きっと、忘れられませんわ」

 その瞬間、千鳥が花びらを両手に抱えて駆け寄ってきた。

「姉さま、宗雅様! 花びらの冠を作りましたよ!」

  元気な声に、ふたりは顔を見合わせる。

「冠?」

  宗雅が首をかしげる間に、千鳥は梓乃の髪の上に桜の輪をそっと置いた。

「はい、これで姉さまは“花の姫”です!」

「まあ、千鳥ったら……」

 頬を染めた梓乃に、宗雅はほんの少しだけ視線を落とした。
 花びらが髪に触れ、光を受けてきらめいている。

 ――美しい。

 その一言が、喉元まで出かかった。
 けれど宗雅は、それを飲み込んだ。
 代わりに、静かに言う。

  「……春の姫にふさわしい」

 梓乃は微笑み、指先で花冠を押さえた。
 その笑顔は、花よりも柔らかかった。

 夕暮れ。
 梓乃は縁側に座り、宗雅が馬を引く姿を見送っていた。
 都へ向かう道を進む彼の背は、いつもより少しだけ遠く感じられる。
 千鳥が袖を引いた。

「姉さま、寂しいですか?」

「……ええ、少しだけね。でも、また会えます」

 遠くから、宗雅が振り返った。
 風が吹き、桜の花びらが一斉に舞い上がる。
 それが、まるで別れの代わりに舞う祝福のようだった。
 梓乃は両手で髪を押さえながら、そっと笑みを浮かべる。

「宗雅様――季節の花が変わるころ、またお待ちしています」

 声は届かなかったかもしれない。
 けれど、春の風がその言葉を運び、
 去りゆく背中の肩口に、やさしく触れた気がした。

 夜、離宮の空は冴え渡り、星がいくつも瞬いていた。
 梓乃は灯の下で、新しい花暦の最初の頁を開く。

「春――桜。風、やわらかく。香、淡し。思い、ひとしずく。」

 筆を置いたあと、彼女は小さく息をついた。
 窓の外では、まだ風が花を運んでいる。

 ――約束の季節は、きっとめぐる。

 そのとき、再び誰かがこの庭を訪れる。
 そう思うだけで、胸の奥がほんのり温かくなった。

 灯火が揺れ、香が漂う。
 春は、静かに、けれど確かに告げられていた。

 離宮の夜に、梓乃の筆先がまた、そっと動いた。
 それは恋のはじまりを綴る、やさしい音だった。
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