19 / 25
第五章 恋の行方と雅な春
雅なる春風、ふたりを包む
しおりを挟む
春の夜は、名残惜しいほどに静かだった。
離宮の庭は、昼間の騒がしさが嘘のように、桜の花びらがひらひらと舞い続けている。
灯籠の明かりがほのかに花を照らし、まるで雪解けのような淡い光を放っていた。
梓乃は、縁側にひとり腰を下ろし、ゆるやかに舞い落ちる花を見上げていた。
指先にひらりと落ちた花びらを、掌に包みながら小さく息をつく。
——これほど静かな春が、また訪れるだろうか。
離宮を騒がせた陰謀は、宗雅の采配により見事に収束した。
事の経緯を自ら伝えるため、宗雅は都への帰還を控えているばかり。
けれど今夜だけは、すべての音が遠くに霞んでいる。
「まだ、眠れぬのか」
背後から届いた声に、梓乃はそっと振り返った。
灯籠の光を背に、宗雅が立っていた。
薄衣に羽織を重ね、いつものように姿勢はまっすぐ。
だがその表情には、どこか柔らかな影がある。
「宗雅様こそ。明日のご出立を控えておいでなのに」
「眠れぬのは、お互いさまだ」
宗雅はそう言って、彼女の隣に静かに座った。
間に流れるのは、春風の音。
花びらがふたりの膝の上に積もっていく。
「桜が……」
梓乃は目を細めて、ひとひらの花を掬い上げた。
「散ってしまうのが惜しくて、つい数を数えてしまいました」
「数を?」
宗雅が少し驚いたように眉を上げる。
「ええ。落ちるたびに“ひとつ、ふたつ”と。けれど、気づいたらもう……いくつだったのか、わからなくなってしまって」
梓乃は苦笑をこぼした。
「終わりがないのですね。桜の花びらをすべて数えるには」
宗雅はふっと笑った。
「一生かかっても、数え終えられぬだろうな」
「ええ。それもまた、雅なことです」
風がふたりの間を抜けていった。
桜の花がふわりと舞い、宗雅の袖にひとひら落ちる。
その様子を見つめる梓乃の瞳に、灯籠の明かりが溶けるように映った。
宗雅はその視線のぬくもりに、わずかに息を呑む。
常に冷静さを失わぬ彼が、今、この穏やかな瞬間に心を揺らしている——
そんな自覚が、胸の奥で静かに広がっていった。
「……君は、本当に不思議な人だ」
「わたくしが?」
梓乃は首を傾げた。
「君と話していると、季節の流れまで緩やかになる。時間が、少しだけやさしく感じる」
宗雅の言葉に、梓乃は小さく笑う。
「それは、春だからではなくて?」
「いや、春より君のせいだ」
思わず出た言葉に、宗雅自身がわずかに驚く。
梓乃は一瞬目を見開いたあと、頬を染めて俯いた。
「……お優しいことをおっしゃるのですね」
宗雅は苦笑し、頭を掻いた。
「口がすべっただけだ」
「そうでしょうか?」
梓乃は少し悪戯っぽく、唇の端を上げた。
その仕草に、宗雅は胸の内がほぐれるのを感じた。
この穏やかな春夜の空気が、ふたりの間に漂うわずかな距離を柔らかく包み込む。
しばらく、言葉もなく花の音を聴いていた。
深まる夜の闇に、遥か遠くの鳥の鳴き声が、寂しげに響き渡る。
どこかで香炉の香が漂い、夜風が髪をさらう。
「明日は、都に戻られるのですね」
「うむ。報告と、帝への書簡の届けがある」
「お忙しい方なのに、いつもこちらへ足を運んでくださって……」
「約束だからな」
宗雅の声には、迷いがなかった。
「季節の花が変わるたび、君を訪ねる。そう言ったはずだ」
梓乃は静かに頷く。
「はい。わたくしも、その日を待つことにいたします。花暦を作っておきますね」
「花暦?」
宗雅が目を瞬かせた。
「ええ。桜、藤、菖蒲、紅葉……季節ごとの花を描いておけば、あなたがいらしたときに、どの花が待っていたか、すぐにわかりますもの」
宗雅はしばらく黙って彼女の横顔を見つめた。
桜色の光が頬に宿り、まつげの影が長く伸びている。
その姿はまるで、春そのものが人の形をとったようだった。
「君は……本当に、離宮に似合う」
低くつぶやく声に、梓乃はそっと微笑む。
「そう言っていただけるなら、もう寂しくはありません」
風がまた吹き抜け、灯籠の火がかすかに揺れる。
桜の花びらがふたりを包み込むように舞った。
そのひとひらが宗雅の髪にとまり、彼は無意識に手を伸ばす。
すると梓乃が、そっとその花を摘み取った。
「春の印です」
小さく呟きながら、掌に包む。
宗雅は、その掌ごと包み返した。
ふたりの手の間に、ひとひらの花が息づく。
時間が止まったかのように、夜風の音が遠のいた。
やがて、梓乃がそっと笑う。
「……これで、春を分け合えましたね」
宗雅は何も言わず、ただ頷いた。
その微笑みは、中納言の嫡子宗雅ではなく、ひとりの男の顔だった。
桜の花が散る音が、まるで遠い拍手のように聞こえる。
離宮の空には、静かな春の月光が、淡く満ちていた。
離宮の庭は、昼間の騒がしさが嘘のように、桜の花びらがひらひらと舞い続けている。
灯籠の明かりがほのかに花を照らし、まるで雪解けのような淡い光を放っていた。
梓乃は、縁側にひとり腰を下ろし、ゆるやかに舞い落ちる花を見上げていた。
指先にひらりと落ちた花びらを、掌に包みながら小さく息をつく。
——これほど静かな春が、また訪れるだろうか。
離宮を騒がせた陰謀は、宗雅の采配により見事に収束した。
事の経緯を自ら伝えるため、宗雅は都への帰還を控えているばかり。
けれど今夜だけは、すべての音が遠くに霞んでいる。
「まだ、眠れぬのか」
背後から届いた声に、梓乃はそっと振り返った。
灯籠の光を背に、宗雅が立っていた。
薄衣に羽織を重ね、いつものように姿勢はまっすぐ。
だがその表情には、どこか柔らかな影がある。
「宗雅様こそ。明日のご出立を控えておいでなのに」
「眠れぬのは、お互いさまだ」
宗雅はそう言って、彼女の隣に静かに座った。
間に流れるのは、春風の音。
花びらがふたりの膝の上に積もっていく。
「桜が……」
梓乃は目を細めて、ひとひらの花を掬い上げた。
「散ってしまうのが惜しくて、つい数を数えてしまいました」
「数を?」
宗雅が少し驚いたように眉を上げる。
「ええ。落ちるたびに“ひとつ、ふたつ”と。けれど、気づいたらもう……いくつだったのか、わからなくなってしまって」
梓乃は苦笑をこぼした。
「終わりがないのですね。桜の花びらをすべて数えるには」
宗雅はふっと笑った。
「一生かかっても、数え終えられぬだろうな」
「ええ。それもまた、雅なことです」
風がふたりの間を抜けていった。
桜の花がふわりと舞い、宗雅の袖にひとひら落ちる。
その様子を見つめる梓乃の瞳に、灯籠の明かりが溶けるように映った。
宗雅はその視線のぬくもりに、わずかに息を呑む。
常に冷静さを失わぬ彼が、今、この穏やかな瞬間に心を揺らしている——
そんな自覚が、胸の奥で静かに広がっていった。
「……君は、本当に不思議な人だ」
「わたくしが?」
梓乃は首を傾げた。
「君と話していると、季節の流れまで緩やかになる。時間が、少しだけやさしく感じる」
宗雅の言葉に、梓乃は小さく笑う。
「それは、春だからではなくて?」
「いや、春より君のせいだ」
思わず出た言葉に、宗雅自身がわずかに驚く。
梓乃は一瞬目を見開いたあと、頬を染めて俯いた。
「……お優しいことをおっしゃるのですね」
宗雅は苦笑し、頭を掻いた。
「口がすべっただけだ」
「そうでしょうか?」
梓乃は少し悪戯っぽく、唇の端を上げた。
その仕草に、宗雅は胸の内がほぐれるのを感じた。
この穏やかな春夜の空気が、ふたりの間に漂うわずかな距離を柔らかく包み込む。
しばらく、言葉もなく花の音を聴いていた。
深まる夜の闇に、遥か遠くの鳥の鳴き声が、寂しげに響き渡る。
どこかで香炉の香が漂い、夜風が髪をさらう。
「明日は、都に戻られるのですね」
「うむ。報告と、帝への書簡の届けがある」
「お忙しい方なのに、いつもこちらへ足を運んでくださって……」
「約束だからな」
宗雅の声には、迷いがなかった。
「季節の花が変わるたび、君を訪ねる。そう言ったはずだ」
梓乃は静かに頷く。
「はい。わたくしも、その日を待つことにいたします。花暦を作っておきますね」
「花暦?」
宗雅が目を瞬かせた。
「ええ。桜、藤、菖蒲、紅葉……季節ごとの花を描いておけば、あなたがいらしたときに、どの花が待っていたか、すぐにわかりますもの」
宗雅はしばらく黙って彼女の横顔を見つめた。
桜色の光が頬に宿り、まつげの影が長く伸びている。
その姿はまるで、春そのものが人の形をとったようだった。
「君は……本当に、離宮に似合う」
低くつぶやく声に、梓乃はそっと微笑む。
「そう言っていただけるなら、もう寂しくはありません」
風がまた吹き抜け、灯籠の火がかすかに揺れる。
桜の花びらがふたりを包み込むように舞った。
そのひとひらが宗雅の髪にとまり、彼は無意識に手を伸ばす。
すると梓乃が、そっとその花を摘み取った。
「春の印です」
小さく呟きながら、掌に包む。
宗雅は、その掌ごと包み返した。
ふたりの手の間に、ひとひらの花が息づく。
時間が止まったかのように、夜風の音が遠のいた。
やがて、梓乃がそっと笑う。
「……これで、春を分け合えましたね」
宗雅は何も言わず、ただ頷いた。
その微笑みは、中納言の嫡子宗雅ではなく、ひとりの男の顔だった。
桜の花が散る音が、まるで遠い拍手のように聞こえる。
離宮の空には、静かな春の月光が、淡く満ちていた。
10
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
【完結】断頭台で処刑された悪役王妃の生き直し
有栖多于佳
恋愛
近代ヨーロッパの、ようなある大陸のある帝国王女の物語。
30才で断頭台にかけられた王妃が、次の瞬間3才の自分に戻った。
1度目の世界では盲目的に母を立派な女帝だと思っていたが、よくよく思い起こせば、兄妹間で格差をつけて、お気に入りの子だけ依怙贔屓する毒親だと気づいた。
だいたい帝国は男子継承と決まっていたのをねじ曲げて強欲にも女帝になり、初恋の父との恋も成就させた結果、継承戦争起こし帝国は二つに割ってしまう。王配になった父は人の良いだけで頼りなく、全く人を見る目のないので軍の幹部に登用した者は役に立たない。
そんな両親と早い段階で決別し今度こそ幸せな人生を過ごすのだと、決意を胸に生き直すマリアンナ。
史実に良く似た出来事もあるかもしれませんが、この物語はフィクションです。
世界史の人物と同名が出てきますが、別人です。
全くのフィクションですので、歴史考察はありません。
*あくまでも異世界ヒューマンドラマであり、恋愛あり、残業ありの娯楽小説です。
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!
野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。
私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。
そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」
※ベリーズカフェにも掲載中です。そちらではラナの設定が変わっています。内容も少し変更しておりますので、あわせてお楽しみください。
黒騎士団の娼婦
イシュタル
恋愛
夫を亡くし、義弟に家から追い出された元男爵夫人・ヨシノ。
異邦から迷い込んだ彼女に残されたのは、幼い息子への想いと、泥にまみれた誇りだけだった。
頼るあてもなく辿り着いたのは──「気味が悪い」と忌まれる黒騎士団の屯所。
煤けた鎧、無骨な団長、そして人との距離を忘れた男たち。
誰も寄りつかぬ彼らに、ヨシノは微笑み、こう言った。
「部屋が汚すぎて眠れませんでした。私を雇ってください」
※本作はAIとの共同制作作品です。
※史実・実在団体・宗教などとは一切関係ありません。戦闘シーンがあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる