【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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番外編

番外編1:風花の夜、ひとりごと(宗雅視点)

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 夜の帳がゆるやかに降り、風花の離宮は、月の光を受けて静まりかえっていた。
 桜の花はとうに散り、いまは青葉が夜風にそよいでいる。
 だが、春の名残のように、かすかに香が漂っていた。

「……この香は、梓乃の調合だな」

 宗雅は、縁に腰を下ろし、月を仰いだ。
 香炉から立ちのぼる白い煙が、まるで梓乃の微笑のように、ふわりと形を変えて消えてゆく。

 あの夜――桜吹雪の下で見上げた彼女の横顔が、いまも瞼に焼きついている。

「桜の花びらを数えていたのです」と、まるで子どものように言ってのけたその声の柔らかさ。

 あの時、自分の心は確かに、春風にほどけてしまったのだ。

「花を数える一生も悪くない」と笑った彼女の言葉を思い出し、宗雅の唇にかすかな笑みが浮かぶ。

 ――その一生を、隣で数えてゆけたなら。

 思えば、自分は常に政治の中心にいた。
 守るべきものは多く、失うことも多かった。
 けれど、梓乃と過ごす日々は、駆け引きや陰謀とはまるで違う。
 誰も傷つかない、穏やかで、あたたかな時間。
 それが、こんなにも愛おしいものだと、今さらながらに知った。

「……梓乃」

 名前を呼ぶと、庭の片隅で蛍がひとつ、淡く光った。
 まるで応えるように、ふわりと舞い上がる。
 宗雅はその光を目で追いながら、ふと微笑んだ。

「明日、また花暦を見せてくれるだろうか。あの人は、きっと季節ごとに新しい花を描くのだろうな」

 そう思うと胸の奥が温かくなる。
 自分の生きる時間に、梓乃という“季節”が加わった。
 春だけでなく、夏も秋も冬も――共に眺めたいと願うのは、贅沢だろうか。

 宗雅は立ち上がり、手のひらで夜風を受け止めた。
 花の香と月の光が、静かに混じり合っている。

「これが“風花”の名の由来なのだろうな……風に乗って咲く、目に見えぬ花」

 彼の声は、夜気に溶けるように柔らかかった。
 そして、ふと天を仰ぎ、そっと呟く。

「――この風が、おまえの頬にも届いているといい」

 遠く、離宮の奥で、障子の向こうに灯がともる。
 梓乃がまだ起きているのだろう。
 きっと、香の調合か、明日の献花の準備でもしているにちがいない。
 その姿を思い浮かべるだけで、宗雅の胸に穏やかな笑みがこぼれた。

「……やれやれ。あの人の前では、どうにも心が柔らかくなってしまうな」

 帝の腹心としての冷徹な眼差しも、都で政を司るときの沈着さも、彼女の前では、まるで意味をなさない。
 彼女の微笑ひとつで、心の鎧が音もなく外れてしまうのだ。

 宗雅は苦笑しながら、そっと目を閉じた。

「梓乃。どうか、この平穏が長く続きますように」

 その祈りのような言葉が夜空へと溶けていく。
 風が吹き、梓乃の調合した香が、またひとすじ、宗雅の髪を撫でて過ぎた。
 まるで返事のように。

 宗雅は静かに息をつき、背筋を伸ばすと、庭の方へ歩き出した。
 月光がその肩を淡く照らし出す。
 白い衣の裾が風に揺れ、夜の花びらのようにひらめいた。

「……やはり、明日は花を摘みに行こう。あの人が喜ぶ顔が見たい」

 そう言って微笑んだその顔には、これまでにない穏やかさが宿っていた。
 戦のない春のように、やさしく、静かな幸福をたたえて。

 風花の夜。
 離宮の庭に、ふたりの未来を告げるような、あたたかな風が吹き抜けていった。
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