政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

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27. 甘く、甘く

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 ソファーにも、ダイニングにも、礼司さんの姿はなかった。

(……いない?)

 不安が胸を締めつける。

(どこ……?)

 ふと、廊下の奥に目を向ける。
 静かに、ほとんど隙間もないくらいに閉じかけた扉。そこだけが、微かに光を漏らしていた。

(書斎……)

 私がまだ足を踏み入れていない場所の一つ。彼の私的な場所。きっと、そこにいる。そう直感して、私はそっと扉に近付いた。

 軽くノックするか呼びかけるか、一瞬迷う。でも、どうしても顔を見たくて、震える指先でそっとドアを開ける。

 ──やっぱり。

 デスクに向かって座っている、礼司さんの姿があった。

 けれどすぐに気付く。彼は眠っていた。

 白いシャツの袖をまくり上げた腕を曲げてデスクに肘をつき、手の甲に頬を預けるようにして。静かに規則正しい呼吸を繰り返している。

(……寝ちゃってる)

 ほっとしたような、でも胸がじんわりと痛くなるような、そんな気持ちが広がった。

(私が寝ている間も、ずっと起きていてくれたのかな……)

 思わず胸が詰まった。そっと近付き、机に置かれたもう片方の彼の手を見つめる。

 大きくて、男らしい手。仕事に使い慣れた、節の張った指。
 その手が今は静かに眠りについている。

(……ごめんなさい)

 声にならない言葉が心の中で浮かぶ。私はそっと手を伸ばした。
 指先で彼の指に触れる。あたたかい。生きている、生命そのもののあたたかさ。

(……礼司さん)

 伏せられた長いまつ毛が、頬に影を落としていた。胸がぎゅうっと締め付けられる。
 あまりにも優しくて、あまりにも強い人。私を何度だって包み込んでくれる人。

(もっとちゃんと……伝えたい)

 感謝も、好きって気持ちも、全部。そっと、彼の手に自分の手を重ねた。
 指を絡める勇気はなかったけれど、ただそっと、彼の手の甲を撫でた。

 その瞬間――礼司さんが、微かに眉を動かす。

「……静香?」

 掠れた、眠たげな声。私はびくっと身体を強張らせた。

「あ、の、ごめんなさい……! 起こしちゃって……!」

 慌てて手を引こうとした。けれど。その前に、彼の指が私の手首を捕らえた。

 優しく、けれど逃がさない強さで。驚いて顔を上げると、礼司さんはまだ半分眠ったままの瞳で、私をじっと見つめていた。

 深く、静かな色をたたえた、あたたかい瞳。

「……どこに行くんだ」

 ぼうっとしたような、甘い声で囁かれる。胸がどくんと高鳴った。

「……どこにも、行きません……」

 思わず小さな声で答えていた。それを聞いた礼司さんは、満足そうに目を細めると、ぐい、と私を引き寄せる。

「あ……っ」

 気付けば私は、彼の膝の上に座らされる形になっていた。

「……礼司、さん……?」

 戸惑う私を、彼は抱き締める。ぎゅうっと、まるで何かを確かめるように。逞しい腕、その腕の力の強さに胸が高鳴った。

「よかった……静香の顔、見られて」

 小さな声でそう呟かれて、私は涙が出そうになる。

(……こんなにも、大事にされてる)

 たったそれだけのことが、どうしてこんなに胸を打つのだろう。
 私はそっと彼のシャツに顔を埋めた。自分の鼓動と彼の鼓動が重なる。
 世界に私達二人だけしかいないような、そんな気がした。

 礼司さんの膝の上でぎゅっと抱き締められたまま、私はそっと目を閉じた。あたたかい。安心する。
 まるで、このまま溶けてしまいそうだった。

 だけど、ふと現実に引き戻される。

(……夕食も、お風呂も……まだ……)

 頭の片隅で、そんなことがよぎる。

 酔いもあったせいか、身体はだるくて重くて。正直、何かを口にする気力も、湯船に浸かる元気も、今はなかった。

「……ごめんなさい……」

 小さく、震える声で謝った。迷惑ばかりかけている。自分でも情けないと思った。

 けれど――礼司さんは、すぐに静かな声で囁いてくれた。

「謝らなくていいんだ」

 温かい声。耳元でそう言われてホッとする。礼司さんの手が、そっと私の背を撫でた。

「全部俺の不注意だ。静香は何も悪くない」

 その言葉に、涙が零れそうになる。

(……優し過ぎるよ、礼司さん)

 頷くことしかできなかった。ぎゅっと目を閉じる。そんな私の頭を、礼司さんは優しく撫でた。

「今夜は、もう何もしなくていい」

 耳元に落ちる、私の大好きな低く穏やかな声。

「夕飯も、お風呂も、明日にしよう。……今日は、ただ休め」

 甘やかすような口調に、また胸がきゅうっと苦しくなった。どこまでも優しい。どこまでも、あたたかい。愛しい人。

「……はい……」

 ただそれだけの返事をすると、礼司さんは静かに立ち上がった。私を抱き上げて。まるで、大切なものを扱うみたいに。

 思わず彼の胸に顔を埋めた。脈打つ鼓動が耳に伝わる。

(礼司さん……)

 強くて優しくて、私にとって、たった一人の人。

 彼に抱かれて眠りにつけることが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。

 やがて、礼司さんは私をベッドに下ろした。柔らかいベッドの感触。でも、彼は手を離さなかった。

 上から、私を包むように抱き締めたまま、そっと耳元で囁く。

「……おやすみ、静香」

 また低く、甘い声。私は安心して頷いた。

「おやすみなさい、礼司さん……」

 胸の奥が、あたたかいもので満たされていく。六年前から空っぽになっていた場所へ、こんなにもたくさんの愛が注がれている。

 アルコールで強制的な眠気に引き込まれる寸前、礼司さんは私の額にキスを落とした。まるで昔大好きだった絵本の王子様みたいに。

「……ッ」

 だから私も、緩められて露わになっていた礼司さんの首筋を両腕で引き寄せ、そこにキスをした。
 
 ありがとう、の代わりに──大好き、の代わりに。

 そのまま礼司さんの顔を見る間もなく、私は静かに、深い深い眠りに落ちた。
 
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