27 / 46
27. 甘く、甘く
しおりを挟むソファーにも、ダイニングにも、礼司さんの姿はなかった。
(……いない?)
不安が胸を締めつける。
(どこ……?)
ふと、廊下の奥に目を向ける。
静かに、ほとんど隙間もないくらいに閉じかけた扉。そこだけが、微かに光を漏らしていた。
(書斎……)
私がまだ足を踏み入れていない場所の一つ。彼の私的な場所。きっと、そこにいる。そう直感して、私はそっと扉に近付いた。
軽くノックするか呼びかけるか、一瞬迷う。でも、どうしても顔を見たくて、震える指先でそっとドアを開ける。
──やっぱり。
デスクに向かって座っている、礼司さんの姿があった。
けれどすぐに気付く。彼は眠っていた。
白いシャツの袖をまくり上げた腕を曲げてデスクに肘をつき、手の甲に頬を預けるようにして。静かに規則正しい呼吸を繰り返している。
(……寝ちゃってる)
ほっとしたような、でも胸がじんわりと痛くなるような、そんな気持ちが広がった。
(私が寝ている間も、ずっと起きていてくれたのかな……)
思わず胸が詰まった。そっと近付き、机に置かれたもう片方の彼の手を見つめる。
大きくて、男らしい手。仕事に使い慣れた、節の張った指。
その手が今は静かに眠りについている。
(……ごめんなさい)
声にならない言葉が心の中で浮かぶ。私はそっと手を伸ばした。
指先で彼の指に触れる。あたたかい。生きている、生命そのもののあたたかさ。
(……礼司さん)
伏せられた長いまつ毛が、頬に影を落としていた。胸がぎゅうっと締め付けられる。
あまりにも優しくて、あまりにも強い人。私を何度だって包み込んでくれる人。
(もっとちゃんと……伝えたい)
感謝も、好きって気持ちも、全部。そっと、彼の手に自分の手を重ねた。
指を絡める勇気はなかったけれど、ただそっと、彼の手の甲を撫でた。
その瞬間――礼司さんが、微かに眉を動かす。
「……静香?」
掠れた、眠たげな声。私はびくっと身体を強張らせた。
「あ、の、ごめんなさい……! 起こしちゃって……!」
慌てて手を引こうとした。けれど。その前に、彼の指が私の手首を捕らえた。
優しく、けれど逃がさない強さで。驚いて顔を上げると、礼司さんはまだ半分眠ったままの瞳で、私をじっと見つめていた。
深く、静かな色をたたえた、あたたかい瞳。
「……どこに行くんだ」
ぼうっとしたような、甘い声で囁かれる。胸がどくんと高鳴った。
「……どこにも、行きません……」
思わず小さな声で答えていた。それを聞いた礼司さんは、満足そうに目を細めると、ぐい、と私を引き寄せる。
「あ……っ」
気付けば私は、彼の膝の上に座らされる形になっていた。
「……礼司、さん……?」
戸惑う私を、彼は抱き締める。ぎゅうっと、まるで何かを確かめるように。逞しい腕、その腕の力の強さに胸が高鳴った。
「よかった……静香の顔、見られて」
小さな声でそう呟かれて、私は涙が出そうになる。
(……こんなにも、大事にされてる)
たったそれだけのことが、どうしてこんなに胸を打つのだろう。
私はそっと彼のシャツに顔を埋めた。自分の鼓動と彼の鼓動が重なる。
世界に私達二人だけしかいないような、そんな気がした。
礼司さんの膝の上でぎゅっと抱き締められたまま、私はそっと目を閉じた。あたたかい。安心する。
まるで、このまま溶けてしまいそうだった。
だけど、ふと現実に引き戻される。
(……夕食も、お風呂も……まだ……)
頭の片隅で、そんなことがよぎる。
酔いもあったせいか、身体はだるくて重くて。正直、何かを口にする気力も、湯船に浸かる元気も、今はなかった。
「……ごめんなさい……」
小さく、震える声で謝った。迷惑ばかりかけている。自分でも情けないと思った。
けれど――礼司さんは、すぐに静かな声で囁いてくれた。
「謝らなくていいんだ」
温かい声。耳元でそう言われてホッとする。礼司さんの手が、そっと私の背を撫でた。
「全部俺の不注意だ。静香は何も悪くない」
その言葉に、涙が零れそうになる。
(……優し過ぎるよ、礼司さん)
頷くことしかできなかった。ぎゅっと目を閉じる。そんな私の頭を、礼司さんは優しく撫でた。
「今夜は、もう何もしなくていい」
耳元に落ちる、私の大好きな低く穏やかな声。
「夕飯も、お風呂も、明日にしよう。……今日は、ただ休め」
甘やかすような口調に、また胸がきゅうっと苦しくなった。どこまでも優しい。どこまでも、あたたかい。愛しい人。
「……はい……」
ただそれだけの返事をすると、礼司さんは静かに立ち上がった。私を抱き上げて。まるで、大切なものを扱うみたいに。
思わず彼の胸に顔を埋めた。脈打つ鼓動が耳に伝わる。
(礼司さん……)
強くて優しくて、私にとって、たった一人の人。
彼に抱かれて眠りにつけることが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。
やがて、礼司さんは私をベッドに下ろした。柔らかいベッドの感触。でも、彼は手を離さなかった。
上から、私を包むように抱き締めたまま、そっと耳元で囁く。
「……おやすみ、静香」
また低く、甘い声。私は安心して頷いた。
「おやすみなさい、礼司さん……」
胸の奥が、あたたかいもので満たされていく。六年前から空っぽになっていた場所へ、こんなにもたくさんの愛が注がれている。
アルコールで強制的な眠気に引き込まれる寸前、礼司さんは私の額にキスを落とした。まるで昔大好きだった絵本の王子様みたいに。
「……ッ」
だから私も、緩められて露わになっていた礼司さんの首筋を両腕で引き寄せ、そこにキスをした。
ありがとう、の代わりに──大好き、の代わりに。
そのまま礼司さんの顔を見る間もなく、私は静かに、深い深い眠りに落ちた。
14
あなたにおすすめの小説
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
【本編完結】付き合ってもいないのに、幼なじみの佐藤がプロポーズしてきた
ぽぽよ
恋愛
「俺らさ、結婚しない?」
三十二歳、独身同士。
幼なじみの佐藤が、たこ焼きパーティの最中に突然言い出した。
付き合ってもないのに。
夢見てた甘いプロポーズじゃないけれど、佐藤となら居心地いいし、給料もあるし、嫁姑問題もないし、性格も知ってる。
断る理由が、ない。
こうして、交際0日で結婚することが決まった。
「とりあえず同棲すっか」
軽いノリで決まってゆく未来。
ゆるっとだらっと流れていく物語。
※本編は全7話。
※本編完結後、ゆるいSS投稿予定。
※サイドストーリー(切なめ)投稿予定。
腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~
有木珠乃
恋愛
両親を亡くし、二人だけの姉妹になった一ノ瀬栞と琴美。
ある日、栞は轢き逃げ事故に遭い、姉の琴美が務める病院に入院することになる。
そこで初めて知る、琴美の婚約者の存在。
彼らの逢引きを確保するために利用される栞と外科医の岡。
「二人で自由にならないか?」を囁かれて……。
愛情に気づかない鈍感な私
はなおくら
恋愛
幼少の頃、まだ5歳にも満たない私たちは政略結婚という形で夫婦になった。初めて顔を合わせた時、嬉し恥ずかしながら笑い合い、私たちは友達になった。大きくなるにつれて、夫婦が友人同士というのにも違和感を覚えた私は、成人を迎えるその日離婚をするつもりでいた。だけど、彼は私の考えを聞いた瞬間豹変した。
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
閉じ込められた未亡人は、当主となった義息と契約する。
黒蜜きな粉
恋愛
借金の肩代わりとして後妻に入った私は、
妻と呼ばれながら屋敷の離れで「いないもの」として暮らしていた。
ある雪の日、夫が事故死したと告げられる。
だが、葬儀に出ることすら許されず、私は部屋に閉じ込められた。
新たに当主となった継子は言う。
外へ出れば君は利用され奪われる、と。
それが保護であり、同時に支配なのだと理解したとき、
私はその庇護を条件付きの契約に変えることを選ぶ。
短いお話です。
※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる