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28. 二人の新しい朝
しおりを挟む見慣れたカーテン越しに、朝の光がぼんやりと室内に広がっていた。
(朝……)
ゆっくりと瞼を持ち上げる。視界に映るのは、見慣れた自室の天井。掛布に包まれたまま、少しだけ身体を伸ばした。
(……頭、痛くない……)
ほんのり身体が重い気もするけれど、昨日のくらくらする感じやだるさはすっかり消えていた。
(よかった……ちゃんと起きられて)
ベッドサイドの時計に目をやると、まだいつもよりも早い時間だった。そっとベッドを抜け出し、足元のスリッパを履く。
(……お風呂、入らなきゃ)
昨日はろくにお風呂にも入れなかったことを思い出す。酔って、甘えて、ぐっすり眠ってしまって。
(……っ)
瞬間、頬がかっと熱くなる。
(わ、わ、私っ、昨日、何したの……!)
胸を押さえて、ぐらりと揺れる。まだ酔いが残っていたのかと思うくらい、衝撃で足元がぐらついた。
浴室であたたかいお湯を浴びながら、昨夜のことが断片的に蘇ってくる。
礼司さんに甘えて、好きっていっぱい言ってしまった。それに――
(……キスも、たくさん……)
お湯の中で、のぼせたわけでもないのに顔が熱く真っ赤になる。
(どうしよう。思い出すだけで心臓が痛い)
叫び出したいくらい恥ずかしいのに、それでも胸の奥はあたたかい。この感じ、何と名付けたらいいんだろう。
シャワーに打たれながら、そっと目を閉じた。
あんなにも優しく抱き締められて、あんなにも大事にされた。
(……夢じゃ、ないよね)
指先が震えた。ぎゅっと両手を握り締める。
(ちゃんと、向き合いたい)
今度こそ自分から。礼司さんにちゃんと感謝を伝えたい。
シャワーを終えて着替えを済ませた私は、鏡の前でメイクをし、そっと髪を整えた。
(……よし)
深く息を吐いて、リビングへ向かう。
まだ静かだった。どうやら礼司さんはまだ寝ているみたいで、少しホッとした。
(朝食、いつもと違ったのにしよう)
自然とそんな考えが浮かんだ。
(昨日、たくさん迷惑かけたから……少しでも喜んでもらえたらいいな)
いつものようにキッチンに立った。少しだけ特別な朝にしたい。そう思って、冷蔵庫の中を覗いた。
取り出したのは、クロワッサン、卵、リーフサラダ、それからヨーグルト。
(……ちょっと、カフェみたいかも)
いつもとは違う、洋食の朝食。
「礼司さん、驚くかな……」
思わず独り言を口にする。想像するだけで胸がくすぐったくなった。
テーブルを整え、クロワッサンの甘い香りが部屋に満ちた頃。礼司さんの寝室のドアがそっと開く音がした。
振り返ると──そこにいた。
きちんとした白いシャツに、センスのいいネクタイ。乱れた髪を指で整えながら、細身の眼鏡を掛けた礼司さんが。
(眼鏡……昨日、酔った勢いで言っちゃったんだ……眼鏡をかけているのも、掛けていないのも好き、って)
思い出すだけで、顔から火が出そうだった。叫びながら、しゃがみ込んでしまいたいくらいの衝動。
慌ててテーブルに向き直り、クロワッサンを乗せた皿を手に取る。
「……おはようございます、礼司さん」
ぎこちない声にならないよう、必死で平静を装う。すると、穏やかな声が返ってきた。
「……おはよう、静香」
いつもと同じ、低く、優しい声。それだけで私の羞恥心は薄らいで、ホッとする。
礼司さんはゆっくりと時間をかけてテーブルに並べられた料理を見つめた。
香ばしいクロワッサン、ふわふわのスクランブルエッグ、色鮮やかなサラダ、そしてヨーグルト。
いつもの和食とは違う洋食スタイルに、礼司さんは少しだけ目を細め、ふっと、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「……美味そうだな」
ぽつりと、そんな言葉を落とす。その一言が、思いがけず胸に染みた。
(よかった……ちゃんと、喜んでもらえた……)
安堵と照れとがないまぜになって、私は手に持った皿をきゅっと抱える。
「……よ、よかったら……どうぞ」
上ずりそうな声を必死に抑えて、クロワッサンを手渡そうとした。けれどその瞬間――眼鏡越しに、礼司さんがじっと私を見つめた。
眼鏡のフレームに指を添え、すっと軽く押し上げながら――あの、いつもより低く、掠れたような、甘い声で囁いた。
「……お前が、眼鏡も好きだって言ったから」
そっと落とされた言葉に、全身がびくりと震えた。身体のどこかが切なく、私の心が直接かき混ぜられたような衝撃。
(え……)
顔が、みるみるうちに熱くなる。
(やっぱり……覚えてた……!)
昨日の酔った勢いの言葉。絶対、忘れていて欲しかったはずなのに。礼司さんは覚えていて、わざわざこんな風にに甘く囁いてくれた。
(……っ、だめ。これ以上、もたない)
思わずクロワッサンの皿をテーブルに置いて、俯く。きっと今、耳まで真っ赤だろう。そんな私を見て、礼司さんはクスリと笑った。
反射的に視線を上げる。礼司さんの顔には息を呑むほど、優しく、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「……そういうとこも、好きだよ」
手首をキュッと掴まれ、引き寄せられる。耳元にもう一度、甘い囁きが落ちた。
(……っ……!!)
頭がくらくらする。酔ってもいないのに、息をするのも忘れそうだった。
(好きだよ──)
その言葉が、何度も何度も頭の中で反響する。嬉しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく幸せだった。
「……どうぞ、召し上がってください……」
「いただくよ」
礼司さんは穏やかに微笑みながら、お皿からクロワッサンを手に取った。
こうして少しだけ特別な、甘い朝が始まった。静かな朝だった。
テレビもつけていない。外の世界の喧騒も、ここまでは届かない。ただテーブルを挟んで、二人だけの世界だ。
礼司さんはゆったりとした仕草で朝食を口に運びつつ、時折私に視線を向けた。眼鏡越しの瞳は、どこまでも優しかった。
「……美味しいよ」
不意に、ぽつりと呟かれる。驚いて顔を上げると、礼司さんは静かに微笑んでいた。
(……っ)
聞き慣れた言葉。それもたった一言なのに、胸の奥にじんわりと広がる温かさに、私は落ち着かない。
「……よ、よかったです」
そう何とか答えると、礼司さんは満足そうにまたフォークを手に取った。
こんな朝がこれからも続いてくれたらいいのに、と思った。願うだけなら、許されるだろうか。
私自身がもっと努力したら、この願いは叶うのだろうか。
食事を終え、私はそっと立ち上がった。テーブルを片付けようとして、ふと礼司さんの胸元に目をやる。
礼司さんにしては珍しく、ネクタイが少しだけ曲がっていた。
(……直したい)
自然と、そんな気持ちが湧き上がる。でも、躊躇してしまう。
(……いいのかな)
こんなこと、勝手にしても。そう迷っていると、礼司さんがふっと顔を上げた。
「……静香?」
優しい声に勇気をもらって、私は小さく首を振る。
「……あの、ネクタイ……曲がってます」
か細い声で告げると、礼司さんは微かに目を細めた。そして小首を傾げるようにして告げる。
「……直してくれる?」
問いかけるような声だった。私はぎこちなく頷いて、そっと彼に近付いた。礼司さんは椅子に座ったまま、何も言わずに身を乗り出す。
目の前に現れた彼の胸元に、ひとりでにときめいてしまう厄介な心。私は緊張から震える指先で、そっとネクタイに触れた。
(……あったかい)
生地の向こうに感じる、彼の体温。ドキドキして手が震えそうだったけれど、なんとかネクタイを整える。まっすぐ、綺麗に。
礼司さんらしく、失敗しないように、丁寧に。
そして結び目をそっと引き締めて顔を上げると、すぐそこに礼司さんの瞳があった。眼鏡越しに、まっすぐ見つめられる。
(……っ)
息が止まりそうだった。
「……ありがとう」
静かな声のその一言に、胸がじんと熱くなる。私は何も言えずに、ただそっと頷いた。返事をしなきゃと思っても、胸が詰まって声が出ない。
礼司さんはそのまま私の手を取った。あたたかくて、大きな掌。そして、私の指先にそっとキスを落とす。
「……助かった」
掠れた声が、吐息が私の指に触れた。
(も、もう……だめ、これ以上は……)
胸が破裂しそうになる。好きな人が目の前にいるだけで、こんなにも苦しい思いをするなんて、知らなかった。
クロワッサンの香りがまだ微かに漂うダイニングで、私達はしばらく穏やかな時間を過ごす。
やがて礼司さんはコーヒーカップを置き、そっとジャケットを手に取った。
(……出勤の時間だ)
私は急いで立ち上がり、傍へ歩み寄る。
(……ちゃんと、見送りたい)
昨日あんなに迷惑をかけた分、今日はちゃんとしたい。
それに礼司さんを見送るこの瞬間が、毎日どうしようもなく、愛おしく思えていたから。
礼司さんは慣れた手つきでさっとジャケットに腕を通し、二、三度シルエットを整えるような仕草をする。
ネクタイはさっき私が結び直したもの。
(……よかった。ちゃんと出来てる)
玄関へ向かう途中、礼司さんがふとこちらを振り返った。
「静香」
その声で名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。私は慌てて駆け寄り、玄関のドアの前で立ち止まった。
「いってらっしゃい」
深くお辞儀をする。きちんと丁寧に。まるで、小さな誓いのように。
顔を上げると、礼司さんは静かに微笑んでいた。眼鏡越しの瞳が私だけを見つめている。
そしてほんの少しだけ身を屈めてから、耳元で低く囁かれた。
「……後ろ髪引かれるな」
くすっと、息を潜めた笑い声。頬が、耳が、胸がじわりと熱くなる。
(……私も、です)
本当は口に出して伝えたかった。けれど胸がいっぱいで、咄嗟に声にならない。そんな私の様子を礼司さんは察したのか、そっと私の頭に手を置く。
大きな掌で、優しく髪を撫でられる。
「今日はちゃんといい子で待ってろ」
掠れた甘い声に腰が砕けそうになった。情けないけれど、本当にその場に座り込みそうになってしまう。
(……っ)
私は、こくこくと頷くことで精一杯だった。
礼司さんは玄関のドアを静かに開ける。スーツ姿に眼鏡。どこまでもスマートで、格好いい後ろ姿を目に焼き付けた。
「あ……」
思わぬタイミングで、最後にもう一度振り返る。私にだけ見せる微笑みが、自然と私を笑顔にさせた。
「行ってきます」
穏やかな声。その一言が、こんなにも胸を締め付けるなんて。
「気をつけて」
小さな声でもう一度見送った。ドアの向こう、礼司さんが去っていく音に耳を澄ませてしまう。私はしばらく、その場を動けなかった。
(……すぐに、また会えるのに)
こんなにも恋しくて、愛しいなんて。私はそっと胸に手を当てた。確かめるように。彼の残していったぬくもりを、抱き締めるように。
「……会いたいな」
――こうして二人の新しい朝は始まった。
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