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29. 礼司の秘められた想い
しおりを挟むやがて私は深く息を吐き、ゆっくりとリビングへ戻る。
まだクロワッサンの甘い香りが微かに残るテーブルの上の食器を片付けながら、自然と微笑んでしまった。
(……礼司さん、ちゃんと食べてくれた)
それが、何よりも嬉しかった。
キッチンで食器を洗い終え、ふとリビングのソファーに腰を下ろす。ゆっくりとした時間。
窓から差し込む朝の光が、静かに絨毯を照らしている。
(……こんなに心が穏やかな時間、初めてかも)
そう思った。
かつての私は誰かに遠慮したり、傷付くのを恐れて何も言えないまま、ただ静かに微笑んでいるだけだった。
けれど今は違う。ちゃんと気持ちを伝えられた。礼司さんに向き合えた。
(……すごいな、私)
誰にも聞こえないように、そっと心の中で呟く。
――その時だった。テーブルの上に置いたスマートフォンが、微かに震えた。バイブレーションの音が、静かな部屋に小さく響く。
「誰?」
急いで画面を覗き込む。そこには、『礼司さん』の名前が表示されていた。
「何かあったの⁉︎」
心臓が跳ねる。だって出勤してから、まだそんなに時間は経っていない。なかなかアプリが立ち上がらないのをもどかしく思いつつ、メッセージを開く。
『体調、聞くの忘れた』
(……っ)
たったそれだけの短い言葉なのに、胸がきゅうっと締め付けられる。画面を見つめながら唇が自然と綻んだ。
でも、それだけじゃない。すぐにもう一通が届く。
『朝食、美味かった。また頼む』
(礼司さん……)
思わず、スマートフォンを胸にぎゅっと抱き締めたくなった。そして、最後に――追い打ちをかけるように、もう一通。
『昨日の静香、すごく可愛かった』
(……ッッ)
読んだ瞬間、顔から火が出そうになる。頭の中が一瞬で真っ白になった。
(な、なんでそんな、破壊力のあること送ってくるの……!)
ソファーにうずくまりながら、手にしたスマートフォンをぎゅっと握りしめる。でも、どうしてもひとりでに浮かぶ笑顔を抑えられなかった。
(……嬉しい)
指先が、ふるふると震える。嬉しくて、恥ずかしくて。
(……すぐに会いたい)
小さく心の中で呟く。窓の外にはもうすっかり青空が広がっていた。
まるで世界そのものが、私達を祝福しているかのように。
朝の掃除を一通り終え、私はふと、礼司さんの寝室に目を向けた。
(たまにはここも掃除しようかな)
いつも礼司さんが丁寧にしているけれど、それでも手の届かない場所はきっとあるはず。
いつでも入っていいと言われていた。これまではそれでも少しだけ躊躇っていたけれど、今朝の穏やかなやりとりを思い出して、そっと扉に手を掛けた。
寝室は、礼司さんらしくきちんと整えられていた。無駄なものは置かれていない、すっきりとした空間。
けれど、その整然とした静けさが、どこか胸に沁みる。
(……やっぱり、綺麗)
ベッドリネンを整え、床にモップをかけ、そして最後に本棚の上へと手を伸ばした。
少し背伸びをして、モップを滑らせる。
(……埃、けっこう溜まってる)
そう思いながら、手元を動かしていたその時だった。カツン、と何か硬いものにモップが当たる感触がしてハッとする。
「何……?」
覗き込む間もなく、黒っぽい箱が本棚の上からコロンと転がり落ちるのが目に入った。それは軽い音を立てて、床に中身を散らばせる。
(あ……!)
慌ててしゃがみ込む。そこにはシンプルな、黒い箱。その中身が、無造作に床へ散らばっていた。
細い麻紐でまとめられた写真の束。丁寧に畳まれた、小さな便箋。赤いリボン。少しくたびれた小さな箱。封筒に入ったメッセージカード。
(……何、これ)
胸がざわつく。理由もなく息を呑んだ。そっと写真を拾い上げる。
罪悪感よりも先に、好奇心が勝ってしまった。
そこに写っていたのは大学時代の──私だった。
大学時代、笑顔で無防備に笑っている私。真剣な眼差しで本を読んでいる私。道端で見つけた猫と戯れ合う私。
(……こんな写真、私も持ってない)
礼司さんが撮ってくれていたのだ。言葉にも態度にも出さず、ひっそりと、こんな風に。
次に、そっと便箋に手を伸ばす。綺麗な字で、丁寧に折られた手紙には、『静香』の文字があちこちに散りばめられていた。
勝手に見るのはダメだと思いつつ、自分の名前に吸い寄せられるかのように、一通開いてみる。
『静香へ』
それだけで、もう涙が滲みそうだった。
インクが滲んだその跡に、礼司さんのためらいが滲んでいるようで胸が苦しくなった。
ひとりでに震える指先で便箋を持ち、読み進める。
『ごめん。どうしてももう一度だけ伝えたかった。今もずっと、静香が好きだ。別れの理由が知りたいとか、責めたいとか、そういうんじゃない。ただ君がいなくなって、呼吸の仕方さえ分からなくなった。』
『君が幸せならそれでいいって言える自信がない。本当は誰よりも隣にいたかった。静香、君が笑っていられる場所に、俺もいたかった。』
「礼司さん……、っ」
声が詰まる。胸の奥が痛いくらい締め付けられる。
「ごめん……なさい」
知らなかった。六年前、私だけが苦しかったんじゃなかった。あの時、礼司さんも同じくらい──いいえ、もしかしたらそれ以上に苦しんで、それでも私を想ってくれていたんだ。
床に散らばった他の手紙にも、同じような想いが綴られていた。何度も、何度も書いては、一度も送られることのなかった手紙たち。
(……伝えられなかったんだ)
言えなかったんだ。私を傷付けたくなくて、自分が傷付くのが怖くて。
「だから、しまい込んだままだった……」
少し傷んだ小さな箱を、そっと手に取る。
この箱に掛けられていたであろう赤いリボンは、手紙と一緒に大切そうに保管してあった。
そして白い箱は何度も開けられたような、そんな印象を受ける。
メッセージカードの封筒には、『静香へ』という文字があり、何かに誘われるようにカードを取り出した。
『二十一歳の誕生日おめでとう』
一緒に迎えられなかった、二十一歳の誕生日。あと二ヶ月で迎えられたその日を、礼司さんは早くから準備してくれていた。
もう自然と手が動いた。後で怒られたっていい。正直に謝ろうと決めて箱を開けると、中には――シンプルな細い銀のブレスレットが入っていた。
どこにでもあるような、だけど、どこまでも優しいデザイン。
そう──大学生だった私に似合いそうな、愛らしいもの。
涙が零れた。嗚咽を堪えきれずにそのまま床にしゃがみ込んで、ブレスレットを胸に抱き締めた。
「知らなかったの……こんなにも、こんなにも、愛されていたなんて……っ」
子どものように泣きじゃくる。便箋も、箱も、次々と溢れてくる涙で濡れてしまった。
(……ありがとう、礼司さん)
心の中で、そっと呟く。あなたにこんなにも大切にされていたなら、もう二度と自分を疑ったりしない。
彼を信じて、自分を信じて、これからは彼と一緒に強く生きていこう。
そう、静かに誓った。
昼食は喉を通らなかった。胸がいっぱいで、でも幸せで。
早く礼司さんに会いたいと願いながら、夕食の支度をする。
──そんな時だった。静かに玄関のドアが開く音がした。
「礼司さんだ……!」
考えるより先に、玄関へと駆け寄った。
そこにいたのは朝と同じ、スーツ姿の礼司さんだった。私が締めたネクタイを少し緩めながら、眼鏡越しの穏やかな瞳が驚いたようにこちらを見る。
「どうした? 静香」
たった一言なのに。
その声を聞いただけで、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「礼司さん……っ!」
気が付いたら、私は彼の腕の中へ飛び込んでいた。突然のことに更に驚いたように、礼司さんの身体が少しだけ強張る。
けれどすぐに、あたたかく、強く、優しく、私を抱き締め返してくれた。
「おかえりなさい……っ」
胸に顔を埋めて、ぎゅっと両手で彼の背中を掴む。しゃくりあげてしまいそうなほど、感情が溢れ出してしまった。
「どうした?」
再び、低く掠れた声が、頭上から落ちる。それでも私は顔を上げられなかった。顔を見られたら、きっと、泣き顔がひどいから。
「……ごめんなさい……」
やっと絞り出した声は、掠れて震えていた。でも、本当に言いたかったのは、謝罪じゃない。
(ちゃんと……伝えないと)
震える手で、礼司さんのシャツをぎゅっと握る。そして顔を上げた。涙に滲んだ視界の向こうで、礼司さんが静かに、不安そうに私を見つめていた。
私はまっすぐに彼を見る。そして言った。
「あなたがこんなにも私を想ってくれていたこと。こんなにも、愛してくれていたこと……知ってしまいました。本当に、ありがとうございます……これからは私が……あなたを幸せにしたい」
一言一言、心を込めて。感謝と、愛情と、これからを生きる誓いを込めて。
私は腕に付けたブレスレットを見せる。
「それ……」
礼司さんの瞳が静かに揺れた。何も言わずに、ぎゅうっと私を抱き締める腕に力がこもる。
「見たのか……」
悪戯がバレてしまった少年のような、そんな声色。大好きな声で私の名前を呼んで、そしてこめかみにそっとキスを落とされた。
あたたかくて優しくて。胸の奥に沁み込んでいく。
「……ありがとう、静香」
震える声が、頭上で囁かれた。
「……お前が、そう言ってくれるだけで……もう、全部、救われた」
私も涙ぐみながら微笑んだ。これからはもっとたくさん笑い合いたい。もっとたくさん、愛し合いたい。
礼司さんの胸に顔を埋めながら、そっと目を閉じた。世界で一番大切な場所に包まれているようだった。
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