政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

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30. 勇気を貰える再会

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 礼司さんを仕事に見送ってすぐ、麗子さんから突然連絡が入る。
 
 これまでも麗子さんは急に連絡を寄越しては、買い物の荷物持ちや代理で行列に並ぶなどの用を言いつけられることがあった。

 私は礼司さんのお母さんに少しでも良く思ってもらいたい、その一心で、何をおいても駆けつけるようにしている。
 
『今日、あなたもこちらへいらっしゃいな』

 珍しく、それだけを短く告げられた。行き先は、都内でも有数の歴史ある庭園。由緒正しい格式を誇る、和の空間。

 事情も詳しく知らされないまま、私は手持ちのワンピースの中でもなるべく清楚に見えるものを選び、控えめなメイクとアクセサリーで身支度を整える。

(麗子さんは洋装で来なさいと言ったけど……大丈夫かな)

 そう不安に思いながらも、呼び出しに逆らう術はない。約束の時間に遅れるのは絶対に避けなければならないので、とにかく急いで向かった。



 タクシーを降りると、すぐに緑の香りが鼻をかすめた。
 目の前には、都心とは思えないほど豊かな自然が広がっている。

 待ち合わせの時間より少し早く着いた私は、足元に気をつけながら、木々の間を抜ける小道を進んでいく。しっとりと湿った石畳に、時折、赤や黄色の落ち葉が散っている。

(……秋だな)

 ふと立ち止まり、息を吸い込む。少し冷たくなった空気が、胸の奥に心地よい痛みをもたらした。

 園内の奥へと進むにつれて、静かな水のせせらぎが耳に届く。やがて、見えてきたのは一棟の平屋。
 
 黒塗りの梁と白い壁、端正な佇まい。建物の前には大きな池が広がり、鏡のように空と木々を映していた。
 水面に映る紅葉が、風に揺れるたび、きらきらと儚げにきらめいている。

(きれい……)

 思わず呟きそうになるのを堪えて、そっと履き物を脱ぎ、敷居をまたいだ。

 内部は、畳敷きの広々とした座敷になっていた。
 障子を通して柔らかく差し込む光。磨き上げられた木の柱。余計な装飾はないが、そのすべてが静かで美しかった。

 奥には、琴が一面に並べられた空間が用意されていた。
 広い畳の間に、いくつもの琴台が低く置かれ、それぞれが大切に扱われているのがわかる。

 音がまだ何もない、しんとした空気。それなのに、琴たちはまるで今にも奏で出しそうな、張りつめた存在感を放っていた。

 少し時間が経つと、平屋の外にはすでに上品な着物姿の女性達が集っていた。皆、明らかに名のある家の婦人方のようだ。

 明らかに場違い。もしこの中に麗子さんがいるのなら、洋装の私は浮いてしまうだろう。
 小さく頭を下げ、そっと周囲の視線をかわすようにして足を進める。

「遅いわね。間に合わないかと思ったわよ」

 鋭い声に顔を上げると、そこに麗子さんが立っていた。金糸をあしらった見事な訪問着。手には檜扇を持ち、すっかりこの空間に溶け込んでいる。

「申し訳ありません」

 中で待っていた、などと言い訳は禁物。慌てて頭を下げる私を、麗子さんは冷たく一瞥した。

「まあいいわ。あなたは一応、芹沢家の嫁ですもの。今日は粗相のないように振る舞いなさい」

 そう言いながら、私の服装にちらりと冷ややかな視線を向ける。
 麗子さんの近くにいた三人のご婦人も、私の方を見てクスクスと笑い声をあげていた。

(やっぱり……和服じゃないこと、責められてる)

 心の中で肩を落としながら、麗子さん達の後に続いて再び平屋の中へ。
 どうやら今日は、麗子さんたちが主催する『和歌の会』だったらしい。
 名家の婦人方が即興で和歌を詠み、それを披露し合うというもの。

(そんなこと、聞いてない……)

 和歌を嗜んでいない私は、ただ静かに立ち尽くすしかなかった。

 

 しばらくして、順番に和歌が詠まれ始めた。秋の景色、移ろう心、恋慕や憂い――美しい言葉たちが、涼やかな声で座敷に響く。

 けれど、いざ私の番になると、空気が微妙に変わった。

「静香さん? あら、どうしたのかしら?」

 麗子さんがわざとらしく微笑む。

「ああ、和歌がお出来にならないのなら、あちらの琴でも弾いてみたらどう? 何か代わりの一芸を披露しなきゃ、芹沢家の嫁としては失格。私も肩身が狭いわ」

 麗子さんの周りの方々は、皆私の方を見て「麗子さんが気の毒だわ。一人息子の嫁が常識も知らない方だなんて」などと言って嘲笑を浮かべていた。

(このままじゃ、礼司さんまで悪く言われてしまう)

「さあ、早くなさいな」

 そう言って麗子さんが顎をしゃくった先には、座敷の奥に置かれた琴。
 庭園のイベント用に用意されてたのだと思われるそれを、彼女は示した。

(……ここで、弾くの?)

 畳に膝をつき、そっと琴の前に座る。少しだけ弦に指をかけると、控えめな音が鳴った。
 その小さな響きだけで、周囲の空気がふわりと震えた気がした。

 私は内心この棘だらけの場所から逃げ出したくて、手や足が自然と震えてしまう。でも、逃げたくなかった。

(……大丈夫。落ち着いて)

 胸の奥で小さく呟き、私は深く一つ息を吐いた。
 まるで、ここに広がる静けさと、少しだけ心を通わせるように。

(昔……母に、習ってた)

 琴の音を愛していた母。母一人子一人で過ごす毎日の中で、時々お休みの日に聞かせてくれた琴の音色。そして心の底から楽しそうに琴を弾く母の姿が、心に浮かんだ。

「……弾いてみます」

 小さく答え、琴の前に膝をつく。指先で静かに弦に触れた。

(懐かしい……この感じ)

 そして――音が流れた。静かに、深く。秋風に乗るように、優しい旋律が庭園に満ちていく。

 緊張で震えそうになる心を押さえ、私はただ、胸の奥から湧き上がる想いを音に乗せた。

 誰に媚びるためでも、誰かに認められるためでもない。

 ただここにいる自分を、真っ直ぐに表現したくて。礼司さんの名誉の為に、丁寧な旋律を奏でる。

 誰も言葉を発しなかった。麗子さんも、他の婦人方も。けれど、思いがけない方向から声がした。

「あら、素敵なお琴の音色ね」
 
 視線を感じて顔を上げると、平屋から少し離れた場所に、上品な和装の一団が佇んでいるのが見えた。
 輪の中心にいる、気品ある女性と目が合う。そして静かに微笑み、周囲にいる婦人方を促してこちらへと近寄ってきたのだった。

 その方は細い銀の簪を挿し、浅葱色の友禅を纏った、凛とした老女。気品、威厳、それでいてどこか優しさを秘めた佇まいは本当に素敵で……。

 場の誰もが自然と頭を下げる不思議な雰囲気に、隣の麗子さんも他の婦人方も、ぼうっとその女性を見つめている。

「朱鷺子様……!」

 まず初めに静寂を破ったのは、麗子さんだった。

「朱鷺子様、朱鷺子様ですわよね⁉︎ まさかこんな所でお会い出来るなんて!」

 他の婦人方も次々と『朱鷺子様』と呼ばれた老婦人の方へと集まっていく。
 私は一人琴の傍でじっとしていた。

 そんな私を忘れてしまったかのように、麗子さんは巧みに立ち回る。柔らかな笑顔を振りまき、さりげなく取り入ろうとする姿は社交界では必要なスキルなのかも知れない。

(私には無いもの……)

「まあ、朱鷺子様の今日のお着物、なんて素晴らしいお色……あぁ、朱鷺子様に直にお目にかかれるだけでも幸運でございますわ」

 賛辞をしなやかに繰り返す麗子さんを横目に、朱鷺子様と呼ばれた方は真っ直ぐにこちらへと歩み寄って来る。

(あれ……?)
 
 私は思わず目を見開いていた。

(この方……)

 どこかで、見たことがある気がする。記憶の片隅に、柔らかな声で話しかけてくれた女性の面影が蘇る。祖父と随分親しかった、あの人……。

「……静香さん」
「え……」

 突然名を呼ばれた。驚いて思わず短い疑問の言葉を放ってしまう。

「私よ。ほら、『トキちゃん』」

 優雅な微笑み、確かに見覚えがあった。幼い頃、祖父と共にお茶を飲んだり、私に茶道を教えてくれた優しい女性。祖父は『トキちゃん』と呼んでいた。
 
 まだ幼かった私が緊張で手を震わせると、そっと手を添えて、「大丈夫よ」と微笑んでくれた――あの時のお茶の先生。

朱鷺子ときこ先生……!)

 名前を思い出した途端、目の前の霧がすっかり晴れたのように、あの時のことが鮮明に思い出される。

「ねぇ、静香さん。覚えていらっしゃるかしら。あなたがまだほんの小さな頃、少しだけ茶道をお教えしたことがありましたね」

 朱鷺子先生の声は、変わらず穏やかだった。

「朱鷺子、先生……ですか?」

 自然と、そう呼んでしまっていた。周囲の方々が驚嘆の表情を浮かべる。

「まさか……白河様と知り合いなの?」
「朱鷺子様と……?」

 そんな声があちこちから耳に届く。
 
「まあ……」

 朱鷺子先生がそっと声を漏らす。にっこりと笑みを浮かべて、眦の皺が深くなった。

「覚えてくれていたなんて。嬉しいわ。静香さんの琴の音色、素晴らしかったわよ。琴の名手と言われた佳子ちゃんの血を引いているのね」

 その言葉に祖父との思い出や母との思い出、そして朱鷺子先生との時間から思い起こされて、胸がいっぱいになる。

「ありがとうございます。朱鷺子先生」

 麗子さん達は、驚いたような顔でこちらを見ている。私と朱鷺子先生が知り合いだとは思いもよらなかった様子だった。

「佳子……ってまさか……」
「野々宮の……?」

 周囲のざわめきなど気にしないという風に、朱鷺子先生は再びにっこりと微笑んだ。真っ白な髪を丁寧に結い上げた、とても素敵な女性。
 彼女は一瞬だけ周囲を見渡し、和やかに微笑みながら、静かに声を落とした。
まるで、この場にいる誰よりも、ただ私にだけに語りかけるように。

「ねぇ静香さん、今度私の茶会に是非いらっしゃいな。『白華の集』へ。あなたなら大歓迎よ」
 
 その声には、先程まで麗子さんや婦人方に向けていた社交的な笑みとは違う。あたたかく包み込むような親しさと、幼い頃を知る者だけが持つ、深い慈しみが滲んでいた。

 まるで私の過去も、今も、未来も、すべてを受け入れると言ってくれているような──そんな優しさだった。
 
 それとは対極的に、空気が一瞬静まり返った。凍りついたような、ピリピリと肌を刺す緊張感が辺りに漂う。
 皆朱鷺子先生の一挙手一投足、一言一言に耳を澄ませているのだ。

 私が何か答えようとして、考えている隙に麗子さんが慌てて声を上げる。

「と、朱鷺子様……っ、私も……静香さんの義母として、ご一緒させていただいても?」

 周囲が、ハッと息を呑んだような気配がした。それにもかかわらず、朱鷺子先生はふわりと微笑んだままで頷く。
 恐らく七十五歳くらいになられると思うのに、背筋をピンと伸ばし、和服の似合うその姿は唯一無二の凛とした美しさを感じさせた。

「構いませんよ。静香さんといらっしゃって」

 朱鷺子先生の微笑みは、まるで湖面に落ちる小石のようだった。
 麗子さんが安堵の息をつく。その隣で私はただ、胸の前でそっと手を握り締める。

(本当に……懐かしい。また朱鷺子先生に会えるなんて……思ってもみなかった)

 祖父の葬儀には膨大な数の参列者が訪れた。私も気が動転していたし、朱鷺子先生が来ていたかどうかも定かではない。
 だからこそ、今日の再会は本当に嬉しかった。

 つい先程までの嫌な感じや緊張感など忘れてしまうほどに、朱鷺子先生との再会は私にとって大きな勇気を貰える出来事だった。



 
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