政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

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31. 激情の狭間で(礼司side)

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 今日は、珍しく帰宅が遅くなる。取引先との急な会食が入った。
 静香には早めに連絡を入れて、夕食は外で済ませておいてもらうことにする。

(静香を一人ぼっちで待たせるのは、心苦しい)

 そう思いながらも、どうしても断れない席だったことが悔しい。
 
 午前中、スマートフォンに届いた静香からの短いメール――『これから、麗子さんと六義園に行ってきます』という文字を見た瞬間から、胸の奥でずっと何かが軋んでいた。

(……また呼び出されたのか)

 苛立ちは隠せなかった。仕事中にもかかわらず、ずっと気が散って仕方がなかった。

 だが、それ以上に胸を締め付けるのは、静香が何も言わず、ただ黙って受け入れていることだった。

(……あの人の無遠慮な言動に耐えてるんだろうな)

 それを思うだけで、怒りが血液を煮えたぎらせる。
 静香にだけは、絶対に、あんな冷たいものに晒したくないのに。

 実のところ、母は静香自身を嫌っているわけじゃない。『野々宮』を、『野々宮佳子の娘』を受け入れられない人だった。
 
 かつて芹沢典久の妻として選ばれた佳子さん。けれど佳子さんは父を選ばなかった。父はいまだに名家出身で美しい佳子さんと母を比べては溜息をつくような人だ。

(芹沢の事情で静香を傷付けていいわけない)

 芹沢の名前すら捨てて、どこかで静香と二人暮らせたらどんなにいいか。
 だが――今は芹沢すらも利用しなければ、俺自身の力では静香を守りきれない。

(情けない……)

 堪えきれず、席を立つ。

「副社長、外出ですか?」
「少し抜けるだけだ。会食までには戻る。急ぎの案件は秘書課で処理しておけ」

 振り向きざま、鋭い声で言い残し、会社を出た。

 もちろん電話でも良かった。無理に『彼女』に会いに行かなくても。
 ただ、直接頭を下げて頼みたい。それが今の俺に出来ることだから。
 
 向かった先は、――白河朱鷺子。あの、社交界を動かす女帝のような存在。

 父も母も彼女との繋がりはごく薄い。しかし俺は以前から彼女のことを知っていた。
 何度も言葉を交わし、秘密を共有した仲だ。

(……あの人は正しかった)

 胸の奥に、今はもう会えない人物の面影が一瞬だけ過る。だが、それを表に出すことはしなかった。

(……頼む、朱鷺子さん)

 そう胸の中で呟いた。
 
 静香を、針の筵のような場所で一人にしたくなかった。けれど男である自分には、女だけの戦場では力になれないことも、痛いほど分かっている。

(俺が触れられないなら、守れないなら……代わりに『味方』を)

 車を発車する寸前、静かに目を閉じ、深く息を吐く。しっかりと激情を抑えつけてから、向かうべき場所へと急いだ。

 

 ――そして夜。
 
 日付が変わってすぐくらいに帰宅すると、静香は部屋着に着替えていつものように待っていた。小さな身体をソファーに沈め、どこかふわりと嬉しそうな顔でこちらを見上げる。

「おかえりなさい、礼司さん。遅くまでお疲れ様でした」
「寝ずに待っていてくれたのか。遅くなったのに、すまない」
「……だって、礼司さんをお迎えしたかったから」

 柔らかい声。それだけで、張り詰めていたものが一気に緩む。鞄もジャケットもその場に置き去りにして、静香のもとへ歩み寄った。

 彼女は何も疑うことなく、素直に微笑んでくれる。

(ああ……やっぱり、こいつは何も言わないんだな)

 怒りか、悲しみか、それとも本当に無垢なものを目の前にした興奮か……指先が震えそうになる。
 どれだけ傷付けられても、耐えて、微笑んで。それがどれほど痛々しいものか、静香自身はきっと気付いていない。

(俺に、もっと甘えてくれ。全て受け止めるから)

 心の中で必死に叫びながら、そっと静香の頬に手を伸ばした。
 滑らかな肌にそっと指を這わせる。温もりを確かめるように指先で撫で、身体を抱き寄せた。

 壊してしまわないように。細い肩をそっと、だけど絶対に離れないように、慎重に腕を回す。

「昼間……どうだった」

 低く、掠れた声が自分の口から漏れる。激情を必死に押さえ込んだ、精一杯の声だった。

 静香は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにニコリと微笑んだ。

「とても素敵な方に会ったんです……覚えてますか? 私が小さい頃に少しだけ、お茶を教わっていた『トキちゃん』。お祖父様の幼馴染の……」

 その名前を聞いた瞬間、礼司は静かに目を伏せた。

(……朱鷺子さん)

「その朱鷺子先生が……偶然そこにいらして。それですごく懐かしくて、嬉しくて」

 嬉しそうに話す静香の声が、胸に沁みる。けれどその奥では、怒りが密かに煮えたぎっていた。

(……あの女達に、静香が晒されることさえなければ)

 本当なら、こんな思いをさせたくなかった。けれど――それでも静香が笑えるなら。必死で堪え、牙を隠すしかない。

 ぐっと静香を引き寄せ、抱き締めた。

 小さな体が、胸の中にすっぽりと収まる。その存在を感じるだけで、どうしようもない衝動が湧き上がった。

(……静香が俺のものであるって、骨の髄まで刻み込みたい)

 けれど、そんな願望を押し隠し、ただ黙って抱き締める。触れただけで、壊れてしまいそうなほど繊細な静香。

 それを守れなかった自分の無力さが、堪らなく悔しかった。抱き締めた腕に、ぎゅっと力が入る。

 けれど、これ以上力を込めたら、静香を怖がらせてしまう。だから、ほんの少しだけ力を緩めた。静香が安心できるくらいの、優しい強さで。

 彼女は小さな手で、そっと俺の背中を抱き返してくれた。

(……こんなにも、愛おしい)

 喉の奥から呻き声が漏れそうになるのを必死に堪える。彼女は何も知らない。

「……偉かったな」

 耳元で、誰にも聞かれないように、低く囁いた。自分でも驚くほど、震えるような声だった。
 何も知らない静香はくすぐったそうに、けれど嬉しそうに肩に顔を寄せる。

(こんなにも、愛らしい)

 今すぐにでも、全てを奪い去ってしまいたい。もう誰の目にも触れさせたくない。この世で自分だけのものにしてしまいたい。

 小さな頭を撫でる。細く、柔らかい髪が指に絡まる度に、理性が軋んだ。
 
 撫でられるうちに、静香の瞼がだんだんと重くなり、微かに体を預けてくる。それがまた、たまらなく愛おしい。

(このままどこかへ攫ってしまいたい)

 そんな衝動を必死で押し殺す。静香の無垢な笑顔を、曇らせたくなかった。
 何とか抱き締めるだけで堪える。美しく繊細な羽を持つ、静香が壊れてしまわないように。

「れいじ……さん?」

 疲れているのだろう。随分眠そうなのに、不安そうに名を呼ぶ声。
 その声が、静かに怒りを溶かす。大丈夫だと、静香の髪を撫でた。細く柔らかい髪を指先でゆっくり梳かす。

(……お前が、ここにいてくれるだけでいい)

 背中を、肩を、首筋を、そっと撫でる。少しでも多く触れて、静香の存在を自身の身体に沁み込ませるように。

「……可愛過ぎる」

 指先で頬を撫で、唇に触れそうな距離まで顔を寄せる。けれど、キスはしなかった。今触れたら、自分が何をしてしまうか分からなかったから。

(無垢なお前が、俺をこんなにも狂わせる)

 自分でも気付かないほど、静かに笑っていた。

「大丈夫。俺がいるから」

 耳元で、低く、甘く囁いた。静香は俺のこの声が好きだと言う。分かっていて、わざと静香好みの声で囁く。言葉に込めたのは、誓いだった。

 うつらうつらしていたはずの静香が顔を赤らめる。それすらも今の俺には堪らなかった。

 自分よりも少し高い体温を感じながら、細く柔らかな髪に指を滑らせていると、彼女は小さく身を寄せ、再び重たそうに瞬きを繰り返した。

(……眠いんだな)

 無理もない。今日一日、気を張っていたに違いない。こんな小さな身体で、どれだけ耐えてきたのか。

「寝ていい」

 掠れる声で囁くと、静香は少しだけ躊躇ったあと、そっと目を閉じた。縋るようにシャツを掴んだ手が、次第に力を失い、指先から静かにほどけていく。

 瞬間、胸が詰まった。俺に全てを預けるように、力を抜いて寄りかかる彼女の温もりがあんまり心地良くて。

 そっと腕を差し入れ、抱き上げる。

 驚くほど軽い。軽過ぎて壊れてしまいそうで、自然と抱き締める腕に力がこもった。

(……こんなに細い体で、今日も、笑って……)

 静香の甘い体温に包まれていると、理性が焼き切れそうになる。堪えきれない昂りが、身体の奥から沸き上がった。

(……駄目だ)

 こんな状態の静香に、何かできるはずがない。彼女が自分から求めてくるまで、絶対に手を出すわけにはいかない。

 それでも、腕の中の彼女の柔らかさが、香りが、全身を苛む。たった一つ息を吐くだけで、喉が渇く。
 静香の呼吸が俺の胸をくすぐるたび、理性がじりじりと焼かれていく。

(……どれだけ、欲しいと思っても)

 静香の眠る横顔を覗き込み、そっと額にキスを落とした。胸に触れる呼吸が、徐々に静かに、深くなっていく。

「……おやすみ」

 愛おしさと、満たされない欲望を、そっとキスに込める。それだけで、今夜は耐えようと決めた。

 静かにベッドへ静香を横たえ、毛布を掛ける。ふいに肩へ触れた指先に、彼女の温もりがいつまでも残って離れなかった。

 眠った静香は、まるで子どもみたいだった。無垢で、無防備で――俺だけのもの。

「また明日……」

 小さく呟いて、そっと寝室を後にする。馬鹿馬鹿しいけれど扉を閉めるときに名残惜しくて指先が震えた。

(……静香、お前の為なら……俺はどこまでも卑怯者になってやる)

 夜の闇に誰にも届かない誓いを立てながら、俺は深く目を閉じた。
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