【完結】婚約破棄に祝砲を。あら、殿下ったらもうご結婚なさるのね? では、祝辞代わりに花嫁ごと吹き飛ばしに伺いますわ。

猫屋敷 むぎ

文字の大きさ
10 / 35

第十話 深淵を覗く影

しおりを挟む
王城から数街区離れた、裏通りの奥。

昼なお陰が濃い石畳には人の気配もなく、かすかな露の跡だけが残されていた。
その静けさを裂くこともなく、一人の男が歩く――
銀の仮面に、黒の燕尾服。

鋭くも冷たい眼差しを、その奥に隠しながら。

クラウス・フォン・ノイバウンシュタイン。

かつて王家直属の“影”としてあった男。
今はただ、ある令嬢に仕える一執事。

だが今夜は――そのどちらでもない。
“国家にとって危険と見なすべき女”の正体を、洗うために動いていた。

彼が足を止めたのは、街の外縁に近い王都記録院。

王城とは別に、戸籍や人口管理記録が集約される場。

昼夜問わず衛兵に守られ、許可なき者は立ち入り禁止。
だがクラウスにとっては、衛兵や鍵など紙より軽い。

角灯の火が乾いた風で揺れ、衛兵の視線が一瞬だけ炎に吸い寄せられる。
その揺れを待って、靴底を石目に平行に置く。革が鳴らない角度だ。

右の衛兵が槍を持ち替えるくせ――柄尻が床を打つ間合いが四拍。
三拍目で柱の影から抜け、四拍目の音に足音を重ねる。

扉の前に立つ頃には、鎧の金具がまた一度だけ鳴った。
そこに残ったのは、冷えた空気だけだった。

錠前に触れる指先が一度だけ止まり、革手袋の指を外して金属に耳を寄せる。
小さな舌打ちのようなバネ音。――解錠は、それだけでよかった。

誰にも気づかれず、誰にも声をかけられず、彼は裏手の木製扉をくぐり抜け、無音のまま書庫へと滑り込んだ。

中は冷えきっていた。
湿り気はなく、乾いたインクの古臭さが鼻腔を刺す。
手にした帳簿の端は、乾ききった革のようにパリ、と音を立てた。

「……フェリシア・ルーン」

彼は女の名を口の中で転がしながら、棚を探る。
“地方の商家出身”という公式説明――しかし、その痕跡はまるで布で塗り潰されたかのように不自然だった。

――家族の記録なし。
――出生地の村は火災で消失。
――唯一残された雇用記録も、今年に入って突然出現。

「偽装か……それとも、“人物”自体が存在していない……?」

クラウスの指先が、ほんのわずかに止まる。
妃候補として、これほど“空白に満ちた女”は見たことがない――一言で言うなら“異物”。

まるで、誰かが“精密に造形された美しい娘”を――
この王国に後から差し込まれたような、不自然な継ぎ目。

だが、クラウスの眉は動かない。
ただ淡々と、手紙でも手に取るかのように、記録を抜き取る。

彼にとって、正体などどうでもよかった。
重要なのは、“主”に災いをもたらす存在か否か。

「この歪みは、リシェルお嬢様を貶めるだけのためには過ぎた手際。……“偶然”とは考えにくい」

女の正体は不明――だが、背後に何らかの“意志”があるのは間違いない。

それが“誰の意志”かを確かめるには、まだ材料が足りない。

クラウスは最後に二冊、別の帳簿を引き抜いた。
王都に出入りした旅人の記録台帳。
それから、とある劇場の演者のリスト。

セドリック王子が頻繁に通っていたという、南区の劇場――
王子の気まぐれ癖は、こういう場所にこそ表れる。

「……“ミレイ”という名。三ヶ月前から複数回。舞台演者としての登録」

名義が異なる。フェリシアではなく、ミレイ。
だが、身長、髪、瞳の色、年齢――。
照合項目は一致する――“今のところは”。

「変名、あるいは立場の使い分け。」

女はただの平民の娘ではない。
貴族でもない。
“何か”を演じるために生み出された存在――
造られた“物語”。もし、本人すら、その配役に気づいていないのだとしたら……

誰にも聞かせるつもりもない声で、彼は呟いた。

「ならば、そろそろ“化粧”を剥がして差し上げねばなりませんね」

紙の山を整え直し、何も盗らず、痕跡も残さず――
クラウスは記録院を後にした。

クラウスが扉を出ると、夜風に燕尾をなびかせたそのとき――
空気が、わずかに“鳴った”。

気のせい、と流すには重すぎる気配。
彼はすぐに歩みを止め、振り向かずに低く問いかける。

「……どなたです?」

返事はなかった。
けれど――小さく息を吐くような音に紛れて、声が届いた。
男とも、女ともつかぬ、けれど背筋に触れるような声が。

「深淵を覗く者を、深淵もまた覗いていますわ――お忘れなきよう」

ほんの一瞬、世界が冷えた気がした。
夜の闇さえ、その言葉を聞き逃すまいと耳を澄ます。

黒燕尾の裾が、風もないのにふわりと揺れる。
前を向いたままの仮面の奥の双眸が、冷ややかに暗がりを見据えた。

「――お嬢様の安寧を脅かすものならば、たとえ深淵とて、容赦はいたしません」

低く、しかし凛とした声。
氷の刃のような静けさが、空気を切り裂く。

ほんのひとかけ、気配が揺れた。

だが、次の瞬間にはすべてが消えていた。気配も、風も。

「……気のせいではなさそうですね」

振り返ることもなく――
仮面の奥で目を細めながら、クラウスは静かに歩き出す。

夜風が、燕尾の裾をわずかに揺らす。
その背に勲章はなく、栄誉もない。
ただそこには、王国で最も冷たく、鋭い刃が静かに息づいていた。

そして風は止み、王都の夜は静けさに沈んでいく。――闇の気配を孕んだまま。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私がいなくなっても構わないと言ったのは、あなたの方ですよ?

睡蓮
恋愛
セレスとクレイは婚約関係にあった。しかし、セレスよりも他の女性に目移りしてしまったクレイは、ためらうこともなくセレスの事を婚約破棄の上で追放してしまう。お前などいてもいなくても構わないと別れの言葉を告げたクレイであったものの、後に全く同じ言葉をセレスから返されることとなることを、彼は知らないままであった…。 ※全6話完結です。

王子の片思いに気付いたので、悪役令嬢になって婚約破棄に協力しようとしてるのに、なぜ執着するんですか?

いりん
恋愛
婚約者の王子が好きだったが、 たまたま付き人と、 「婚約者のことが好きなわけじゃないー 王族なんて恋愛して結婚なんてできないだろう」 と話ながら切なそうに聖女を見つめている王子を見て、王子の片思いに気付いた。 私が悪役令嬢になれば、聖女と王子は結婚できるはず!と婚約破棄を目指してたのに…、 「僕と婚約破棄して、あいつと結婚するつもり?許さないよ」 なんで執着するんてすか?? 策略家王子×天然令嬢の両片思いストーリー 基本的に悪い人が出てこないほのぼのした話です。 他小説サイトにも投稿しています。

愚か者が自滅するのを、近くで見ていただけですから

越智屋ノマ
恋愛
宮中舞踏会の最中、侯爵令嬢ルクレツィアは王太子グレゴリオから一方的に婚約破棄を宣告される。新たな婚約者は、平民出身で才女と名高い女官ピア・スミス。 新たな時代の象徴を気取る王太子夫妻の華やかな振る舞いは、やがて国中の不満を集め、王家は静かに綻び始めていく。 一方、表舞台から退いたはずのルクレツィアは、親友である王女アリアンヌと再会する。――崩れゆく王家を前に、それぞれの役割を選び取った『親友』たちの結末は?

婚約破棄された地味伯爵令嬢は、隠れ錬金術師でした~追放された辺境でスローライフを始めたら、隣国の冷徹魔導公爵に溺愛されて最強です~

ふわふわ
恋愛
地味で目立たない伯爵令嬢・エルカミーノは、王太子カイロンとの政略婚約を強いられていた。 しかし、転生聖女ソルスティスに心を奪われたカイロンは、公開の舞踏会で婚約破棄を宣言。「地味でお前は不要!」と嘲笑う。 周囲から「悪役令嬢」の烙印を押され、辺境追放を言い渡されたエルカミーノ。 だが内心では「やったー! これで自由!」と大喜び。 実は彼女は前世の記憶を持つ天才錬金術師で、希少素材ゼロで最強ポーションを作れるチート級の才能を隠していたのだ。 追放先の辺境で、忠実なメイド・セシルと共に薬草園を開き、のんびりスローライフを始めるエルカミーノ。 作ったポーションが村人を救い、次第に評判が広がっていく。 そんな中、隣国から視察に来た冷徹で美麗な魔導公爵・ラクティスが、エルカミーノの才能に一目惚れ(?)。 「君の錬金術は国宝級だ。僕の国へ来ないか?」とスカウトし、腹黒ながらエルカミーノにだけ甘々溺愛モード全開に! 一方、王都ではソルスティスの聖魔法が効かず魔瘴病が流行。 エルカミーノのポーションなしでは国が危機に陥り、カイロンとソルスティスは後悔の渦へ……。 公開土下座、聖女の暴走と転生者バレ、国際的な陰謀…… さまざまな試練をラクティスの守護と溺愛で乗り越え、エルカミーノは大陸の救済者となり、幸せな結婚へ! **婚約破棄ざまぁ×隠れチート錬金術×辺境スローライフ×冷徹公爵の甘々溺愛** 胸キュン&スカッと満載の異世界ファンタジー、全32話完結!

婚約破棄され泣きながら帰宅している途中で落命してしまったのですが、待ち受けていた運命は思いもよらぬもので……?

四季
恋愛
理不尽に婚約破棄された"私"は、泣きながら家へ帰ろうとしていたところ、通りすがりの謎のおじさんに刃物で刺され、死亡した。 そうして訪れた死後の世界で対面したのは女神。 女神から思いもよらぬことを告げられた"私"は、そこから、終わりの見えないの旅に出ることとなる。 長い旅の先に待つものは……??

傷付いた騎士なんて要らないと妹は言った~残念ながら、変わってしまった関係は元には戻りません~

キョウキョウ
恋愛
ディアヌ・モリエールの妹であるエレーヌ・モリエールは、とてもワガママな性格だった。 両親もエレーヌの意見や行動を第一に優先して、姉であるディアヌのことは雑に扱った。 ある日、エレーヌの婚約者だったジョセフ・ラングロワという騎士が仕事中に大怪我を負った。 全身を包帯で巻き、1人では歩けないほどの重症だという。 エレーヌは婚約者であるジョセフのことを少しも心配せず、要らなくなったと姉のディアヌに看病を押し付けた。 ついでに、婚約関係まで押し付けようと両親に頼み込む。 こうして、出会うことになったディアヌとジョセフの物語。

不愛想な婚約者のメガネをこっそりかけたら

柳葉うら
恋愛
男爵令嬢のアダリーシアは、婚約者で伯爵家の令息のエディングと上手くいっていない。ある日、エディングに会いに行ったアダリーシアは、エディングが置いていったメガネを出来心でかけてみることに。そんなアダリーシアの姿を見たエディングは――。 「か・わ・い・い~っ!!」 これまでの態度から一変して、アダリーシアのギャップにメロメロになるのだった。 出来心でメガネをかけたヒロインのギャップに、本当は溺愛しているのに不器用であるがゆえにぶっきらぼうに接してしまったヒーローがノックアウトされるお話。

「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。

椎名シナ
恋愛
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」 ーーかつて私、エリアーナ・フォン・クライネルは、婚約者であったクラウヴェルト王国第一王子アルフォンスにそう蔑まれ、偽りの聖女マリアベルの奸計によって全てを奪われ、追放されましたわ。ええ、ええ、あの時の絶望と屈辱、今でも鮮明に覚えていますとも。 ですが、ご心配なく。そんな私を拾い上げ、その凍てつくような瞳の奥に熱い情熱を秘めた隣国ヴァルエンデ帝国の若き皇帝、カイザー陛下が「お前こそが、我が探し求めた唯一無二の宝だ」と、それはもう、息もできないほどの熱烈な求愛と、とろけるような溺愛で私を包み込んでくださっているのですもの。 今ではヴァルエンデ帝国の皇后として、かつて「無能」と罵られた私の知識と才能は大陸全土を驚かせ、帝国にかつてない繁栄をもたらしていますのよ。あら、風の噂では、私を捨てたクラウヴェルト王国は、偽聖女の力が消え失せ、今や滅亡寸前だとか? 「エリアーナさえいれば」ですって? これは、どん底に突き落とされた令嬢が、絶対的な権力と愛を手に入れ、かつて自分を見下した愚か者たちに華麗なる鉄槌を下し、大陸一の幸せを掴み取る、痛快極まりない逆転ざまぁ&極甘溺愛ストーリー。 さあ、元婚約者のアルフォンス様? 私の「穀潰し」ぶりが、どれほどのものだったか、その目でとくとご覧にいれますわ。もっとも、今のあなたに、その資格があるのかしら? ――え? ヴァルエンデ帝国からの公式声明? 「エリアーナ皇女殿下のご生誕を祝福し、クラウヴェルト王国には『適切な対応』を求める」ですって……?

処理中です...